第一話 アリアドネ(5)
夢を見ていた。
あのとき――事故で意識が朦朧とするなかで見た、父に向けられた手。
だけど、今回は違う。
その手は、父ではなく、春花に向けられていた。
しかも、黒い塊もない――まぎれもない、人の肌色をした手だ。
人影が屈み、覗き込む。
「――――――――」
唇が動いているのに、何を言っているのか分からなかった。
いや、聞こえていないのだ。
直前に車内に響き渡った破裂音が耳に直撃し、さっきから耳鳴りがおさまらない。
やがて救急車両のサイレン音が聞こえると、人影は手を引き、去って行った。
まるで、後ろ髪を引かれているかのように、どうしようもない感じで――。
それが誰なのか分からない。
だけど、どうしてか分からないけど、その人影に対して、春花はどこか安心感を覚えていたような気がした。
彼なら、きっと……きっと――。
「……ゆめ」
目を覚ました春花は、思い出そうとしてもはっきりとは思い出せなくなっていた夢を、ぼんやりと反芻していた。
父を撃った手が、自分に伸ばされた手と同じだったのか。
「あの人……どこかで……」
会った気がする。
でも、思い出せない。
事故から一週間前の記憶がすっぽりと抜け落ちている春花には、あの人影が誰なのかも思い出せない。
だけど、思い出せないということは、その人影とは、たった一週間の間で出会ったことになる。
そんな短い期間で出会う人など、春花にはいただろうか。
家に引きこもって、交友関係はゼロ。
知り合いといえば、ネットの海のなかだけ。
だけどそれも表面上の馴れ合いのようなもので、心から信頼できる人なんてほとんどいない。
外がまだ薄暗い。
夢のせいで、いつもより早く起きてしまったようだ。
春花はゆっくりと体を起こすと、ベッドから降り、窓に近づいた。
病院の外が見える。
すぐ近くには薬局やコンビニがあって、その向こうには住宅街があり、さらに奥には田んぼが広がっている。
それらの風景をひと通り眺め、春花はふと病院前のバス停に目を向けた。
そこに、人が立っていた。
まだバスが来る時間ではない。
しかも、その人は向こうではなく病院側に正面を向けていた。
その人が顔を上げる。
そして、三階から見下ろす春花と目が合った。
「あ……」
その顔を見た瞬間、春花は心臓がドクンと脈打ち、思わず手を胸に当てた。
若く、精悍な顔立ちの青年だった。
長めの前髪の隙間から、鋭い視線を向けられる。
だけど睨まれているわけではなく、それがその人にとってのデフォルトで、むしろそれを知ってからは、どこかその表情が愛らしくも感じていた。
(……え?)
なんで自分は今、そんな感情を抱いてしまったのだろうか。
ドッ、ドッ、ドッ――心臓が高鳴り、頭が脈打つ。
(私は……あの人を……知って……?)
青年が踵を返すと、カーキ色のモッズコートを裾を翻しながらファーのついたフードをかぶると、去って行った。
視界から消えると同時、春花の心臓も落ち着いてきた。
後ろに下がり、そのままベッドに座り込む。
もう一度眠ることもできず、春花はしばらくの間、遠くから見下ろしていた青年のことを思い出し続けていた。
※
事件の捜査をしながら病院に足繁く通う日下部は、ちょうど春花の病室から出てきたカウンセラーの浅井美鶴を見つけると、声をかけた。
「先生」
「あ、日下部さん。こんにちは。それと、私は先生ではありませんよ」
初めて自己紹介したときも、先生呼びをしたら、先生ではないと言われた。
しかし、病院で働いている人はみな先生と呼ばれているのが普通な気がして、そう呼ぶなと言われると、逆になんと呼んでいいのか分からなくなってしまう。
「春花ちゃんの記憶の方はどうですか?」
「日に日に、記憶が鮮明になっています。でも、まだ撃った犯人の顔までは思い出せていません」
「そうですか」
「犯人イコール父親を殺した相手ですから、顔を思い出そうとするだけで相当なストレスを受けているはずです」
「ですよね」
「時間はかかるかもしれませんが、こればかりは無理強いはできませんから」
「いや、それは当然です。春花ちゃんに辛い思いをさせたくありませんから」
「記憶を思い出させようとしていること自体、辛い思いをさせているとも言えますが……日下部さんも私も、仕事として割り切るしかありませんね」
そう言って浮かべた美鶴の笑みは、どこか強がっているようで、この人は本当に春花に親身になってくれているのだと感じた。
「春花ちゃんのことを考えてくれて、ありがとうございます」
「当然です。あんなにいい子なんですから……それでも、私の立場だと、仕事だからと言われてしまうかもしれませんが」
カウンセラーは人の心を専門とした職業だ。
だから、そういった寄り添う行為も、仕事上の一環と思われてしまうことがあるのだろう。
「そんなことないですよ。春花ちゃんも、あなたと話すようになってから、笑顔が増えたような気がします。俺じゃ絶対にあんな笑顔は引き出せませんよ」
「でも、春花ちゃんにとって日下部さんは、幼い頃から知っている人ですから、そういった意味では、日下部さんが一番、春花ちゃんに安心感を与えることができると思います」
「ですかね?」
「ですです」
そう言って、お互いに笑みを浮かべた。
それから美鶴は会釈して去って行った。
振り返ってその背中を見送っていると、何かを思い出したかのように美鶴が振り返り、
「そういえば、今日の午後から、春花ちゃんにお客さんが来ますよ」
「客?」
「児童養護施設の人らしいですよ」
そう言って美鶴がもう一度会釈し、去って行く。
「はぁ……」
日下部は溜息を吐き、それから腰に手を当てて天井を仰いだ。
煙草を吸いたい気分になったが、それどころでもない。
事件ばかりで、春花自身の今後のことを失念していた。
父親の親友という立場からして、どうすればいいのだろうか。
何かできることはないのだろうか。
あれこれ考えてみるも、答えが出るはずもなく、とにかく今はこの件を話題に出さないよう心掛け、日下部は春花の見舞いに行くのだった。
※
無人であるはずの小畑家に、いくつもの人影が動いていた。
その出で立ちはまるで引っ越し業者のようで、つなぎ服に帽子を目深にかぶり、個性という印象を消し去った姿をしていた。
そして、その動きは全員がバラバラのようで、統率がとれていた。
やるべきことだけをやり、一切の余計がない。
そうして動き回る業者風のなかでひとりだけ、スーツ姿の若い女性がいた。
二階の一室。
そこは、かつて小畑史人の寝室兼仕事部屋だったようだが、作業机の上にあったと思わしきPC関係の器材はすべて消えていた。
いや、回収されたというべきか。
手がかりはここだけだったが、そう易々と証拠などの痕跡を残す相手でもない。
証人であったはずの史人は、交通事故で死んだ――はずだったが、銃で撃たれた痕があったため、殺人としてニュースに取り上げられていた。
交通事故で死んだのならば、それは単なる死亡事故のひとつに過ぎなくなる。
だが、銃で撃たれたとなれば、それはここ日本ではトップニュースとなる。
そこが腑に落ちないところだった。
ただの交通事故死として隠蔽したかった相手が、なぜ銃を使用したのか。
それが、もし史人の言っていた『生き証人』とやらの仕業だとすれば……。
「まったく、どこにいるっていうのよ、そいつは……」
その誰とも分からない謎の存在に、
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