第6話 依存

 それからも、アドリエンヌの地獄のような日々は続いた。


 相変わらず学園の生徒たちからは避けられ、近頃では教師たちでさえアドリエンヌを遠ざけるようになった。アドリエンヌが学園内をうろつけば、たちまち生徒たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまう。


 生徒たちの心情としては、特別アドリエンヌが憎い、というわけでもないのかもしれない。


 恐らくは、アドリエンヌがクロエに対する嫌がらせの主犯格であるかどうかすらどうでもよかった。ただ、王国でも有数の名家であるレニエ公爵家といざこざを起こしているアドリエンヌと関わりたくない、というのが生徒たちの本音だった。


 アドリエンヌもそれを察しているだけに、くよくよと悩まず、気丈に振舞おうとしていたのだが、一人ぼっちの日々が長引くと自然と心は疲弊してくる。


 アドリエンヌは、学園へ赴く足が重くなって初めて、自分の心がかなり弱っていることに気が付いた。


 何でもないと思っていたジェイドとの会話も、生徒たちから向けられる蔑みと憐みの視線も、確実にアドリエンヌを追い詰めていたのだ。正直、クロエの嫌がらせの調査どころではないような心理状態だった。

 

 ロザリーやエリオットは、当然ながらそんなアドリエンヌのことを心配していた。今朝だって、アドリエンヌは「今日はお休みになられてはいかがですか」というロザリーの心配を振り切って、無理やり学園にやってきたのだ。


 学園を休んだなんて兄に知られたら、きっとただでは済まされない。ようやくこの間殴られた頬の痣が消えたというのに、また新たな傷を作られては敵わない。何より、今、物理的に痛めつけられたら、心までも壊れてしまいそうな気がして怖かったのだ。


 アドリエンヌは今日も機械的に授業を受け、休み時間になった途端に裏庭へと駆けこんだ。吐き気にも似た重苦しい感情に、思わず芝生の上にしゃがみこむ。


 ……情けないわ、こんなことで立ち止まってしまうなんて。クロエと仲直りするために調査をしようって決めたのでしょう?


 アドリエンヌは自身を奮い立たせるように自分に問いかけたが、今となってはその願いすらも揺らいでいることに気が付いて、茫然とした。


 何を隠そう、エリオットにクロエが怪しいと告げられて以来、アドリエンヌの心はずっと揺らいでいるのだ。


 無理もない。クロエと仲直りしたい、という願いだけが追い詰められたアドリエンヌを繋ぎとめる細い糸だったのに、それすらも今、断ち切られようとしているのだから。


 だからと言ってエリオットを責めるわけにはいかないのだとアドリエンヌには分かっていた。誰よりもアドリエンヌの味方になってくれる彼はただ、アドリエンヌのことが心配で適切な助言をくれただけ。彼を責めるなんてお門違いもいいところだ。


 ……ああ、でも、そうしたら、私は一体何に縋ればいいの。


 親友も、婚約者も失って、親友と仲直りするという願いすら揺らいでいる。それでも尚気丈に立ち上がることこそが、伯爵令嬢としては望まれるべき姿だと分かってはいても、もうどうにも体が動かなかった。


 ……誰か、誰か、助けて――。


「――エリオット」


 ほとんど無意識のうちにその名を呼んだことに気が付いてアドリエンヌははっとしていた。


 ……私、いつの間に、こんなにエリオットのことを頼りにしていたのかしら……。


 それは、自分でも怖いくらいの変化だった。


 もともとアドリエンヌは、常に誰かに寄りかかっていなければ生きられないような、そんな儚い心の持ち主ではない。大切な人は沢山いるが、依存するほどのめり込むような相手はいなかった。


 だが、今アドリエンヌがエリオットに向ける感情は、今まで彼女が知らなかった依存という状態に近いような気がして、思わず身震いしてしまう。


「……アディ!? どうしたの、こんなところに座り込んで……!」


 心底心配そうな声で駆け寄ってくるのは、他ならぬエリオットだ。アドリエンヌはたった今自身が気付いてしまったエリオットへの感情に戸惑いながらも、彼の手を借りてその場に立ち上がる。


「体調が悪い? また誰かに何か言われた?」


 アドリエンヌの顔を覗き込むようにして、エリオットは彼女に詰め寄った。アドリエンヌは瑠璃色の瞳を揺らがせたまま、たった今自分が気付いてしまった心の状態を彼に告白する。


「エリオット……私、怖いのです」


 アドリエンヌは、潤んだような瞳で、ただただエリオットを見つめ続けていた。


「私……このままでは、際限なくあなたに寄りかかってしまいそうで……。あなたは、とても優しいから……私……」


 アドリエンヌにしては珍しく要領を得ない言葉に、エリオットは戸惑っていた。深い紫色の瞳が、アドリエンヌを映し出しながらも揺らいでいる。


「アディ……」


「伯爵令嬢として、こんなことではいけないと分かっております。ちゃんと前を向いて、身の潔白を明らかにしなければならないのだとも……。でも……でも、このところずっと心が重くて、苦しくて――」


 アドリエンヌがその言葉を最後まで言い終えることはなかった。エリオットが、彼女の細い体を不意に引き寄せたからだ。


 驚きに身を固くするアドリエンヌの耳元で、エリオットは静かに囁く。


「当然だよ、アディ。そういう気持ちになるのは当然だ。ここは君にとってあまりにも残酷な場所だから……誰かに縋りたい、って思うのは、ごく自然な気持ちなんだよ、アディ」


 子供に言い聞かるような穏やかな物腰で、エリオットは続ける。


「ここで我慢をしたら、きっと君は壊れてしまう。そんなの、僕は嫌だよ」


 エリオットの声は震えていた。その言葉通り、アドリエンヌの心が壊れてしまうことを何より恐れているかのような震え方だった


「僕に寄りかかることで少しは気が楽になると言うのなら、好きなだけそうしていればいい。クロエの件だって、無理に調査を進める必要はないんだ。今は、君の心の傷を癒すことの方が大切だよ」


 アドリエンヌを励ます言葉の一つ一つが温かすぎて、遂にアドリエンヌはぼろぼろと泣き出してしまった。小さく嗚咽を漏らす彼女の頭を、エリオットが静かに撫でる。その手がやっぱり優しすぎて、アドリエンヌは余計に涙を流してしまう。


「っ……あなたは、どこまでも私に優しくしてくださるのですね」


「それはもちろん。だって僕はアディのことが大好きだから」


 耳元で囁くように告げられた声に、アドリエンヌは泣きじゃくりながらも、頬が熱を帯びるのを感じた。

 

「ふふ……あなたはいつまで経っても、幼い頃のあなたと同じようなことを仰るのですね」


「どうかな、クロエが君に抱く感情が変わっていったように、僕の君に対する好きも変化していると思うんだけど」


「え……?」


 アドリエンヌはエリオットの腕の中で思わず顔を上げた。エリオットは意味ありげにふっと微笑むと、アドリエンヌの頬についた涙を指先で拭う。


「鈍感なアディ、そういうところも好きなんだけどね」


 至近距離でエリオットに甘く微笑まれたアドリエンヌは、長い睫毛を何度か瞬かせながら、思わず視線を逸らした。


 ここまで言われて、全く何も察しないほどアドリエンヌも鈍いわけではない。泣いたのとは別にして、心臓がどくどくと脈を早めているのを悟った。


「っ……あまり、からかうのはよしてくださいませ」


「からかってなんか無いよ、全部、本当のことだから」


 エリオットはどこか愉し気に微笑むと、アドリエンヌの淡い金の髪をそっと耳にかけた。


 壊れ物に触れるかのようなその仕草一つ一つに、アドリエンヌを慈しむようなエリオットの好意を感じて、アドリエンヌはますます頬を赤く染めてしまう。


 追い詰められ、光を見失おうとしていたアドリエンヌに、彼の優しさはあまりにも鮮烈だった。


 このまま彼に寄りかかってもいい。その甘い囁きに、今すぐ身を委ねてしまいたくなってしまう。


「さあ、お昼ご飯を食べよう。泣いて疲れただろう? ちゃんと食べないと、余計に塞ぎ込んでしまうよ」


 エリオットのもっともな助言に誘われるまま、アドリエンヌは彼の手を取って歩き出す。その心境は、エリオットが裏庭に現れる前とは比べ物にならないほどに晴れ晴れとしていた。泣いてすっきりした部分もあったのかもしれない。


 ……そうよ、焦ることはないのだわ。私には、エリオットもいてくれるのだから。


 エリオットという心強い大切な味方がいることに、深い感謝の念を覚えながら、アドリエンヌは今日も彼と共に時間を重ねていくのだった。

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