第二章 おれ、誰?

     1

「うっしゃゴォォォーール!」


 少女は勢いよく跳ね起きると、絶叫しながら右腕を勢いよく天へと向けて突き上げた。


 しん、

 と、少女のテンションとは裏腹に、周囲は完璧なまでに静まり返っていた。


「およ……」


 反応が予期せぬものであったのか、少女はさも不思議そうな表情をその顔に浮かべると、ゆっくりと首を左右に動かして周囲を見回した。


 眼前には壁、いや、「仙八運送」と巨大な毛筆体。トラックのコンテナ側面のようだ。


 いま少女が立っているのは、片側二車線道路のど真ん中であった。

 彼女のすぐそばに、四歳くらいの小さな女の子がうつぶせに倒れている。


「あれ。ここ、石巻いしのまき駅近くの大通りか? おい、そこのお前、そんなとこで寝転がってっと危ねえぞ!」


 と、少女が一歩踏み出そうとした時である、

 歩道で固唾を飲んで様子を見守っていた通行人たちが、一斉にざわつき始めた。


 唖然とした表情の少女であったが、周囲のその反応に、突然はっとしたように、視線を落として自分の服装に目をやった。

 グレーのスカートにベスト。

 どこかの学校の女子制服である。


 この後の彼女の行動、誰が想像出来たであろうか。げげっ、と大きな悲鳴をあげると、なんと大衆の面前でスカートに手をかけて脱ごうとし始めたのである。


「なんっか感触が気持ち悪いと思ったら、なんだよこれ! 捕まっちまう! 変態罪で捕まっちまうぜ! おい、なんだよこれ、どうやって脱ぐんだよ!」


 果たして脱ぎ捨てて下着姿になるのとその服装のままでいるのと、どちらが変態罪だかは分からないが、ともかく少女は恥ずかしさを満面に浮かべて、一生懸命スカートを脱ごうともがいていた。


 どうやら周囲のざわつきを、自分の服装のせいであると思い違いをしているようであった。


 まさか自分の履いているスカートの、ホックの外しかたも知らないのか、カチャカチャカチャカチャといたずらに音を立てるばかり。腰回りをずりずり回して見たりするが、それで脱げるはずもない。

 脱げたら脱げたで、それこそ公然わいせつで逮捕されそうなものだが、表情の必死さから、そんな考えなどこれっぽっちも脳裏にないのであろう。


「だだ、大丈夫ですか! すんません、居眠りしちゃって、仕事で疲れちゃって」


 トラックの運転席ドアが開き、中から小太りの男が飛び出してくると、制服の少女の前に立って帽子を取り深く頭を下げた。


「え、え、誰、あんた。なんなの?」


 わけが分からず、少女は目をぱちくりとさせている。


 少女のそばに倒れている小さな女の子の両親であろうか、反対の側の歩道にいた二人の中年男女が、横断歩道を小走りに近寄ってきた。


「ヨウコちゃん!」


 女性に声をかけられた女の子は、地面に両手をついて、むっくりと上体を起こした。


「なんともないよ。もう雷、行っちゃった?」


 そういうと、ヨウコと呼ばれた女の子は笑った。

 二人は娘の見せた笑顔に、ようやくほっとした表情を浮かべた。


「あの、この子を助けていただいて、どうもありがとうございました」


 父親と思われる男性が、制服姿の少女に向かって大きく頭を下げた。


「いや、あの、なんだ、その」


 しどろもどろ。少女は痒くもないのに、ほっぺを人差し指でぽりぽりと掻いた。

 自分の置かれている立場が理解出来ずに、なんと返していいのかが分からないようである。


「お姉ちゃん、どうもありがとう」


 ヨウコも、大きく頭を下げた。

 まだ幼く、はっきりと事態を理解しているわけではないようだが。


「お、おう。まあ、いいってことよ、こまけえこたあ」


 少女も少女で、この状況をさっぱり理解出来ていない。でも感謝されれば気持ちはいい。と、そんな、なんともむず痒そうなはにかみ顔であった。


「ん、待てよ。……お姉ちゃん?」


 少女は思い出したように、改めて自分の服装をまじまじと見た。

 そして、この場から逃げるように、ささっと歩道の人の群れへと飛び込んだ。


「お嬢ちゃん、お父さんお母さん、そして周囲のみんな、この衝撃映像は忘れるように。うん、罰ゲーム罰ゲーム。変態なんじゃなくて、罰ゲームでこんなカッコしてるだけだから。おいてめえら、写メ撮ったりすんなよな!」


 粗野を強調するかのような、これみよがしのガニ股になって、人の群れの中を歩いていく。写真を撮られたりしないよう、携帯電話を手にしている若者を威嚇しながら。


「お姉ちゃん、忘れ物!」


 ヨウコが、道路に落ちたバッグと通学カバンを指差している。


「そんなバッグ知らねえよ。つうかお姉ちゃんじゃねえ! こんな男前のお姉ちゃんなんているわけねえだろ!」


 などと少女が抗議の叫びを上げていると、やがて遠くから、救急車のサイレン音が聞こえてきた。

 音が、どんどん大きくなってくる。

 救急車の姿が見えてきた。大通りを真っ直ぐこちらへと向かってくる。


 この事故を、誰かが通報したのであろうか。

 それにしても、早過ぎるようであるが……


 やはり、救急車の目的地はここではないようだった。

 少女らのいる一つ前の信号を右折して、施設の中へと入っていった。

 でんこうスタジアム。二万五千人収容の、サッカーラグビー兼用の競技場へと。


「そうだ。おれ……いまのいままで、そこで、試合してたはずだ」


 少女は自分の記憶を確かめるように、ゆっくりと、呟いていた。


 そのスタジアムでいまのいままで行われていたのはJリーグ、つまりは男子の試合のはずなのであるが。


「なのになんで、いつの間にか場外に吹っ飛ばされてんだよ! ギャラクティカマグナムかっつーの! つうか、吹っ飛ばされてこんな服装になるかよ! ユニフォーム着てたんだぞ! おう、わけ分かんねえぞ畜生!」


 少女は、うにゃああと叫びながら両手で頭をかかえ、足を踏み鳴らした。

 なんだかすっかり脳が混乱しているようである。


 そんな少女の苦悩も知らず、向こうから大学生くらいの若者が二人、肩を並べて歩いてきた。

 一人は携帯電話を手にしている。


「なあ、メール誰から?」

「うん。友達。いまちょうど、このスタジアムでサッカー観てるらしいんだけど、まつしまとかいう選手が、試合中にいきなりぶっ倒れたらしいぜ」

「えー、あれじゃねえの、さっきバリバリ雷すっげえの落ちたろ」

「まさか。でも、本当にそれだったりして」


 二人は楽しげに話をしている。


「松島は、ここにいんだろうが! 男一匹、まつしまゆう様が!」


 少女はそういうと、若者の肩をつかんだ。

 若者二人はお互いの顔を見合わせた。こいつ狂ってるのかな、そんな露骨な表情であった。


「試合に戻るぞおらあ! 今日こそ勝利じゃあああ!」


 少女は雄叫びを上げると、先ほど救急車の曲がっていった、スタジアム通用門へ向かって歩き出した。

 それはもう、大袈裟なほどのガニ股で。


     2 

 すぎしたたかはバケツの水の残りを花壇にまいてしまうと、モップを手に取って、エントランスへと戻ってきた。

 彼は、このマンションの管理人である。


 現在、夜の九時だ。

 五時で仕事は終了なのだが、今日はマンション管理以外の仕事が非常に忙しかった。やることをやっておかないとどうにも気持ちが落ち着かない性分で、残業代がつかないことを承知で、床の清掃に花壇の世話、ゴミ置場の整理といった業務をこなしていたのである。

 十年前に妻に先立たれて独り身、早く家に帰ったところでぼーっと時間を過ごすだけであるし。


 など、こまごまサービス残業をしていたところに、クラブ事務所から、良いとはいえない知らせが入り、自分を落ち着かせるためにますます一生懸命に働いていたところ、すっかりこのような時間になってしまったというわけある。


 ここは、サッカーJ1リーグに所属しているクラブチームであるズンダマーレみやが、選手寮として使用しているマンション。十年ほど前に親会社が買い上げた、相当に老朽化の進んだ四階建ての建物だ。


 数年前に、未曾有の大震災が東北を襲ったが、こんな建物があれに耐え抜いたのは奇跡だと、当時住んでいた選手たちは口々にいっていたものである。それくらい、建っているのも不思議なくらいボロな見た目のマンションなのである。


 管理人の杉下がエントランスに入ろうとしているところ、ガラス扉の内側に一人の少女がいるのに気が付いた。


 インターホンの数字ボタンを押しては待ち、押しては待ち。どうやら片っ端から部屋にかけて、中の住人を呼び出そうとしているようである。


 杉下はため息をついた。

 セールスや、選手の熱狂的なファンがよく使う手だ。

 誰かが出たら宅配便のふりかなにかで、オートロックを開けて貰おうと考えているのだろう。


 ホームで試合をやっているこの時間に、人が出るわけがないのに。

 何故ならこのマンションはすべて1DKの独身寮。ズンダマーレ宮城の選手しか住んでいないのだから。

 試合に出られない選手にしても、全員スタジアムに行っているに決まっている。


「あんた、なにしとんだ!」


 杉下はエントランスの外扉を開くと、大股で入り込んだ。


「おう、杉下さん。こんな時間にいるとは思わなかったよ。いやあ助かった、いいところへ来てくだすったあ。おれの部屋に入りたいんだけどさあ、鍵がなくって。なんでか分かんねえけど、こんな格好なんだもん、おれ」


 少女は大喝されてもまるで驚いた様子を見せず、むしろ馴れ馴れしげに杉下へと話しかけた。制服のスカートを両手で引っ張ったりなどしながら。


「は、誰の部屋だって?」


 杉下は驚いて目をぱちぱちさせた。

 見つかって開き直ったのか知らないが、こんな非常識でとんちんかんなことを、こんな堂々といわれたのは、この職についてから初めてだ。


「いやだなあ、もう。このもうろくクソじじいがよお。まつしまゆうの部屋に決まってんじゃーん」


 そういうと少女は、杉下の脇腹をつんつくつんつくと両の人差し指で突き始めた。


「あんた、裕司のファンの子か。……よりにもよってこんな時に来なくても。……いま、大変なことになっているというのに」


 そもそも、こんな非常識な真似をするくらいのファンのくせに、試合の日程も知らないのか。

 杉下はまたため息をついた。

 いまどきの若い者は、と。


「雷に打たれたって話、本当なの?」


 ふざけたような顔をしていた少女であったが、目の前の老人の言葉に反応し、すっと真顔に戻っていた。


「そうかどうかは知らんが、とにかく試合中にいきなり倒れたのは間違いない。それで救急車で運ばれた」

「じゃあ、さっき見た救急車は、それだったのか。……近く歩いてた奴らが、雷で倒れたんじゃねえのなんて話してたけど、でも、でもさあ、おれ、ここにいるじゃんか。倒れて病院に運ばれたのが本当だってんなら、たぶん、おれ病院から抜け出してきたんだよ。通りで救急車が通るのを見たり、おれのことを話してる奴らと会ったりしてるってのは、たぶん記憶が混乱して前後しているだけで、本当は、おれ、救急車に乗っている側だったんだよ。で、いまここにいるってことは、きっとその後、病院を抜け出してきたんだ」


 杉下に説明しているというよりは、自分自身を納得させようとしているかのようであった。


「なにをいっているのかさっぱり分からないが、とにかくそれどころじゃないんだよ。こっちは色々と大変なんだよ。さあ、帰った帰った」


 実はとっくに今回の件を知っていて発狂してしまったファンかも知れない。そう思うと可哀相な気がしないでもないが、だからといって部外者を選手の住居へ入れるわけにはいかない。


 杉下はあえて冷たい態度で、どん、どん、と少女を何回も突き飛ばすとエントランス外扉の外へと追い出してしまった。


「くっそ。むかつくなあ! なに勘違いしてんだよ、ジジイめ。ボケんの早過ぎだろ! すっかりボケてるって知ってたら金でも借りておくんだったよ。おれが病院にいるはずだからってんで、偽物そっくりさんかと思ったんだろ。違うよ。なんか気付いたら外にいて、試合に戻ろうとしたんだけど、追い払われちゃって全然会場に入れてくれねえんだもん。しょうがねえから、せめて服くらい着替えようと思ってここに来たんじゃねえか。着替くらいしたっていいだろ。こんな格好みっともねえっつーの。変態ブルセラオヤジが木造ボロアパートでこっそり楽しんでるところ火事で外に追い出されたみてえじゃねえか。いつまでもこんなん着てられっかよ。変態法違反で逮捕されちまうじゃねえかよ」

「いいから帰れ!」


 老人の一喝に少女は、


「もう頼まねえよ、クソジジイが!」


 エントランス前の階段を思い切り蹴った。靴が、革靴のくせに思いのほかやわらかく、足の指を思い切り打ってしまったようで、「ぐ」と苦痛に顔を歪ませた。


 涙目で、中指を突き立てると、足元のバッグとカバンを手に取って、ガニ股の大股で選手寮マンションを後にした。


 嵐のような少女がいなくなり、静寂だけが残った。


 顔立ちだけ見れば非常に清楚でかわいらしい感じだというのに、言動すべてことごとくが実に荒々しい少女であった。


 杉下は、ふんと鼻を鳴らした。


「口の減らない小生意気なクソガキが」


 彼は、自分の言葉にはっとして、目を見開いた。


 その言葉は、松島裕司と軽口をいい合っている時の、自分の口癖だったからだ。


     3

 選手寮マンションで管理人から冷たく門前払いをくらった少女であるが、彼女はその後、そこからすぐ近くにある児童公園へと来ていた。


 節電対策によるほの暗い灯りの下で、大股広げてベンチにどっかりと腰を下ろしている。


「ほんと頭くんな! なに勘違いしてんだか、くそ!」


 イライラとした表情で、両手で髪の毛をかき回した。


 ふと、横に置いてあるカバンとバッグに視線を向けた。

 自分の物ではないが、道で助けた(らしい)女の子にいわれて、ついつい持ってきてしまったものだ。


 少女は、さっきマンション管理人の杉下さんにいった言葉を思い出していた。

 道を歩いていて救急車を見たのは自分の記憶違い。自分はその時、乗っている側だったのだから。という言葉。


 では、その時の女の子も幻覚かなにかということになるが、ならばこのカバンはなんだ。

 ということは、あれは事実を見ていたのか。


 しかしそれならば、あの救急車には、誰が乗っていた?


 少女は、また頭をがりがりと掻いた。

 空を見上げた。


 先ほどまでは、どんよりとした分厚い雲が世の中すべてを覆い隠すような、そんな夜空であったが、現在その雲はどこへいったのか。夏の星座が覇権を競い合うプラネタリウムさながらの綺麗な瞬きが、天幕一杯に広がっていた。


 しばらく空を見上げていたが、やがて、ゆっくりと視線を下に落とした。


 カバンを手に取ると、膝の上に載せ、開いた。

 誰の物かは知らないが、なにかしらの現状理解の手掛かりになれば、と思ったのだ。


 カバン内側にあるネームプレートを見る。ボールペンによる綺麗な手書き文字で、「しのはら」と書かれている。


 制服のブラウスやスカートの裾を、ぴらぴらとめくってみる。服にも篠原優衣の文字がないか探そうと思ったのだ。


 少女は腕を組んだ。

 ながーい、ため息をついた。


「なにをやっていたのか、まったく思い出せん」


 もう一度、ふうと息を吐く。

 いきなり立ち上がると両手で頭を抱え、うおおおと絶叫した。


「試合途中に意識が吹っ飛んだらしいことは分かったっ! ま、とりあえず分かったっ! で、おれはそれからなにをやってたんだ! 篠原優衣って奴のカバン奪ったり、服を剥ぎ取ったりしてたのか? 変態じゃねえか。いやいやそんどころか犯罪じゃねえかよ。おれ、実は二重人格の変態野郎なのかな。……つうかさあ、試合中に倒れたとしてもだぞ、なんでこんなとこにいるんだよ。こんなとこっつーかスタジアムの外にいたんだよ。おれ、ひょっとしてみんなにゴミのように捨てられたのかよ。気絶してる間にさ。冗談じゃねえぞ、くそったれ! ……とにかく、とにかくだ、なんか……住所か、なんか、書かれてないのかよ!」


 と、ひとしきり吠えるとベンチに座り直し、カバンとバッグの中にある物を調べはじめた。


 自分の記憶にない以上は他人様の物なのであろうが、とにかく、この持ち物からなにかしらの手掛かりが見つかるかも知れない。

 住所でも書いてあれば、実は寮のお隣りさんの人の物であったりなど、なにかが分かるかも知れない。


 隣のおばさん急用で、娘のをちょっと預かっただけなのよ、みたいな。

 でも意味が分かんねえよな、それも。なんでそんなもん預かる必要がある?

 仮にそうだとして、おれがスタジアムからも寮からも追い払われることと、なんの関係がある?


 と、疑問を覚えたものの、それでも他になにも出来ることが考えつかない。少女は所持品から身元を確認出来る物を、ひたすら探し続けた。


 だがしかし「篠原優衣」という名前以外は、何ひとつとして分からなかった。あとはせいぜい、教科書が高校二年生用であるということくらい。


 また腕を組んだ。

 静かに息を吸い、静かに吐いた。

 落ち着こうとしたのだが、どうしても落ち着くことが出来ず、結局また、奇声を発しながら頭をがりがりぼりぼりと掻いた。


「しかしなんだか、長い髪の毛がうっとうしいんだよなさっきから、くそ!」


 イライラ限界、という表情の彼女であったが、不意に頭を掻くのをやめてはっとしたように顔を上げた。


 長い……髪の毛?

 なんで、こんな髪の毛伸びてんだ?

 なんだか、ふんわりもわっとしているし。

 しかもさらっさら。なにこのキューティクル。


「……そしてそして……なんだかさ、ちっこくなってねえか、おれ」


 視界が、高さが、大きく変化していることに、いま気が付いた。

 どう考えても、これは身長百八十センチの視界ではない。

 二十センチ以上も背が小さくなったような気がする。


 少女は頭をなで、自分の背中に両腕をまわしてぎゅっと抱きしめ、そして自分の手を、指を、まじまじと見つめた。

 手のひらを、甲を、指を曲げて、伸ばした。少し伸びた整った爪、折れそうに細い指。毛も生えてねえ。


 ぞわっと鳥肌が立った。


「なんだなんだ、この女みてえな手!」


 叫び、立ち上がると、なにかに打ち震えるような呻き声を上げながら公園の外れにあるトイレへと向かった。

 ほのかな街灯に照らされた薄暗い中を、素早くきょろきょろ見回して、辺りに誰もいないことを改めて確認すると、さっと入り込んだ。

 男子トイレへと。


 ちかちかと、切れかかった蛍光灯の下で、おびただしい数の小さな虫や蛾が飛び交っている。気持ち悪いが、しかしそんなことを気にしている場合ではない。洗面所の鏡の前に立ち、そこに映る自分の姿を、おそるおそる見てみた。

 鏡の中に映ったその顔の、血の気がさっと引いたのが見えた。


 誰、こいつ……

 疑問を確かめるために鏡の前に立ってみたわけだが、しかしこの瞬間まで自分が自分であることはまったく疑ってもいなかった。

 だが、いま目の前の鏡に映っているのは、自分の知っている自分とは、まるで違うもの、というよりも、そもそも自分ではなかったのである。


 痩せた太った老いた若返ったでは説明のつかない、全くの別人の顔。

 しかも……

 それは、女の顔であった。


 年齢は十五、六歳くらいであろうか。大人に近付きつつも、まだ多分にあどけないところを残した、かわいらしい顔立ちの少女が、鏡の中に立っていた。


 咄嗟に後ろを振り向いた。

 背後に誰かが立っていて、鏡に映り込んでいるだけかも知れないと思ったからだ。


 だが後ろには、誰もいなかった。

 外に人のいる気配もない。

 ということは……


「うそ」


 少女は、そっと手を伸ばし、鏡に触れた。

 そして、ゆっくりと、戻した手を自分の顔へと持っていき、なでた。


 続いて、胸に手をやった。

 それは小さいながらも確かな感触であった。


 スカートをまくりあげて、下着の中に手を入れてみる。

 ない……というか、違うものが……


 鏡の中の少女の顔が、再びさっと青ざめた。

 ごくり、と唾を飲んだ。

 そして、


 うぎゃあああああああ、と、まるで漫画の断末魔のシーンのような、そんな少女の絶叫が、夜の児童公園、そして近所に、不気味に響き渡ったのであった。


     4

「だから何度もいってんだろが! 運ばれてきたサッカー選手のまつしまゆうってのはおれなんだよ! ともおかさんか、誰でもいいからここに呼んでくれよ。お前らじゃ話にならねえ!」


 松島裕司を名乗る、学校の女子制服を着た少女は、その柔らかな顔立ちに似合わぬ荒い声を張り上げて、全身からバリバリと怒りのオーラを放出させている。


「運ばれたのおれなんだよ、って君はそこにいるじゃないか」

「さっきからほんとしつこいね君も。もう出ていけよ。警察を呼ぶぞ」


 二人の警備員が、かわるがわるに口を開いた。

 淡々とした口調ではあるが、内心、苛立ちを抑えているような様子が表情から分かる。

 先ほどからずっと、このような問答が続いていた。

 彼等もなるべく感情をぐっと抑えて、やんわりと追い返そうとしてはいたのであろうが、


「ブレイクスルー!」


 少女がいきなり二人の間に肩から突っ込んで、強行突破を図ろうとしてきたため、さすがに一人が、腕を掴むとぎゅうっと強くねじり上げた。


「あいてて、くそ!」


 少女は、苦痛の声を漏らした。


「精神科にでも行け!」


 突然の珍客との埒のあかないやりとりに、イライラ限界に達したか、相手がことさら非力そうに見える少女であるというのに、容赦なくどんと強く胸を突き飛ばした。


 少女は、とと、とよろけ、後ろに倒れそうになるのを踏ん張って堪えると、


「じゃあ、ここに入れろよ。ここ病院だろ!」


 そう。ここは石巻いしのまきおお病院。駅から海に向かった突き当たりにある、大きな総合病院だ。


 少女は、松島裕司が救急搬送されたのであればここしかないと考え、やってきたのである。


 到着するや正面駐車場にクラブスタッフの自動車が停まっているのを見つけ、その確信を得た。

 夜間で正面口が閉まっているため、裏口に回り込み、受付に松島裕司のことを尋ねたところ、教えろ、教えられない、つれてけ、出来ない、と押し問答になり、あげくのはてには警備員を呼ばれて、このように追い出されてしまったというわけである。


 病院側としても、どう考えても赤の他人である少女を、瀕死の患者に会わせられるはずもない。常識として、それは理解出来る。

 だが、少女としても必死であった。


「だっておれが、松島裕司なんだもん」


 何故だか理由は分からないが、とにかく心が、この少女の肉体へと入ってしまったようなのである。どんな科学的事象なのか、心霊現象なのかは、知る由もないが。


 本当の自分の肉体に会えば、状況が分かるかも知れない、状況を変えられるかも知れない。

 と、そんな思いでやって来たのである。ちょっと邪険に追い払われた程度で、諦めるわけにはいかなかった。


 外へと突き飛ばされた少女は、懲りずにまた強行突破で中に入ろうとする。

 また、警備員に腕を掴まれた。また、外へと追い出された。今度は遠心力でぶんと振られて吹っ飛び、ごろごろ地面に転がった。


「畜生。なんなんだよ、この貧弱な身体は!」


 女の平均的な腕力など知らないが、とにかくこの肉体のあまりの非力さを呪うと、警備員を睨みつけ、そして舌打ちをした。

 少女は警備員に向かって凄まじく卑猥な捨て台詞と唾とを吐き捨てると、自分の尻をべしべしと叩いて、この場を立ち去った。


 病院の中に入ることを、本当の自分に会うことを、諦めたわけではない。

 じっくり作戦を練ろうと、病院の周囲を回り始めただけである。


 最悪、どこかの部屋の窓ガラスをぶち破って入り込んでもいい。

 警察呼ばれるかも知れないが、自分がもとの肉体に戻れば、単にこいつが捕まるだけの話だ。

 ちょっとかわいそうな気がしなくもないが、まだ十代なのだろうし、たいした罪には問われないだろう。

 少年法というのは、少年少女に思う存分に罪を犯すことを堪能してもらうためだけに存在しているのだから。


 病院の正面口へと戻ってきた少女であるが、先ほどまでのしんとした様子とがらりと違って、非常に騒々しくなっていた。


 何台か、テレビ局のものと思われるバンが停車している。

 そして、カメラマンやリポーターと思われる者たち。

 一人の女性リポーターが病院の建物を背景に、眉間にシワの寄った深刻そうな顔をカメラに向けている。


「はい。搬送された時点で心肺停止状態とのことで、現在集中治療室にて……あ、ちょっと待って下さい。……ええ、ただいま新しい情報が入りました。松島裕司選手の……死亡が、確認されたとのことです」


 女性リポーターは、マイクに口を寄せ、囁くように、はっきりと、そういった。


 どさり、

 地面に、バッグが落ちた。

 近くに立って聞いていた少女の手から、落ちたのだ。

 少女は、呆然と立ち尽くしていた。

 指先が、唇が、全身が、震えていた。


「どういう、ことだよ……」


 ぼそ、と震える声を出した。


「どういうことだよ、それ!」


 同じ言葉を今度は怒鳴り声で、女性リポーターへと駆け寄ると、その両肩に掴み掛かかろうとした。

 瞬時に数人のスタッフに取り押さえられ、引きはがされてしまう。


「じゃあ、おれはなんなんだよ! 松島裕司はここにいるぞ! 死んでなんかいねえ! 松島裕司はここにいるぞ!」


 羽交い締めにされ、逃れようと懸命にあがきながら、少女は叫んでいた。


     5

 いったい、なにがなんなのか。

 自分の身に、なにが起きたというのか。

 相変わらず、さっぱり分からない。


 とりあえず事実らしいと分かっていることは、まつしまゆうが死んだということ(まだ半信半疑ではあるが)。


 その松島裕司は、おれであるということ。


 そのおれの心だけが、何故だか見ず知らずの女子高生の肉体に入り込んでしまったらしいこと。


 それだけだ。


 このような境遇になり、なおかつ判明していることがそれしかないという、どうしようもない状況ではあったが、しかし、ひとしきり取り乱した後の現在、自分でも驚くくらいに落ち着いた精神状態にまで回復していた。

 もちろんこれからどうなるのかという不安はあるが、少なくとも興奮状態にもなければ、それほど悲観して落ち込んでいるわけでもなかった。


 松島裕司という男が、もともと前向きな性格であったということもあるが、それ以上に、驚きと興奮の連続にすっかり感覚が麻痺してしまったということがなによりも大きいのかも知れない。


 不思議なことに、自分が死んでしまったのだという実感も、悲しみも、あまりなかった。


 でも、別にそれは不思議ではないのかも知れない。

 通常、死んだことへの悲しみというのは他者しか持ちようのない感情であるのだから。


 それに、どんな神様だか悪魔だかの計らいかは知らないが、自分はこの少女の肉体に入り込んで、物を見、歩き、呼吸をしている。死んだ実感などわきようがない。


 かてて加えていうならば、松島裕司の死体をまだ見ていない。悲しむ肉親の姿もまだ見ていない。


 実感がないから信じないというわけではない。これが現実なのだろうな、とは思っている。

 その上で、不安を感じつつも半ばそれを受け止めてしまっている、どこか達観した自分がいる、ということである。


 さて、松島裕司の魂が入り込んだ、少女のこの肉体であるが、現在、夜の繁華街を歩いている。


 呆然とわけも分からぬままに漂ってきたわけではなく、確固とした目的を持って、ここへと来ていた。


 とりあえず自分に起きた不可思議な現象を事実として認めるとして、そうなると大事なのが生活基盤の確保、まずなによりも先に、飯を食ったり雨風をしのぐ場所を探さなければならない。

 てっとり早いのが、この身体の持ち主の家に行くことである。

 そこには当然ながら完全な、自分自身に最適な生活環境が用意されているはずなのだから。


 石巻いしのまきは、仙台などとは比較するのもおこがましいくらい格段に田舎だが、しかし繁華街ともなれば、コンビニやカラオケ店の前には中高生がうろうろとしている。みんなヤンキーやギャルみたいであるが、この際しかたがない。少女はそんな通行人へと歩み寄り、声をかけた。


「ねえ、ちょっとそこのお二方、この制服さあ、どこの学校のか知ってる? ね、お姉ちゃん!」


 少女は、目の前を通り過ぎようとしている制服姿の色黒ルーズソックスと腰パン男子のカップルを、服の裾を両手で引っ張って立ち止まらせると、自分の着ているグレーのベストを両手でぴらぴらと引っ張ってみせた。


 通っている学校を知ったところで意味がない気もするが、とにかくこの身体の持ち主の家に行こうにも、手がかりがなにもないのだから仕方がない。

 自分の着ているものと同じ制服を探せれば一番なのだけど、お嬢様校なのか何だか知らないがどこにも見当たらなかったから。


 この身体の身元がはっきり分からなくても、しのはらという名前だけは分かっているので、まあ最悪それを頼り警察で確認してもらおうと考えてはいる。

 だが、この身体が篠原優衣である確証はないし、そもそも自分の家も家族構成もなにも分からないままに警察に行ったところで、完全に疑われてより面倒なことになるだけだろう。

 この身体は実は篠原優衣などではなく、盗癖があって本当の篠原優衣からカバンを盗んだのかも知れないし。

 などといった可能性を考慮すると、やはり警察に行くのは最後の手段にしておきたい。


「うわ、なにこいつヘン! ……せい女学院の制服だろ、それ」


 色黒ルーズソックスは、気持ちの悪いものでも見るような目つきで一歩身を後ろに退きながら、少女の手を振りほどいた。


「セーア女学院ってんだ。分かった。ありがとね」


 少女は礼をいったが、しかし二人は無視して、この気持ち悪い少女から脳の病気が空気感染する前に、と、そそくさ去って行った。


「なんちゃってじゃないの? なんかおっさんみたい」

「いや、逆に中学生だろ、あれ」


 ひそひその意味がないほどの、大きなひそひそ声で話をしながら。


「なんだよ、あいつら。……しかしこの顔、そんなガキみたいなのかな? 十代なんざみんなガキだから、中学も高校も区別なんかつかねえや。本当に中学生だったりしてな。お姉ちゃんの制服着たりしてさ。しかしあいつら、教えてくれたのはありがてえけど、女が夜遅くにこんなとこ歩いてんじゃねえっつーの。男連れだからって、不良どもめ」


 ぶつぶつ呟く少女。思ったことがあると、いちいち口に出さないと気が済まない性格のようである。

 こんなところを歩いていると思えばこそ、こんなところまで来たくせに。


 ともかく一歩前進だ。

 自分の着ているこの制服の、学校の名前は分かった。

 後は、この肉体が篠原優衣なのかどうかを確認すればいい。

 もしそうであることが判明したら、電話番号をど忘れしたと嘘でもついて、自宅の番号を聞けばいい。完璧だ。


 駅へと戻った少女は、周辺地図で聖亜女学院の場所を調べた。

 ここから一駅のところにある学校だ。


 ちょうど、というか通学しているならば当然だが、そこまでの定期券がカバンの中に入っている。


 発車時刻表を確認する。

 なにせ田舎、電車が一時間に一本しか来ないし、頑張れば歩けない距離でもないので、あまりに待つようならば歩いてしまってもよい。と考えたのであるが、タイミングよくあと五分ほどで来るようだ。


 改札を通り抜けて、ホームに立った。

 まばらに、電車を待つ人が立っている。


 少女はふと視線を落とし自分の服装を見て、改めて恥ずかしい気持ちになった。

 設置されている鏡を見てみると、やはりさっき児童公園のトイレで見た、あの少女の顔だ。

 だから他人の目からすれば、奇異に感じる要素はまったくないのだろうが、だからといってこの気持ち悪さが解消されるものでもなかった。


 むず痒さを数分ほども堪えていると、アナウンスが流れ、かたんかたんと音をたててゆっくり列車が入ってきた。

 目の前を車両が通過していく際の風で、揺れるスカートがさわさわ足を刺激、気持ち悪さにに鳥肌が立った。

 どの程度の風でめくれ上がってしまうものか分からず不安で、手で押さえつけてみるが、この程度であれば放っておいても問題なかったようだ。


 しかしこのスカートって奴ァ、なんだか頼りなくて不安で、みっともなく思えて仕方ねえな。なんで女は、平然としてられるんだ。服じゃねえぞ、こんなの。単なる布だぞ。パンツの上から、腰に布を巻いただけだぞ。変態だろ、女って。


 などともごもご小声で発しながら、電車に乗り込んだ。


 りくぜんやました駅へ。

 石巻駅から、三分で到着した。


 駅を出て、そこからは徒歩で、線路沿いを石巻に戻るように七分、特に迷うことなく聖亜女学院の高等部に到着した。


 さて、ここからだ、と気を引き締めなおした少女であったが、しかし自身の身元確認は拍子抜けするくらいあっけなく終了することになった。


「ねえおっさん、この顔知らない? ここの生徒らしいんだけど、多分」


 少女は、ちょうど校門から出て来たメガネの中年男性に話し掛け、自分の顔を指差した。


「篠原、こんな遅い時間に、こんなとこでなにやってるんだ」


 メガネの中年男性は、びっくりしたような怒ったような表情で、少女の顔を見ていた。


「お、いま篠原っていったね。ビンゴ! やっぱりこいつ、篠原優衣って奴なんだ。おっさん、ここの先生?」

「お前の担任だろうが! だいたいなんだその言葉遣いは! なんの冗談だ! からかうのもいい加減にしろ!」


     6

「うまい!」


 東北ローカルのお笑い芸人がグルメリポーターになって、せんだい市内ラーメン店のラーメンを大袈裟な身振り手振り、挙げ句の果てには床を転げ回って絶賛している。

 テレビ番組、昼のワイドショーである。


 ここは、しのはらの自宅。

 彼女はこの家で、父親と二人で暮らしている。

 父親は仕事で出掛けているため、現在この家には優衣一人だけだ。


 優衣の服装は、学校の青いジャージ姿。硬いソファの上で、あぐらをかいて座っている。


 両腕を伸ばして大きなあくびをすると、背もたれに完全に重心を預けた。

 だらーん、と全身の力を抜いたかと思うと、ため息をついた。


 昨夜は、あれからが実に大変だった。

 自分の通っているらしい学校の校門にて、担任教師と出会った優衣であったが、それがあまりにも夜遅い時間だったものだから、親が呼び出されることになった。

 問題行動、というほどの認識ではないようであったが、実際、遅い時間であり帰路が危険だからである。


 親の到着を待つ間、優衣は先生から次のような話を聞かされた。

 ほんの数時間前のことらしいが、居眠り運転のトラックに、あわや幼い女の子がひかれかけた。それをせい女学院の制服を着た生徒が助けたらしい、ということを。


 女の子を突き飛ばして事故から救ったその瞬間に、大きな雷鳴、その聖亜女学院の制服を着た女生徒は真っ白な光に飲み込まれた。


 目が潰れてしまいそうなほどのあまりに強烈な光に、女生徒がどうなったのか見ていた誰にも分からなかったが、少しして自力で立ち上がったことから、雷はすぐ近くに落ちただけだったのだろう。


 その、女学院の生徒は、特になにごともないようにその場を立ち去ったらしい。


 トラックの運転手が警察に事故の届けをし、女の子の両親とともに調査を受け、そこで話したことが、学校に伝わってきたのである。


 その女生徒の外観説明が、優衣に似ている気がする、ということで先生はその話を持ち出してきたとのこと。


 その話を聞いて、なるほどな、と思った。


 理解出来た。

 偶然なのかどうか分からないが近場で同時発生した落雷によって、二人が入れ代わってしまったのだ。篠原優衣と、まつしまゆうとが。


 そして、打たれどころが悪かったのか松島裕司の肉体は死に、それより遥かに生命力の弱そうに見える篠原優衣の肉体だけが生き残ったのだろう。


 漫画などではどちらも生きていて単純に二人が入れ代わるだけのパターンがお決まりであるが、現実は漫画ではないということだ。


「それ、おれだ」


 優衣は担任に、そう正直に答えていた。

 その話を聞かされている最中は、面倒になるから絶対に自分のことだとばれないようにしようと思っていたのだが、「お前のその妙ちくりんな態度も、雷に打たれたんじゃないのか」などと先生に嫌味をいわれたことで、その方がなにかと好都合なことに気がついたのである。


 気がねなく篠原優衣の自宅で休めるし、なにを聞かれてもロッキード事件じゃないが記憶にございませんで済む。


 しかし、よくよく考えてみるまでもないことであったが、脳に異常がないかどうか、迎えにきた父親の自動車でそのまま病院へ連れて行かれることになってしまった。


 石巻いしのまきおお病院。あの、松島裕司が搬送され、死亡が確認された(と思われる)救急病院である。


 そこで優衣は、軽い診断を受けた。

 次のような結果であった。


 記憶や態度に異常があるのは、落雷のショックか、地面に倒れたことによる脳震盪か、いずれにせよ一時的な記憶障害であろう、と。


 外傷はどこにもなく、正常に受け答えは出来ているようだから、今日はもう帰って、明日改めて専門医による診察を受けるように。そういわれ、ようやく篠原優衣の自宅とやらに帰ったのであるが、既に深夜であった。


 知らない家に、知らない人間(父親)と二人きりという状況であったが、松島裕司としてはさしてそういうことを気にしない性格であったし、心身ともにすっかり疲れて切っていたのか、着替えを済ませてベッドに横たわるとすぐに眠ってしまった。


 そして今日は朝から、CTなどの精密検査、図形記憶やその他の反応検査などをやらされ、何故だか血まで採られて、つい先ほどこの家に戻ってきたばかりだ。


 なお、病院には自分が松島裕司であることは黙っていた。

 薮蛇になりそうだからだ。

 冷静に考えるまでもなく医者に相談して解決する問題ではないし、下手をしたら「おー、よちよち」と入院隔離だ。


 現在、この家には優衣一人きりである。

 父親は朝、優衣を自動車で病院まで送ると、そのまま職場へと向かった。


 別れる際に、今日は大事をとって学校を休めといわれている。

 非常に有難い申し出であった。


 この身体に入り込んだままどうにもならない以上は優衣として今後の生活を送るしかないわけで、だから学校にも行かなければならないのかなとは考えている。自暴自棄になって好きなことばかりしていても、この娘がかわいそうだし。


 とはいえ、まだ何がなんだかさっぱり分からないというこの状態で、さらに学校になどいったら、ますます頭が混乱してしまう。


 せめて今日一日か二日くらいは、一人でゆっくりと考える時間が欲しかった。


 まあそういうの関係なく、学校なんか行きたくはないけど。勉強、大嫌いだ。


 テーブルの上にはスポーツ新聞が置かれている。病院内の売店で購入したものだ。サッカー欄には、非常に小さくではあるが、松島裕司の死亡記事が掲載されている。


 改めて実感がわくかな、と思って入手してみたのであるが、読む前の精神状態と比べて別段の変化は感じなかった。扱いのあまりの小ささに、ちょっとムッときた程度である。


 ただ、新聞を読んでみて得た実感こそはないけれども、松島裕司が死んだということはとっくに、まあ事実なのだろうなと受け止めている。


 受け止めてはいるが、死そのものに関しては、あまり淋しい悲しいといった感情はない。

 それよりも、もうあの仲間たちとサッカーが出来ないということのほうが、しみじみと淋しかった。




 ここで、誠に唐突ではあるが、執筆描写上の約束事を決めておきたい。

 篠原優衣の言動だけでなく、心理描写についても、篠原優衣のものとする。言動も思考も、基本的には「優衣は」「彼女は」と表現するようにする。

 言動部分が「優衣は」、

 思考部分が「松島は」だと、文章理解や情景想像の上で混乱が生じるためである。




 さて、話を進めよう。

 ソファにあぐらをかき、柿ピーナッツをぼりぼりとつまみながら延々とニュースやワイドショーを見ている篠原優衣であるが、しかし、ちっとも松島裕司のことを取り上げないことに、いい加減イライラしてきていた。


 どうなっているんだ。近頃のテレビ局は。

 東北を代表する偉大なサッカー選手よりも、股間の緩いバカ芸能人のデキ婚話題の方が大事だってのか。


「お」


 優衣はテレビへと、ぐっと身を乗り出した。

 Jリーガー、落雷で死亡? なんだかみっともないテロップだが、とにかくおれのことだ。


「いよっ、待ってましたあ!」


 優衣は両手をばっしばっしと叩きながら、なんだかやけくそ気味に叫んだ。


「しかし、なんか腹立つな、おれのこの高い声。あ、あー、テストテスト」


 顎を引いて、男らしい野太い声を出そうとしてみるが、どうしても女の子のような高くかわいらしい声しか出てこなかった。身体が女の子だから当然なのだが。


 昨日、児童公園のトイレで鏡を見て、初めて自分に起こった異変に気付いた優衣であるが、それまでだって喋っていたのに、どうして自分の声をおかしいと思わなかったのだろう、と我ながらこの鈍感さには呆れてしまう。


 いやいや、きっと松島裕司が鈍感なのではなく、こいつだ、この小娘の脳みそは、かなりアホなのだ。そうに違いない。


 中に干からびた物が入ってやしないかと、ちょっと頭を振ってみたが、特にカラカラ音もしなかった。


 テレビのワイドショーであるが、松島裕司を襲った悲劇について、スタジアムの映像がちょこっとだけ映ったかと思うと、すぐにスタジオ内の映像に戻り、アナウンサーがちょろっちょろっと面倒くさそうに記事を読み、


「さあて、次のコーナー、あなたのお家のおすすめレシピでーす」


 ちょっと沈んだような態度も一瞬でどこへやら、なにか悲しいことでもあったんですかといわんばかりの、抜けるようなほがらかな表情で、次へと移ってしまった。


 優衣はムンクの叫びの手つきで、むぎょおおおおお、と雄叫びというか奇声を発すると、柿ピーナッツをひとつかみにして口の中に詰め込んで、バリボリ噛み砕いた。


「なんだよ、この扱いの酷さ! 仮にもミスター宮城だぞ、てめえ。畜生。ボケ。バカ。くそう、このチャンネル二度と見ねえ。取材がきても断る! はぁ、もうテレビどうでもいいや」


 残りの柿ピーナッツを部屋中にぶちまけたい衝動をぐっとこらえてテレビの電源を消すと、ばりばり頭をかき尻をかきながら、階段をのぼって二階の自室へ。


 六畳の洋室だ。

 いまどきの女子高生にしては、実に物の少ない簡素な部屋である。かといって男っぽい部屋というわけでもない。女性らしくはあるものの、とにかく生活感というものがほとんどないのだ。


 生活感も、趣味性も、まるで感じられないのである。

 ぱっと見た感じ目に入るのが勉強机とベッドと洋服ダンスだけ。余計なものがまるでない。


「昨夜は、眠くてすぐ寝ちゃったからな」


 目が覚めたら、眠い目をこすりながら再び病院へ行く仕度をしなければならなかったし、この部屋をこのように落ち着いてじっくりと見たのは、いまが初めてであった。


「お」


 ベッドと洋服ダンスとの間に、サッカーボールが転がっているのを発見した。

 サイン用や子供用ではない、一般的な試合に使う五号球だ。


 ちょっとだけほっとした。

 あまりにも部屋が、ロボット執事でも住んでいるのかというくらいに無味乾燥としていたから。


 しかし、まさかここで、こんなものを見るとは。


 ボールだけではない。

 洋服ダンスの上に、サッカーだか何だかのユニフォームらしいものが綺麗にたたまれている。

 手に取り、広げてみた。

 オレンジ色のユニフォーム。「17」と背番号が大きくプリントされており、その下には「YUI」の文字。


「ワイ、ユー、アイ……スポンサーの名前かな。とにかくこれって、サッカーの、ユニフォーム、だよな」


 優衣は手にしたユニフォームを無造作に丸めてタンスの上に戻すと、しばし腕を組んで考え込んでいたが、やがて、なにかを思い付いたように、部屋を出た。階段を駆け降りて、さっきまでテレビを見ていた一階のリビングへ。


 テーブルの上には、スポーツ新聞と、危うく中身をぶちまける寸前だった柿ピーナッツと、優衣の父親の物と思われるノートパソコンが置かれている。

 優衣はパソコンの電源を入れ、ブラウザソフトを起動させ、ポータルサイトに表示されている日付やニュース見出しの内容からネット回線が問題なく繋がっていることを確認すると、検索窓に「篠原優衣」の四文字を入れてみた。


 パソコン操作が異常なほどにぎこちなく、打ち間違っては修正し、入力と変換だけで三、四分ほどかかったが、とにかく検索に成功。


 ずらずらずらずらと、サッカーの国際大会の名称や、代表選出のお知らせなどの情報がびっしりと表示された。


 聖亜女学院在学中


 個人の応援サイトに、そう書かれているのを見つけた。

 間違いない……


「こいつも、サッカーやってんだ」


 優衣は、まるで他人事のように呟いていた。この身のこととはいえ、心は松島裕司なので、他人事なのは当然であるが。


 どうやら篠原優衣は、U12の頃から世代別代表の常連のようだ。


「エリートかよ、くそ、すげえな。ああ、エリートといえばなんだかコミの野郎を思い出したあ。ムカムカすっぜええ!」


 でも、こんな軟弱そうな身体のくせに、そんなに凄いんだろうか。こいつ。

 改めて視線を落とし、自分のこの身体付きを確認した。


 腕なんかほんと細くて、小学生よりも弱そうだ。きっと腕相撲をしたら、負けるだろう。幼稚園児にすら、勝てるかどうか。


 右の太股に、両手の指を回してみる。

 幼少期よりサッカーをやっているというだけあって、ここは多少は締まっているようだが。


「つうか女のくせにサッカーやってる奴なんて、ほんとにいるんだな。なんだっけ、何年か前になんかの大会で優勝してすっげえ騒がれたよな。なびすこジャパンだかなんだか。……へええ、どこでサッカーやってんだろ。なんかのクラブに入ってんのかな、それとも学校のサッカー部かな」


 まったくの他人であったこの身と、サッカーで繋がったことに、ちょっとだけ親近感を持ちながら、またぎこちない手つきでパソコンのキーを叩きはじめるのだった。


     7

 どんよりと湿った暗い空気が、隅の隅まで完全に満ちていた。


 当然といえば、当然であった。

 この大きな部屋の中にいる男女は、みな黒い上下に身を包んだ正装をしている。つまりは、喪服姿である。ましてや式の真っ最中ともなれば、明るいはずがなかった。


 ここは、石巻いしのまき市の湾岸にある葬儀場。震災で壊滅状態になった跡地を買い上げて建設された、新しい建物だ。


 場内を見回してみると、このような粛々たる場にしては、男性の茶髪率が異様に高い。

 そして、そんな茶髪の彼等は一様にみな、がっちりとした筋肉質であった。一見痩せているようにも見えるのだが、よく見ると内側から筋肉でスーツがぐっと押し上げられているのが分かる。


 場内では、ところどころで泣き声が上がっている。

 涙目になって、上を向いてこぼれるのをぐっとこらえている者もいる。


 先日の試合中に倒れてそのまま帰らぬ人となったズンダマーレみや所属のサッカー選手、まつしまゆうの告別式をおこなっているのである。


 松島裕司がこのチーム一筋だったこともあり、茶髪筋肉質の男性たちはほとんどがズンダマーレ宮城に所属、または所属していたことのある選手、元選手であるが、一人だけ、まったく関わりのないチームの選手が来ていた。


「バカじゃねえのか、いきなり勝手におっ死にやがってよ。お前、ほんとにふざけんじゃねえぞ、最後の最後まで。……畜生」


 松島裕司が死ぬことになった落雷事故が起きた際の対戦相手、オミャンパスおかざきに所属しているやまだ。彼は松島とは小学校時代の同級生なのである。

 棺の小扉から松島裕司の、もう永遠にぴくりとも動くことのない顔を、見下ろしている。

 小宮山のその目には、うっすらとであるが涙が浮かんでいた。


「ほんとに、バカじゃねえのか……」


 そう繰り返すと、かすかに震える手で扉を閉めた。

 踵を返し、棺に背を向けた。


 松島の両親にお辞儀をすると、彼は背筋をぴっと伸ばし、出棺を待たずに葬儀場を後にした。


 ここを訪れているのは関係者だけではない。取り巻くようにして、ファンたちも大勢参列している。

 通常は関係者が終わってから一般参列希望者を通すものであるが、ズンダマーレ宮城には全国的に有名な選手はおらず、地方のクラブということもあり混乱するほどの人間が来ることはないだろう、というクラブ事務所の判断により同時参列である。


 その一般参列者の中にはズンダマーレ宮城のユニフォームを着ている者もいる。遺族の中には、なんだあれはと眉をひそめる者もいたが、これは彼らなりの正装なのであろう。


 一般参列者の中には、しのはらの姿もあった。


 白のブラウスに、黒のスカート。学校の制服以外で、初めて履いたスカートだ。

 スカートに一向に慣れず、すかすかしていて、なんだか何もはいてないみたいで気持ちが悪くて仕方ないのだが、他にこういう場に相応しい服が見つからずに、我慢して履いているのだ。


 まあそれはさておいて、ここへ来たことはよかった。

 優衣の中にいる松島裕司は、心から、そう思っていた。


 死んでしまったことを、よりはっきりと現実として受け止めることが出来たからだ。


 家の中、部屋の中で悲しんでいたって、現実は変わらないのだから。

 そう、切り替えだ。切り替え。

 試合でみっともない負け方をするたびに仲間に、そして自分の胸に叩き込んできた言葉を、改めて心の中に唱えた。


 自分の歩く前途になにが待っているのかなど分からないが、そんなの誰だって同じだし、とにかく前進するしかないのだから。


 進めばきっと、なにか悪くないこともあるだろう。

 人生そんなもんだ。


 蚤の糞ほどの根拠もないくせに、でも、そう確信していた。


 それと、


「ありがとな、コミ」


 常に悪口ばかりいい合ってきた小宮山が、今日、この場へ来てくれた。

 素直に、嬉しかった。


 などと感慨に浸っている優衣の視界に、ある選手の姿が入った。

 大きな大きな体躯を屈ませてめそめそ悲しみに暮れているズンダマーレ宮城の選手に、優衣はそっと近付いた。大きく背伸びをすると、その巨大な背中を強く叩いた。


「おいしばおか、次にズンダを引っ張ってくのはお前だかんな。おれ、前々からずっと期待してたんだから。毎日いじめてたけどさあ」


 まあそれも愛情の裏返しというものだ。


「はい、頑張りますまつさん! って、あれ?」


 相手が小柄でかわいらしい少女であるというのが見えていながら、つい松島かと思い込んでぴんと背を伸ばし力強く拳を握り締めた柴岡選手は、なんだか分からずきょとんとした表情で小首をかしげた。


「あの、こういう場なんで、ファンの方は選手に話し掛けるのご遠慮いただけますか」


 クラブの社員であるよしおかさんが、優衣に近寄ると、耳元で囁いた。声は小さいけれど、はっきりと怒っているのが分かる。


「あ、ごめんごめんヒデちゃん」


 優衣は頭をかき、吉岡さんの背中を叩くと、一般参列者の群れに戻った。


 よしおかひでは、びっくりしたような表情を浮かべていた。

 まず表に出ることのない自分の名を、この少女が何故知っているのだろう、ということだろうか。広報などならばともかく、単なる裏方の一社員だというのに。


 さて、もうじき出棺の時間であるが、優衣はそこまで見届けずに会場を後にした。


 自分の肉体が、もうすぐなくなってしまうというのに、それほどの未練は感じていなかった。

 肉体なんて単なる器。おれはいまここにいる。それと、おれを知っているみんなの、一人一人の心の中に。


 これまで二十九年付き合ってきたその器に対して、これまでよく頑張ったななどという感傷の気持ちもさほどわかなかった。だって頑張ったのは結局自分だもの。


 建物の外へと出た優衣は、なんだかすっきりとした表情になっていた。梅雨の晴れ間の日の光を浴びて、眩しそうに目を細めると、大きく伸びをした。


 これからのことに、不安が微塵もないわけではない。だからこそ、物事を単純に割り切って、現実的に受け止め、良い方へ考えるようにしているのだ。


 悩むことで肉体が甦り、肉体に戻れるものならば、いくらでもそうするところだが、そんなわけにはいかず、ならば考えても仕方がないことではないか。


 しかし、

 人間の感情というのは実に不思議なもので、改めて割り切り、納得し、すっきりした気分になっと思ったら、途端にどっと涙が出た。


 優衣は、全身の力が抜けたように、道端にしゃがみ込んでしまっていた。


 誰だよ、会場の外に出たのにまだめそめそ泣いてる声が聞こえるよ、などと思っていたら、泣き声を上げているのは自分だった。


「みっともねえな。男が泣くなよ!」


 自分を叱咤するが、でも、どうしても涙が止まらなかった。

 嗚咽がおさまらなかった。


 なんの涙だ。

 これ、なんの涙だよ。

 なんで泣くんだよ、お前、つーか、おれ。

 恥ずかしいな、くそ。


「おーおー我らーと共にありー、まつしまァゆうじ~♪」


 ユニフォーム姿の小太りメガネの中年サポーターたちが、だんごのように固まって、涙声で、松島の応援歌を怒鳴るように歌いながら歩いて来た。なんだかすっかり酔っ払ったオフ会帰りのようにしか見えないが、まあ悲しいのだろう。

 出棺も終わって、彼ら一般参列者も会場を後にしてきたようである。


「みやぎいの、勇姿~」


 優衣は、自分の涙をごまかそうと、彼等に合わせて歌いながら、その輪の中に入り混んだ。


「同士!」


 女に生涯縁のなさそうな男たちが予期せぬ天からのシチュエーションに興奮したのか、一人が優衣に抱き着くと、残りもいっせいに密着してきた。

 優衣は、ぎゃああと悲鳴を上げた。


「おれのファンなのはありがたいが、そういうのはちょっと~。つうかふざけんなてめえら。くっ付くな。……呼吸が」


 肉だんごに圧迫されてもみくちゃにされる優衣。全身に鳥肌を立たせながらも、懸命に押し返そうとしたが、しかしだんだんと意識が遠退き、力が抜けていく。


 ここでおれがさらに死んだら、どうなってしまうのだろうか……

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