第9話 失望

 アドリエンヌがエリオットとの婚約を彼から提案されてから早数日。今日もアドリエンヌは裏庭で、授業の合間の時間を潰していた。


 このところずっとアドリエンヌの傍についていたエリオットだが、今日はどうしても片付けなければならない侯爵家の仕事があるとのことで、学園に姿を現していない。


 たった一日とはいえ、彼はアドリエンヌを一人にすることを大層憂いでおり、「学園に行く振りをして侯爵家においで」とまで言ってのけたのだが、正式な婚約者でもないのにそこまでの迷惑はかけられないと、アドリエンヌが辞退した形だ。


 きっとエリオットは、今この瞬間もアドリエンヌのことを心配しているのだろう。素直にそう信じられるくらいには、エリオットに向けられる想いはまっすぐで、真摯なものだとアドリエンヌは思っていた。


 ……あんまりエリオットのことばかり考えていると、何だか恥ずかしくなってしまうわ。


 ついこの間まで幼馴染だと思っていた相手から愛を告げられるというのは、やはり恥ずかしいものだ。アドリエンヌは油断すれば熱を帯びそうになる頬にそっと手を当てながら、気を取り直して手元の本に視線を下ろした。


 クロエに宣言した通り、彼女の嫌がらせの一件を調査することを諦めたわけではない。ただ、ジェイドに詰め寄られ、エリオットが不在の今は、あまりにも間が悪すぎるので様子を窺っている状態だった。


 たまには、こんな平穏な日も悪くないのかもしれない。木漏れ日を浴びながら、好きな本を読むだけの一日というのも。


 だが、そんなアドリエンヌの平穏に終止符を打つように、不意に彼女が読む本に影が落ちてきた。


 ゆっくりと顔を上げたアドリエンヌの目の前にいたのは、緩やかな風に白い髪をなびかせるクロエだった。


「……クロエ」


「御機嫌よう、アディ。随分真剣に本を読んでいるものだから、声をかけるか迷ってしまったわ」


 クロエはアドリエンヌの傍に近寄ると、「隣いい?」とだけ断って彼女の隣に腰を下ろした。日差しに当たりすぎると体調を崩してしまうクロエだが、アドリエンヌが今過ごしている場所は木陰に設置されたベンチなので、クロエにとってもいくらか良いだろう。


「……あまり私に近寄っては、ジェイド様に叱られてしまうのではありませんか?」


 もっとも、クロエを溺愛するジェイドが彼女を叱るかどうか、アドリエンヌは判断しかねたのだが。


 クロエはアドリエンヌの瑠璃色の瞳を見据えると、くすくすと笑ってみせる。その表情は、親友だったころにアドリエンヌがよく見ていたものと何ら変わりなかった。


 クロエは、何も変わっていないのだ。アドリエンヌが孤独に苦しみ、絶望していた間にも、その微笑みを失うことなく、誰からも愛されたままに過ごしていたのだ。


 その事実が、どうしてかアドリエンヌをほんの少しだけ苛立たせた。それこそ逆恨みもいいところだと思うのだが、看過するにはあまりに痛みを伴う苛立ちで、やるせない気持ちを抑え込むのに必死だった。


 ……こんなに簡単にクロエに苛立ってしまうなんて、自分が嫌になるわ。


 クロエに気づかれない程度に呼吸を整えて、アドリエンヌは「瑠璃姫」の名にふさわしい美しい微笑みを浮かべる。


 クロエは自身の頬にかかった白い髪を耳にかけ、アドリエンヌを一瞥した。


「このくらい、平気よ。ただ、今日はこの間のあの人の非礼を詫びたくて」


 やはり、クロエの口からジェイドを「あの人」と形容する言葉が出る度に、心の奥底が抉れていくような感覚を覚える。


 それはいつの間にか、ジェイドに向けた初恋の名残なんていう可愛いものではなくなっていて、クロエに対する疑念と嫉妬が入り混じった、醜い感情が刺激されて、一層心が重苦しくなるような気がした。


「……わざわざクロエに謝ってもらわなくても大丈夫ですわ」


 微笑むように告げたつもりが、言葉には隠し切れない苛立ちが滲んでいて、これにはアドリエンヌ自身も戸惑ってしまった。


 クロエは渡り廊下ですれ違った時のように、曖昧な笑みを浮かべながらも視線を彷徨わせる。


「……あのあと、大丈夫だった? 痣がないところを見ると、お兄様には許してもらえたようだけれど……」


 ……お兄様に許してもらえた、ね。


 いちいち引っかかる言い方をすることに、アドリエンヌは小さな不快感を覚えたがやはりぐっと我慢した。


 クロエは以前からこのような物言いが多かったし、それは何も悪気があってしているわけではないと分かっていた。皆に守られ真綿に包まれて生きてきた彼女だから、自分の思ったことを包み隠さず口に出してしまう。


 ある意味でそれは、純粋無垢とでも形容すべき彼女の長所でもあるので、今までは何とも思っていなかったのだが、彼女に疑念を抱いた今となっては、どうにも苛立つ話し方をする相手なのだと思い知った。


 ……やっぱり、もう、以前のような親友には戻れないのかもしれないわね。


 アドリエンヌは、先ほどのクロエの言葉をきっかけに、クロエとの友情を取り戻したい、という気持ちが薄れ始めていることに気づかされた。彼女に歩み寄ろうとすればするほど、ジェイドに詰め寄られたり、学園の生徒からは一層白い目で見られたり、とあまりにも弊害が多すぎるのだ。


 それでも、今まではその弊害すらも苦ではないと思っていた。再びクロエと笑いあえるのなら、このくらい耐えてみせると意気込んでいた時期もあった。


 だが、残念ながら、今のクロエには数々の弊害を乗り越えてまで、再び親友になりたいと思えるほどの魅力を感じない。


 それは、アドリエンヌが彼女に対する疑念を拭いきれていないためかもしれないが、一度生まれてしまった溝は、そう簡単には埋められるようなものではないのだと思い知る。


「……エリオットが庇ってくれたのです。お陰で殴られずに済みましたわ」


「まあ、エリオットが? なかなかやるわね、彼も」


 きらきらと目を輝かせるクロエに、アドリエンヌは曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。


 ……彼女は今、どんな気持ちで私と話しているのかしら。


 どこか苦々しい思いと共に、アドリエンヌはただクロエの話に耳を傾けた。


「エリオットは昔からアディのことが大好きだものね。昔はやきもちを焼いたものよ。だって私の初恋はエリオットですもの」


「……そうですか」


 クロエとちゃんと話合いたいと思ったのは他ならぬアドリエンヌだが、今はとても彼女と恋の話に花を咲かせるような心境ではない。


「アディも『エリオットと結婚する』なんてはしゃいでいたじゃない。アディはいいなあって羨ましく思ってたわ」


 クロエは良き思い出を懐かしむかのように笑った。


 アドリエンヌも礼儀程度に彼女に合わせて微笑んだが、続く彼女の言葉に遂に表情を凍らせてしまった。


「私って、アディが好きになった人を好きになってしまうのかもしれないわね」


 クロエにとっては何気ない発言のつもりだったのかもしれない。


 だが、その一言は、アドリエンヌの逆鱗に触れるには充分だった。


 ……私が好きになった人を好きになるですって?


 嫌がらせの犯人が誰であったにせよ、ジェイドの方からクロエに近付いてきたにせよ、クロエがジェイドの想いを受け入れて、今やのうのうと彼の婚約者の座に収まろうとしていることは確かなのだ。


 いくらクロエもアドリエンヌに対して疑念を抱いているとはいえ、婚約者を奪われたアドリエンヌの気持ちを少しも思いやらないようなその発言に、アドリエンヌは吐き気を覚えた。


「……アディ?」


「……ごめんなさい、少し気分が悪くて」


「まあ、大丈夫? 人を呼ぶ?」


 この状況で人を呼ばれたら、非難されるのはまず間違いなくアドリエンヌだ。人に囲まれ、鋭い視線を浴びせられる状況を想像しただけで頭が痛むのを感じながら、アドリエンヌは本を閉じ、よろよろとベンチから立ち上がった。


「……いいえ、大丈夫です。御機嫌よう、クロエ」


 力ない声で挨拶だけは交わし、アドリエンヌは木陰から離れる。


 ……調査が進んで、クロエに身の潔白を明らかに出来たらいいと思っていたけれど、その意思すら揺らいでしまいそうだわ。


 懸命に吐き気を堪えながら、アドリエンヌはクロエから死角になる校舎の影にずるずるとへたり込んだ。

 

 ……彼女ともう一度ちゃんとお話が出来たら、それで……それできっとお終いにしよう。


 クロエとの友情はもう、取り返しのつかないほどに壊れてしまったのだ。

 

 しかも、その事実に胸を痛めているのはアドリエンヌだけなのだと思い知ったような気がして、彼女は込み上げる笑いを押さえることが出来なかった。


 アドリエンヌは、その壊れた友情の欠片を必死に集めて元通りになる日を夢見ていた。全て拾い上げて、鏡のように修復できたのなら、今まで通り幼馴染として笑い合えるのだと思っていた。


 だが、クロエはいとも簡単に、僅かに残った欠片までも踏み砕いていったのだ。その光景を目の当たりにしたアドリエンヌは、虚無感とも疲労感ともとれぬもやもやとした感情に、心が蝕まれていくのを感じた。


「……馬鹿馬鹿しいわ」


 校舎の壁にもたれかかりながら、アドリエンヌはそっと瞼を閉じて、くすくすと笑う。


 自嘲気味なその笑みの間に、ぽたり、と一粒の涙が零れ落ちた。


 壊れた友情に縋り付いていた自分があまりにも滑稽な気がして、笑いながらも泣けてきたのだ。


「アディ?」


 まるでタイミングを見計らったかのようなその呼びかけに、アドリエンヌは顔を上げる。彼女の前には、今日は学園にいないはずのエリオットが悲痛そうに顔を歪めて立っていたのだ。


「……エリオット、どうしてここに――」


「――君が心配だから、侯爵家の仕事を急いで終わらせてきたんだ。それより、何で泣いているの?」


 エリオットは深い紫色の瞳を翳らせて、アドリエンヌの前に詰め寄った。そのただならぬ雰囲気に、アドリエンヌは思わず息を呑む。


「……ちょっと、色々あったのです。大したことじゃありませんわ」


 先ほどのクロエとの一件を一から説明するのは御免だった。アドリエンヌは頬を伝っていた涙を拭い、気丈に笑おうとしてみせたが、エリオットがそれを許さない。


「……君は些細なことで泣くような人じゃない」


 アドリエンヌを壁際に追い詰めるようにして、エリオットは囁く。熱を帯びたような彼の視線に戸惑いを覚えて、アドリエンヌは咄嗟に視線を逸らしてしまった。


「……近頃はずっと、泣いてばかりいますわ」


「それでも、意味も無く泣いたりはしないはずだ。何があったの?」


 エリオットに逃げ道を塞がれてしまったアドリエンヌは、視線を彷徨わせる。これは、言わなければ解放してくれなさそうだ。


「……クロエと、少し話をしたのです」


「クロエと?」


 エリオットはあからさまに表情を曇らせる。アドリエンヌは正直に彼に打ち明けた。


「……彼女と話していたら、何だか馬鹿らしくなってしまって。壊れた友情に縋っていたのは、どうやら私だけだったようです」

 

 事の次第を明らかにした後、アドリエンヌが笑うようにそう告げれば、エリオットの瞳の翳りは一層強くなっていた。


「本当に……どいつもこいつも君の心を揺らがせてばかりで嫌になる」


 囁くような声でエリオットは笑ったかと思うと、アドリエンヌの瑠璃色の瞳を見据えて続けた。


「クロエは、どこまで君を傷つければ済むんだろうね。……これで一連の事件の真相もクロエの自作自演だとしたら……僕はあの子と幼馴染だった過去を呪うよ」


 大袈裟な言葉だったが、エリオットだけはアドリエンヌの味方なのだと思わせてくれるには充分で、アドリエンヌは再び泣きたいような気持ちになってしまった。以前はあんなに泣くことを嫌がっていたのに、自分でも驚くほどの変化だ。


 ……これも、エリオットが優しくしてくれるからかしら。


 人に寄りかかることを恐れていたというのに、いつの間にかエリオットはアドリエンヌにとってかけがえのない存在になっていた。それを実感したアドリエンヌは、そっとエリオットを抱きしめる。


「……あなたは、どこまでも優しいのですね、エリオット。あなたがいて下さってよかった」


「っ……不意打ちは反則だよ、アディ」


 アドリエンヌをそっと抱き留めながらも、照れたように耳の端を赤くするエリオットを見て、アドリエンヌはくすくすと笑った。先ほどとは違い、穏やかな感情から来る幸せな笑みだった。


 それを見たエリオットも、安心したと言わんばかりに小さく息をつき、彼女を抱きしめたままそっと淡い金の髪を撫でる。アドリエンヌもそっと目を閉じて、その優しい手の感触に身を委ねていた。


「……ねえ、アディ。もういっそ、学園を辞めてロル侯爵領で暮らすのはどうだろう?」


「え?」


 あまりにも突然の提案に、アドリエンヌは目を瞬かせた。エリオットは小さく微笑みながらも、至って真剣に告げる。


「……この場所は、君を傷つける人があまりに多すぎる。僕はこんなところに君を置いておきたくないよ。君に対する冷たい視線だって、この学園の中だけのものだ。侯爵領に行けば、誰もが君を次代の侯爵夫人として丁重に扱うよ」


「侯爵領に……」


 それは、あまりにも魅力的な提案だった。学園の冷たい視線から、アドリエンヌを虐げる兄から逃れて、優しいエリオットと二人で暮らせたらどんなにいいだろう。それがまるで天国の光景のように思えてしまうくらいには、アドリエンヌの心は追い詰められていた。


 そう遠くない未来、その道を選ぶのだという予感はアドリエンヌにはあった。今更、エリオット以外の男性の手を取る気もない。学園だって、学問よりも社交を重んじる場所だと思えば、既にアドリエンヌにとって用はなかった。


 だが、それでももう少しだけ抗ってみたいと思うのだ。それはエリオットが寄り添ってくれたおかげで、少しだけ心の傷が癒えたからこそ願えることなのかもしれない。


「ありがとうございます、エリオット。ですが……せめて、クロエの嫌がらせの一件の犯人が明らかになるまでは、学園にいようと思うのです」 


「……クロエはもう、君にとって大切な人でもないはずなのに?」


「……出来ることならば、一連の事件の詳細を明らかにして、クロエにきっぱりとお別れを告げてから、その後であなたの手を取りたいですわ」

 

 思い切って自分の気持ちを打ち明けてみたアドリエンヌだったが、エリオットの表情が曇っていることに気づき、口を噤んだ。


 ……エリオットは親切で言ってくれたのに、あまりに失礼だったかしら。


 今や唯一のアドリエンヌの味方と言っても過言ではないエリオットに嫌われたらどうしよう、とアドリエンヌは恐怖を覚えた。それくらい、今やエリオットはアドリエンヌにとって大きな存在なのだ。


「これ以上、君をあいつらの目に触れるところに置いておきたくないんだけどなあ……」


 エリオットは吐息の混じった声で囁いたが、夏の風が彼の言葉を攫って、アドリエンヌの耳には届かなかった。


「……ごめんなさい、何か仰いましたか?」


「いいや。……君がそのつもりなら、僕は協力するまでだよ。もう少しだけ、頑張ろうか」


「ええ、ありがとうございます、エリオット」


 珍しく朗らかな声を上げるアドリエンヌに、エリオットは静かに微笑んだ。


 彼の瞳の翳りが未だ晴れないことは気にかかったが、アドリエンヌはそっと彼の方に頭を預け、もう少しだけクロエと向き合ってみようと改めて決心したのだった。

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