第二話 アステリオスⅠ(16)

「少し休憩しよう」

 日下部が立ち上がり、後ろにある台所へ向かう。

 コップを二つ手に取ると、水を注ぎ、そのうちのひとつを和弘に手渡した。

 コップを受け取ると、日下部は自分の分をぐいっとの一気飲み、シンクに置き、取り出した煙草の箱を和弘に見せつけ、リビングを出て行った。

 それを見送ってから、和弘はコップに注がれた水をひと口だけ口に含み、テーブルに置いた。

「和弘……さん」

 か細いその声に、和弘は振り返った。

 ソファーで横になってモッズコートを布団がわりにしている春花が、目を開いていた。

「眠れないのか?」

「……」

 春花は何も言わず、ただじっと和弘を見つめていた。

「傷は、大丈夫、なんですか?」

 少しおどおどした感じで、言葉を切りながら春花が訊いてくる。

「ああ。傷も塞がっている。キミのおかげだ」

 そう言うと、春花は少しだけ困ったような表情をした。

「私、思い出せないんです」

「事故の影響だ。仕方がない」

「でも!」

 春花が起き上がり、声を上げる。

 モッズコートがずれ、床に落ちる。

「でも……思い、出したいん、です……」

 堪えるように、春花が背中を丸くし、わななかせる。

「この傷」

 そう言って、和弘はシャツをまくり上げ、腹部を露にした。

 それを見た春花が、驚いたように肩をびくつかせる。

 だが、それは肌を見せたからではない。

 余計な脂肪が一切なく、引き締まった腹筋。

 その左脇部分に貼られた大きいサイズの白い絆創膏。

 それを剥がして見せる。

 絆創膏で隠された部分にあったのは、三センチほどの傷だった。

 その傷はナイフによる創傷で、縫われた痕もあった。

「この傷を縫ってくれたのが、キミだ」

「本当か?」

 その声は、廊下に通じるドアからした。

 顔を向ければ、一服し終えた日下部が戻ってきていた。

「キミは医者――特に救急医療に従事したいと言っていた。そのために縫合の練習もしていたと」

「え? どうしてそれを――」

「キミから訊いたことだ」

「……教えてください。私と、和弘さんが出会ったときのことを」

「俺も訊きたい」

 席に戻る日下部。

「そうだな」

 和弘はシャツを戻すと、テーブルに対して横に座り直した。

「俺も気を失っていたから、これもキミの父親から訊いた話だが――」

 そして、和弘は続きを話し始めた。


            ※


「春花!」

 家に辿り着き、麻袋を引きずるようにして玄関まで上がった史人は、そこで娘の名前を叫んだ。

「お父さん、どうし――!」

 史人の叫ぶ声に只事ではないことを察したのか、春花が二階の自室から出てくるなり階段の途中で立ち止まった。

「な、なに……それ……」

 それ呼ばわりされたことに、史人は麻袋のままであることに気づいた。

 靴を蹴るようにして脱ぎ、縛りを解く。

 その間に春花が階段を下りてくると、史人がしていることを不安そうに見ていた。

「驚かないでくれ」

 そう言いながらも、無理なお願いだと思った。

「春花――お前には無茶な頼みをする。だけど、お前しか頼れないんだ」

「それって……」

 縛りをとき、包まれていた中身を露にさせる。

「ひっ――!」

 その中身に、春花が引きつったような声を上げ、後ろに下がるも、階段に足をぶつけ、そのまま階段に尻餅をついた。

「そ、それって……し、死体――」

「いや、死んでない……はずだ」

 麻袋から現れたのが男で、全身が汚れて腹部が赤く染まっているのを見れば、それを死体と思い込んでも仕方がない。

 そもそも、ここまで生きながらえているかも確認しなければならない。

「春花、事情はあとで話す。だから、まずは彼を助けてあげてほしい」

「そ、そんなこと、急に言われても……それに、私にできるわけ――」

「お父さんだって馬鹿じゃない。お前が人を助けるための勉強や練習をしていることくらい、知っている」

 その言葉に、春花はやはり隠していたつもりなのだろう、驚いた表情を浮かべた。

「びょ、病院には?」

「行けない。事情があるんだ。行けば助かるかもしれないが、その後に殺される」

「こ――な、何、なんでそんな、お父さん、何を――」

 あまりの状況に、まだ十四の春花が対応できるはずもなく、

「頼む、春花」

 史人は頭を下げ、そのままでいた。

 春花に考える時間を与え、頷いてもらうために。

「……ぁ……ぁ……ぁ」

 春花の息遣いが聞こえる。

 目の前の状況に、極度に緊張しているのだ。

 そのせいで呼吸が浅くなり、おそらくは尻餅をついてよかっただろう、立っていたら、立ち眩みで倒れていたかもしれない。

 やおら、ぎしっと音がした。

 頭は上げず、顔だけを上げて見ると、春花が階段から尻を上げて床に膝をつき、右手をそっと和弘へと伸ばしていた。

 その右手が、和弘の首筋に当てられる。

「春花」

「……生きてる」

 脈を感じ取った春花が、そう告げた。

「この人、まだ生きてる」

「ホントか!」

「でも、すごく脈が弱い。血も全然足りない。この人、血液型は?」

「た、確か……」

 相馬和弘の個人資料を思い出す。

 そして、和弘の血液型を告げた。

「よかった。それならお父さんと同じだ」

「え?」

「お父さんも協力して。私も、なんとかやってみるから」

「わ、分かった。なんでも指示してくれ」

「うん」

 一度やると決めた春花は、それからはまるで別人のように動き出した。

 前に一度だけ、春花がいないときに、部屋を覗いたことがあった。

 悪いとは思っていたが、気になって仕方がなかったのだ。

 ベッドの下に通販サイトの段ボール箱があり、その中を見ると、ガーゼや包帯、消毒液、縫合セット、手術用ゴム手袋などなど、治療するために必要なものが入っていた。

 しかも、非常時用に一式を揃えておいたわけではなく、どれも封が切られて、消費されていた。

 つまり、使用していた――練習していたということになる。

 そのことに気づいたのは、夕ご飯を作ってくれている春花の料理に、妙なものがあったからだった。

 鶏のモモ肉を焼いたシンプルな料理。

 皮はカリカリに焼かれていたが、その皮にまっすぐな切り口があったのだ。

 しかもよく見ると、切り口の左右には小さな穴が並んでいる。

 史人は不思議に思いつつも、料理のひと手間なのだろうと思い、そのまま食べた。

 だが、その間、春花が不安そうにこっちを見ていたのだ。

 食べきったところで春花は露骨にホッとしたような表情を見せ、これは何かあると思い、史人は寝室に戻ると、改めて思考を巡らせた。

 そして、春花がよく医療ドラマを見ていたことを思い出した。

 その中でも繰り返し見ていたのは、救急救命を扱ったドラマだった。

 救急車で運ばれてくる患者に対し、最初に治療に当たる人たち。

 一刻の猶予もなく、即座に患者の状態を判断し、適格な治療を施す。

 時には現場へ、時にはただの軽傷で来るような患者に対しても治療を施す。

 そのドラマを春花は食い入るように見ていた。

 小さな女の子にやさしく接し、丁寧にそっと傷を数針縫うシーンで、春花はその医師と同じように手を動かしていた。

 それを思い出した史人は、もしかして鶏肉の皮を人の皮膚に見たてて縫合の練習をしていたのではと思い至ったのだ。

 それが気になり過ぎて春花の部屋に入ってしまったが、予想は当たった。

 しかも、その本気度が史人の思っていた以上で、春花は将来その道に行きたいんだと確信した。

 原因――きっかけは、おそらく母親の死だろう。

 ビル爆破テロで亡くなった人たち。

 だが、それ以上に負傷者の数がすさまじかった。

 爆破され、倒壊したビル。

 それに巻き込まれた人たち。

 何台もの消防車や救急車、パトカーがサイレンを響かせ、消防隊員は救出に向かい、救急隊員は負傷者のトリアージを行い、警察は現場の保全を行っていた。

 そのままでは死ぬ運命だった人たちの命を救った救急隊員。

 それを、春花は見ていたのだ。

 当初は、そこに母親がいないかどうかを見ていたのだろう。

 それが今、成長した春花の心に変化を与えた。

 自分も誰かを助けられる人になりたい、と。

 史人はそれらを見なかったことにし、春花が成長し、自分の口から将来のことを話してきたならば、応援しようと思っていた。

 だが、まさかこんな形でバレてしまうとは思わなかった。

 それでも、今はそれが結果的に功を奏したのだ。

 春花のことを知らなければ、史人は決死の覚悟で和弘を病院に運んでいただろう。

 もちろん、春花に治療させるよりは何十倍も生存率は高くなる。

 だが、和弘の生存がバレれば、その後に待つのは絶対的な死だ。

 SIAやIATに悟られたら、証拠隠滅のために殺される。

 それは同時に、和弘を助けた史人、そして家族である春花にも影響を及ぼす可能性だってある。

 だから、今は春花に頼るしかない。

 春花の指示に従い、史人は動いた。

 そして、春花の治療は見事に成功したのだった。

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