第一話 アリアドネ(12)
「相馬さん? どうしたんですか、こんな時間に」
後ずさりながら訊ねる美鶴に、相馬がこの状況には不釣り合いに感じる笑みを浮かべていた。
美鶴のそれとは違う、貼りつけたような笑み。
「仕事をしに来たんですよ」
「仕事、ですか……」
両手を前に出して、相馬の動きを止めようとする美鶴だったが、構わず奥へと進む相馬に、美鶴も気圧されるように下がっていった。
その状況に、春花は恐怖を感じていた。
得体の知れない、何かが起きようとしている。
「い、一体、何なんですか!」
ついに美鶴が踏み留まり、相馬の胸を押すようにして足を止めさせた。
「仕事って、いくらなんでも、非常識ですよ」
あんなに春花のことを思って真摯に向き合ってくれた相馬を、今は怖いと感じてしまっている。
それは美鶴も一緒で、声を張り上げるも、その声には震えが混じっていた。
それでも美鶴は立ち向かってくれている。
それが、唯一の春花の心の支えとなっていた。
「いや、この時間で間違ってはいない。俺たちの仕事は」
俺たち――と相馬は複数形で言った。
それを合図にするかのように、ドアが開かれ、そこから若い男が顔を出した。
「大声を出しますよ」
「好きなだけ叫んでもらっても構わん」
どうぞ、と言わんばかりの相馬の表情に、美鶴は叫ばず、むしろそこから春花のベッドの向かいにあるベッドへ飛び込むようにして手を伸ばし、ナースコールを掴むと、すぐにボタンを押した。
「無駄だ。陽動のために、外の発電設備を爆発させた。この病棟も空だ。ほら、聞こえてきただろ?」
そう言うと、その音は少しずつ春花の耳にも聞こえてきた。
サイレンの音――消防車だ。
「病棟は無人で、外ではサイレンが鳴り響いている。泣こうが叫ぼうが、誰にも聞こえない。そう、こんな大きな音を響かせてもな」
「え?」
あまりに自然な動きに、春花は目の前の光景が信じられなかった。
相馬が腰に手を回し、そこから取り出した黒い塊を跳び込んだ状態のままベッドで横になっている美鶴に向け、そして――破裂音がした。
耳を劈くような音に、全身が反射的に震えた。
同時、起き上がろうとした美鶴の体が、まるで衝撃を受けたかのように倒れた。
相馬が美鶴に向けているもの――それは、テレビの向こう側でしか見たことのないもの。
現実で、しかも目の前で見ることなんて一生に一度もないもの――なはず。
相馬の手に握られていたのは、拳銃だった。
カラン、と軽い金属音が聞こえ、床に視線を下ろすと、金色の筒が転がっていた。
銃に詳しくなくても、それが薬莢と呼ばれるものだということは、春花にも分かった。
「美鶴……さん」
呼びかけるが、ベッドで仰向けになる美鶴は動かなかった。
「や……あ……」
信じられなくて、春花は何度も首を振った。
「うそ……」
「いや」
相馬がくるりと反転し、
「現実だ」
そう言って、銃口を春花へと向けた。
「あ……」
その瞬間、記憶が甦った。
意識が朦朧とした中で、割れた運転席側の窓から伸ばされた手。
その手に握られていたのは、同じ拳銃だった。
叫ぶ父に、その持ち主が顔を覗かせて、父に何か言葉を投げかけている。
その顔――ずっと曖昧になっていた顔が、今はっきりとした。
春花は、犯人の顔を思い出したのだった。
「思い出したようだな」
その声音に、その声が相馬の口から出たものだと遅れて気がついた。
目の前の相馬和弘と名乗っていた男は、表情も声も、雰囲気さえも変わっていた。
「相馬……さん?」
「いいや。俺は相馬和弘じゃない」
「……え?」
「加納亮介だ」
「なんで……」
どうして偽名を名乗ったのか。
それに、この状況を呑み込めていない。
「あいつの名前を出して、キミの反応を試した。だが、キミは本当に記憶を失っているせいか、そもそも知らないからなのか、なんの反応も示さなかった」
何を言っているのか分からない。
「事故当時のことを思い出したんだろ? だったら、もっとよく思い出してみろ。さぁ、思い出せ」
相馬が――いや、加納がベッドの横へ移動し、もっと近くから拳銃を突きつけてきた。
その黒い穴が、まるで春花を睨みつけているようで、目が離せない。
それは恐怖であり、そして死そのものでもあった。
命を奪うもの。
「い、いや……いやああああああっ!」
春花は手で頭を庇うようにして顔を伏せた。
思い出した記憶に映るのは、無惨にも死に体となった父。
事故による傷と、そして銃撃による死。
血塗れになった顔が、こっちを見ている。
その焦点の合わない虚ろな瞳に、父が死んでいるという事実を突きつけられ、春花はそれを受け入れることができず、脳が自衛のために記憶を思い出させないようにした。
それが、美鶴のカウンセリングをきっかけに、扉が開きやすくなったところで拳銃を突きつけられ、記憶の扉を強引に開かれてしまった。
強制的に見せつけられるその光景に、春花は再び心に深い傷を負わされた。
呼吸が浅く、意識が薄くなり、放心状態に陥る。
「……弱いな」
加納が拳銃を下ろし、ドアで見張る青年に顎で春花を示す。
青年が病室に入り、春花の脇に立つと、その腕を掴み、無理やりにベッドから引きずりおろした。
春花は体を床に打ち付けるも、右腕を引っ張り上げられた状態になっていた。
それでも、春花には自らの足で立ち上がろうという意思はなかった。
「どうする?」
青年が加納に目を向ける。
自らの足で歩くこと、もしくは立つことのできない人間というのは、全体重を預けてくるため、思いのほか重く感じる。
「引きずって行けばいい」
加納がそう言うと、青年は一度手を離し、脇に腕を挟むようにして無理やりに立ち上がらせた。
青年を傍目で見やりながら、加納はスマホを取り出し、電話をかけた。
『状況は?』
「アリアドネはやはり記憶を失っています。暗号キーをおさめた記録媒体もありません」
『自宅のサーバも回収したが、プロテクトがかけられていた』
「どちらにしろ、やはり暗号キーが必要ということに……」
『あいつの姿は?』
「まだ見えません。しかし、すぐに姿を現しますよ」
『Lシステムには、二つの機能が不可欠だ。そのうちのひとつがアステリオス。そしてもうひとつが――』
「ミノタウロス」
相手の言葉を引き継ぐように、加納は言った。
「分かっています。Lシステムが稼働しなければ、アステリオスも無用の産物となってしまいますから」
『そうだ。お前たちの育成にどれだけの時間と金を要したか。後戻りはできん。『彼ら』の手を借りた以上、リターンを返さなければ。そのためのお前だ』
「必ず、
『殺しぞこないだろ? お前はアステリオス計画でも最高傑作なのだ。その経歴に
「了解」
スマホを耳から離し、通話相手の電話番号を見やる。
登録はしていないため、番号で相手の名前を思い浮かべるしかない。
「お膳立てはしたぞ。和弘」
そう言って、加納がスマホの通話を切るために画面をタップする。
同時――暗闇が視界を覆いつくした。
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