優衣

かつたけい

第一章 勇気、ください

     1

 まるで筆を走らせたかのような、太い雨が降り続いている。

 激しい雨により、煙が立ち上っている。


 そんな中で、彼女たちは戦っていた。


 がっ、と音が聞こえてきそうなほどに、身体と身体が激しくぶつかり合った。

 合った、というよりは、一方的な体当たりといったほうが適切であろうか。


 ぬまたえは、ほっそりとした見た目ながらも体幹のしっかりとした、身体バランスの非常に高い選手であるが、まるでアメフトのような破壊的な突進を無防備な背中に受けては如何ともしがたく、弾けるようにふっ飛ぶと、大雨でぬかるんだピッチの上を飛沫を上げて滑り、転がった。


「おいおい! ファールじゃねえのかそれ!」


 ベンチのささもとのり監督は、思わず立ち上がると怒気を込めて叫んだ。

 豪雨のカーテンの向こうにいる主審の耳には、まったく届いていないかも知れないが。


「くそ、ほんと納得いかねえ。さっきからもう」


 相手選手は沼尾妙子に対して、取られたボールを取り戻そうと完全にアフターで背後から突っこんで、肩をぶつけて転ばせたのだ。なのに、イエローカードが出るどころかファールにすらならないなんて。と、笹本監督が憤慨するのは当然であろう。


 チームの誰もがそう思っていることだろう。しかし彼は、ここがどこだか失念してしまっているようであった。


「だから女子審判はレベル低いってんだよ」


 吐き捨てるようにそういうと、ちっと舌打ちしたのである。

 ここにいるのは、ほとんどが女性であるというのに。


 じろり。

 隣にいるえのきあけコーチが、笹本監督に鋭い眼光を向けた。


「あ、いや、その」


 笹本は、ごまかすように咳払いをした。


 もちろん女性だから能力が低いわけではない。そんなこと笹本だって分かっているだろう。

 あくまで確率論という数学的な問題、審判をやってくれる女性数の分母の絶対的な少なさや、育成システム等の問題を考えると、優秀な女性審判がそんなにたくさん出てくるわけがないのだ。

 男子にしたって、プロリーグが始まって二十年以上も経つというのに、これは優秀と文句なしにいえる審判がただの一人すらも出てこないことを考えると、仕方のないことである。


 その能力の低さで得することもあるかも知れないが、しかし今日の審判のように、こうも基準が曖昧だと、ただゲームが荒れてしまうだけである。

 偏向ジャッジじゃないだけまだましともいえるが、偏向なら偏向で、そう分かっているならやりようがあるというものだろう。


 先ほどのジャッジなどは、特に酷かった。こちらの選手が触れてもおらず、どう考えても相手のスリップとしか思えない転倒に対して、こちらにイエローカードが出されたし、それに抗議したキャプテンにもカードが出た。


「変なジャッジしてりゃあ、そりゃあ被害を受けた側の選手から抗議だって受けるだろうに、まあすっかりあの姉ちゃん頭に血が上っちまってカード乱発、生理なんじゃねえのか?」


 なおも小声で、もごもごぼそぼそ不満を口に出し続ける笹本監督であった。


 さて、泥溜まりに突き飛ばされて転がり滑った沼尾妙子であるが、すぐに起き上がると、自分を倒した相手である八番の背中を追った。

 だが、その背中は既に遥か向こうにあった。


 八番、ふかざわはドリブルしながらサイドへと流れる。

 スライディングで奪おうとするSBサイドバツクせんチカを、ひょいとジャンプしてかわすと、そのまま突き進み、ゴール前の状況を確認しながら余裕を持ってクロスを上げた。


 ファーに飛び込んだFWの選手が、跳躍し、クロスに頭で合わせようとするが、間一髪、GKのどうじまひでが飛び出して、両手でしっかりとボールをキャッチした。

 堂島は倒れながらも、ボールをがっちりと自身の胸に抱え込んだ。


「ういい、危なかった。つうか、そもそもさっきのファールとってれば、このピンチもなかったんだよ」


 腕に顎にと、熊のように毛むくじゃらな笹本監督であるが、その男らしい外見とは裏腹に、まだぶつぶつと主審の文句をいっている。


、そろそろ出るぞ。準備しとけ」


 笹本は後ろを振り向き、ベンチに座る一人の控え選手に視線を向けた。


「はい」


 優衣、と監督に呼ばれたのは、まだ高校生くらいの少女であった。


     2

 ふわっとした細く柔らかそうな髪の毛が、肩までかかっている。

 あどけないところの多分に残る、可愛らしい顔立ちである。

 しかし、同じ年頃の少女と比べるとなんだか表情はおとなしく、覇気にかけているような印象を見る者に与える。


 少女、しのはらはベンチから立ち上がると、ジャージの上下を脱いだ。オレンジ色のユニフォーム姿になると、ゆっくりとアップを開始した。


 ベンチを覆う透明な屋根の下から出た途端、叩き付けるように降り注ぐ大粒の雨であっという間に髪の毛がべっちゃりと頭皮に張り付いてしまった。


 二〇一四年 六月二十二日 日曜日

 日本女子サッカーリーグ 第十節

 イレブンターキー北海道 対 石巻いしのまきベイスパロウ

 会場 カナエ製粉スタジアム(北海道むろらん市)


 一般人には日本女子サッカーリーグという名称よりも、なでしこリーグという俗称のほうがよく知られているであろうか。現在、そのなでしこリーグの試合中である。


 筋肉をほぐし、温め終えた優衣は、改めて監督から簡単に戦術上の指示を念押しされると、強く背中を叩かれ、ピッチへと送り出された。


 あまりの雨の凄まじさに、もう既にピッチにいる他の選手たちと同じくらいに、優衣の頭も服もずぶ濡れになっている。まるでバケツの水を何杯も頭から浴びたかのように。


 優衣の着ているのは上下ともにオレンジ色、石巻ベイスパロウのユニフォームである。

 なお対戦相手であるイレブンターキー北海道のユニフォームは、赤と黒の縦縞シャツに黒いパンツだ。


 主審に交代が認められ、ベイスパロウのボランチであるてらなえが、小走りに優衣の待つところへと向かってきた。


「任せたよっ!」


 寺田なえは、優衣の折れそうな華奢な身体に抱き着くと、ぽんぽんと軽く背中を叩いた。


「はい」


 優衣は豪雨に消え入りそうな小さな声で返事をすると、ピッチへと、そのまま寺田なえに代わってボランチとして入った。

 普段このチームではほとんど右SHサイドハーフとして出場しているが、去年のU16代表ではずっとボランチであったし、慣れという意味では全く問題はない。


 どんどんどどどん、とゴール裏からの低い太鼓の音が空気を震わせ、そしてそれに合わせてサポーターたちによる優衣のコールが起こった。


 どどんどどんどん しのはら ゆい!

 どどんどどんどん しのはら ゆい!


 ●たち、といっても雀の涙ほどの数で、ピッチ上に立つ選手たちよりも遥かに少ない。みんな、選手たち同様にずぶ濡れであった。

 いつもホーム試合ですら二十人ほどであるし、アウェーにしては来ているほうといえよう。


 ちなみに、であるが、ほぼ全員が三十代四十代と思われる男性で、小太り率と眼鏡率が異様に高し。


 今日は朝からずっと激しい雨が降り続いているのであるが、優衣がピッチに入ったのと同時に、突然、その激しさが増した。

 まるで滝のような、それは凄まじい雨になった。


 なでしこリーグの試合は、その大半が日曜日の昼間に行われる。

 たとえ真夏であろうともだ。

 ナイターは照明に金がかかるし、選手たちのほとんどがアマチュアで、翌日には仕事があるためだ。

 今日もそんな普段通りのデーゲームであるが、しかし分厚い雲に陽光のほとんどを遮断されているため、非常に薄暗い状態であった。プロ興行ならば、迷うことなく照明をつけているところであろう。


 先ほどから雨が地に跳ねて水煙が上がっているが、それがさらに、もうもうと激しいものになった。

 しっかりと注意をしていないと、ハイボールも、すぐ近くのグラウンダーのボールも、とにかく見失ってしまいそうであった。

 相手選手の背番号を視認することすら、大変な状況だ。


 入ったばかりの篠原優衣であるが、早速、イレブンターキー北海道DFの大きくクリアしたボールが、彼女のほうへと飛んできた。


 素早く落下地点へと走り込むが、その瞬間、イレブンターキー北海道の九番、FWのなるみやけいに背中を突き飛ばされていた。


 優衣は身体の強い方ではない、いや、どちらかというまでもなく弱い方である。

 だからこそ、相手が視界の悪い中ラフプレーを仕掛けてくるのではないかと覚悟が出来ていたのか、慌てることなく腰を落としながら片足を前に出してぐっと踏ん張ると、すぐに背を伸ばして胸でボールをトラップ、すっと落として右足で踏み付けた。ファーストタッチだ。


 イレブンターキーの成宮桂子が、奪おうと槍のように足を突き出してきたが、優衣は華奢な身体をむしろ武器として、風になびくかのようにふわりとかわすと、豪雨の中をドリブルで突き進んだ。


     3

 しのはらはまだ十六歳、高校二年生だ。

 ほとんどが成人ばかりというなでしこリーグのチームにおいて、女子高生ながらも主力としてプレーしている。


 先天的な体質の問題であるのか、成人どころかその年代の一般的な女子選手と比べてさえ、相当に身体つきが貧弱な彼女であるが、ボールを扱う技術の高さや視野の広さ、身の軽さや戦術理解度の高さという武器があり、これまで世代別代表の常連であった。


 二年前、十四歳ながらもU16女子日本代表に選ばれた優衣は、米国遠征で、なんとボランチでありながらも強豪米国相手にハットトリックを達成、メディアには天才少女出現などと騒がれたものである。


 しかし完璧な人間などは存在しないもので、欠点としては前述したフィジカルと、あとはとにかく気が小さいこと。

 どちらが代表監督たちの気に入らなかったのか、それとも単に実力が足らないだけであったのか、とにかくこの一年ほどは代表に縁がない。


「サイドチェンジ!」


 キャプテンであるもとあかねの叫びを背後に受けて、優衣は大きく左サイドへと蹴り上げた。


 弧を描くボールは、天からの叩きつけるような雨に強く押されたのか、それとも単に優衣のキック力が貧弱であったのか、急速に下がって地に落ちてしまったが、しかし今度はその雨によって氷上を滑るかのように転がって行く。


 ベイスパロウの左SHである西にしひさが駆け寄り、拾ったが、すぐさまイレブンターキー北海道の選手が二人、彼女へとプレッシャーをかける。


 久子は、背中を使って巧みにボールキープ。と、突如反転、足に吸い付くような柔らかくそして迷いのないボールタッチで、二人の間を一気に突き破った。

 土砂降りの中を、独特な足取りでぐいぐいと上がっていく。

 相手のボランチが駆け寄ってきているのを横目で確認すると、寄せられる前に、と素早くアーリークロスを上げた。利き足とは逆の左であったが、ゴール前へと速く低く、精度の高いボールが上がった。


 そのクロスというプレーをアシストという記録にすべく、ベイスパロウFWのさねあいつみが飛び込んだ。

 二人のDFに挟まれながらも美摘は、すっと抜け出してボールに頭を叩きつけていた。


 決まったと思われたが、しかし、イレブンターキーGKのあいざわが、横っ飛びパンチングでボールを弾いていた。


 押し込もうと、転がったボールに対して俊敏な反応を見せたベイスパロウのつじうちあきであったが、しかし瞬きするほどの僅かな差で、DFに大きくクリアされてしまう。


 大きく弧を描くボール。

 また、篠原優衣へとハイボールが飛んできた。

 滝のような豪雨の中で優衣は、ボールを見失うまいと凝視、目測し、後ろへ数歩下がった。


 だが、このあまりにも酷い雨に、優衣は目測を思いきり誤っていた。

 下がり過ぎていた。


 気付き、慌てて前に出ようとした時には、すでに落下地点には相手FWが入り込んでいた。イレブンターキー北海道の七番、よしななだ。


 彼女の背後に付いた優衣であるが、腕をうまく使われて密着することが出来ない。

 優衣の方が十センチほども背が高いため、くっつくことさえ出来ればポジショニングのミスを取り戻せるというのに。


 優衣は結局、百五十もない小柄な選手を相手に競り合いに持っていくことすらも出来ずに、あっさりとボール所有権を譲ってしまった。


 伊生七海がドリブルに入ろうとしたその瞬間、石巻ベイスパロウのキャプテンでありボランチであるもとあかねがスライディングでボールを弾き出して、なんとかタッチラインに逃れた。

 味方の多くが攻め上がっていたため、ここで流れを切っていなかったなら失点していたかも知れない。

 おそらく警告覚悟のタックルであったのだろう。幸い、イエローカードは出なかったが。


「優衣! 集中しろ集中! 途中からのくせに、そんくらいも出来ないんか!」


 野本茜は立ち上がると、キャプテンらしく叱咤のきつい雷を選手へと落とした。


「はい、すみません!」


 ミスをしてなお、ぼーっとしていた優衣は、茜の怒鳴り声にびくりと肩を震わせた。


 イレブンターキー北海道、がみはるのスローイン。なつえいがすっと前進しながらボールを受けたが、石巻ベイスパロウのぬまたえがうまく身体を入れて、ボールを奪い取った。


 妙子はすぐさま、逆サイドにいる西田久子へと展開する。

 なにぶん女子の筋力であるため助走をつけてしっかりと蹴らないと端から端までは届かず、途中で失速して、バウンドして転がった。


 西田久子は、自ら走り寄ってそれを受けた。

 プレッシャーのない中を様子を見るようにゆっくりドリブルで上がり始めたかと思うと、いきなり前方へとグラウンダーのパスを出した。


 それは絶妙なスルーパスであった。

 相手DF二人の間をするりと抜け出したつじうちあきが、そのボールを受けた。

 秋菜は自慢の俊足で、ゴール前へと突き進んだ。


 どんどんどどどん。


 絶好の機会に、ベイスパロウサポーターの喚声や太鼓の音が大きくなる。

 秋菜は、相手GKゴールキーパーと一対一になった。

 相手の動きをよく見て、右のアウトに引っ掛けたシュートを、ゴール隅へと流し込もうとしたが、あと数センチ精度が足りず、ポストに直撃して跳ね返った。


「ああくそ!」


 秋菜は悔しそうに右手を振り下ろした。


 プレーはまだ切れていない。跳ね返って転がるそのボールに、ボランチの位置から駆け上がってきていた篠原優衣が、素早く詰め寄っていた。


 GKがバランスを失して倒れているため、もうぽっかり空いた無人のゴールに蹴り込むだけ、ただボールに触れるだけだ。


 しかし、次の瞬間ベイスパロウの選手たちに浮かんだ表情は、歓喜ではなく、落胆であった。


 なにをどう間違えばそのようなことが出来るのか、どういった物理法則または神々の悪戯なのか、優衣はゴール前二メートルの距離から、ただ触れるだけでよかったボールを、ほとんど真上へと打ち上げてしまったのである。


 落胆に天を見上げ、頭を抱え、地面を蹴るベイスパロウの選手たち。

 無理もない。耐えに耐えてようやくめぐってきた、同点に追い付くための決定的なチャンスだったのだから。


「優衣、お互いドンマイ。……でも優衣のほうが、ちょっとだけドンマイ」


 辻内秋菜は元気なく、優衣の肩を叩いた。

 元はといえば自分がシュートを外したことからの流れであるが、でも優衣のほうが、遥かにゴールを決めるの簡単だっただろ。と、そういう意味のドンマイであろう。


 イレブンターキーのGK、相澤美奈のゴールキックは、雨風に押されて大きく右にそれ、ハーフウェーラインを少し越えたあたりでタッチラインを割り、石巻ベイスパロウのスローインに変わった。


 ベイスパロウの右SBであるぬのようは、助走をつけて遠くへ放る素振りを見せつつ、ふわりと軽く投げて、すぐそばにいる沼尾妙子へと渡した。


 胸で受ける妙子であったが、そこへ相手のMFミッドフィールダーであるもと弥生やよいが体当たりのような激しい勢いで突っ込んできた。


 妙子へのスローインを読んでいたというより、読んでいなかったからこそ、強引に奪おうと襲い掛かったように見えた。

 とにかく妙子も、その勢いに処理が少し遅れて、ボールは二人に挟まれ蹴られ高く跳ね上がった。


 ベイスパロウのCBセンターバツクであるなかけいが、そこへ素早く走り寄って、軽くジャンプして頭でボールを跳ね上げた。


 木本弥生の頭上を飛び越えて、ベイスパロウキャプテンの野本茜へと渡った。


 と、そこへイレブンターキー北海道の十一番、てらもとが突進してくる。


 茜は反転し、寺田元美へ背を向けようとしたが、スリッピーなグラウンドに足を滑らせて転んでしまった。倒れたまま、なんとか寺田元美からボールを守り、ぶんと足を振って沼尾妙子へと転がした。


 妙子はボールを受けると、素早く前を向いた。

 その瞬間、イレブンターキーの木本弥生が、真横から激しいスライディングで足元へと突っ込んでいた。


 雨で地面との摩擦がきかないこともあり、妙子はまるでボーリングのピンのように吹っ飛ばされた。

 最初から足だけを狙っているような、悪質なプレーにしか見えなかったが、しかし笛は吹かれなかった。


 ベイスパロウのゴール裏サポーターから大ブーイングだ。

 といってもここはアウェイのため、十人ほどしかいないのであるが、だがしかし心強い援軍が、


「ブーーーーーーーッ! ブーーーーーーーッ!」


 ベイスパロウのベンチから、ささもとよし監督が加勢しているのだ。

 そのあまりの激しさに、隣にいるえのきあけコーチがちょっと引いてしまっている。


 しかしそれで試合の行方がどうなるものでもない。

 ボールを強奪したイレブンターキーの木本弥生は、ブーイングなどまるで気にしたふうもなく、前方へパスを出した。


 雨のため、すっと伸びるボール。野本茜が走り寄り懸命に足を伸ばしたが、あと半歩のところで届かなかった。


 パスを受けた七番の選手、伊生七海は敵陣つまり石巻ベイスパロウのサイドを、ドリブルでぐいぐいと進んでいく。

 彼女は百五十センチ弱と小柄ながらも非常に足が速く、そして非常に技術力にも優れた選手である。

 女子日本代表、いわゆるなでしこジャパンに選出されたこともあり、ベイスパロウにとって最要注意人物であった。


 その伊生七海の勢いを食い止めることが出来ず、ずるずるとベイスパロウのDFラインが下がっていく。


 伊生七海は、野本茜のプレスをかわしてついにPA内に侵入すると、素早いシュートモーションで右足を振り上げた。だが、振り下ろされることはなかった。

 守備に駆け戻ってきた篠原優衣が、背後から無理にボールを奪おうとして、足を引っ掛けて転ばせてしまったのだ。


 おそらく倒れたのは演技であろう。

 この豪雨でなければ、引っ掛けるもなにも、そもそも触れてもいないことが一目瞭然であっただろう。


 しかしながら、これは当然の事実ではあるが、サッカーの判定において最優先されるのは主審の主観、決断であった。


 笛が吹かれた。

 主審は、優衣に向かってイエローカードを高く掲げた。


 それはつまり、相手にPKペナルテイキツクを与えてしまった、ということであった。


     4

「なんで打たせなかった?」


 GKゴールキーパーどうじまひでの問いに、しのはらは改めて周囲を見回した。

 そして、すぐに気が付いた。

 ぼうきぬなかけいCBセンターバツク二人、そしてSBサイドバツクぬのよう、この三人の誘導によって、しっかりとシュートコースが限定されていたことを。


 交代で入る際、ささもと監督から充分に注意されていたではないか。よしななは仕掛けてくるタイプだ、と。確かに、ここは打たせるべきだったのだ。


 PKを獲得したイレブンターキー北海道の選手たちは、してやったりという表情で喜び、手を叩きあっている。


「すみません」


 優衣は、そう小さく口を動かすと、秀美に向けて申し訳なさそうに頭を下げた。

 あまりに小さな声であり、この豪雨に掻き消されて秀美の耳には全く届いていなかったであろうが。


「しょうがないよ」


 石巻ベイスパロウのキャプテンであるもとあかねは、そういうと優衣の肩を軽く叩いた。


 心なしか、雨の勢いがさらに増したようである。


 天から殴り付けるような雨の中、優衣へと一人の選手が近づいて行く。


「若い頃から騒がれているとさあ……」


 西にしひさである。彼女は、なんだか怒ったような表情をしていた。


「結局、たいしたことなくなったりするよね。よくいわれることだけど、まさかこんな身近でそれを見られるとは思わなかったよ」

「そういうのやめな。試合中だよ」


 野本茜が、久子の顔を睨みつける。


「反省は試合の後ですりゃいいんだ。いま選手を責めてどうするんだ。しかも優衣はメンタル弱いんだぞ」


 そんな茜の言葉を、久子は完全無視。優衣の眼前に立つと、怒りの表情をさらに強めた。


「黙ってないで、なんとかいってみなよ、なんとか。……つうかさあ、さっきからなにやってんだよ、お前!」


 優衣の胸を、強く突き飛ばした。


 とと、と優衣はよろける。

 べったり張り付いた前髪の間から、震える瞳で久子の顔を見つめた。


「さっきからじゃない。最近、おかしいだろ。いつもいつも、ぼけっとしてばかりいやがって。邪魔なんだよ。監督に使ってもらっているんだったら、集中しろ。やる気ないんならやめちまえよ! 出てけよ、もうここから!」


 やる気が、ないわけじゃ……

 優衣はそう思ったものの、思っただけ。微かに口を動かすことすら、なかった。

 やる気はある、といえるだけの自信などなかったからだ。


 下を向いたまま、優衣はただ滝のように降りかかる大きな雨粒に打たれている。


「久子! お前こそいまはこの試合だけに集中しろ!」


 茜は大声を出しながら、久子と優衣との間に割って入った。

 久子は面白くなさそうにふんと鼻をならした。


 イレブンターキー北海道の、PKである。

 ファールを受けた伊生七海自身が蹴るようで、ペナルティマークにぎゅっぎゅっとねじ込むかのようにボールを置くと、ゆっくり下がって助走の距離を取った。


 石巻ベイスパロウの守護神である堂島秀美はゴールライン手前に立ち、相手を睨みつけながら、両手を大きく広げて威嚇した。


 他の選手たちが緊張して見守る中、審判の笛が鳴った。


 伊生七海は、ゆっくりと、ゆっくりと、ボールへ近付いていく。

 足を振り上げ、振り下ろした。

 俗にいうコロコロを狙うつもりだろう、と思わせて、意表をついたのであろう。実際に蹴ったのは、助走のゆったりした様子とは比較にならないくらいの、勢いのあるシュートであった。


 先に動いてしまわぬよう最後まで耐え切った秀美は、蹴り足の角度から方向を見切り、全身のバネで大きく横へ飛んだ。


 方向は合っていた。

 しかし相手の嫌らしい駆け引きにより、若干タイミングをずらされていた。

 それでも懸命に指先を伸ばしてボールに触れたのは、さすが元日本女子代表といったところであったが、だが弾かれたのはボールではなく、指の方であった。あまりに指の先端であったため、威力あるボールに負けてしまったのだ。

 ゴールネットが大きく揺れた。


 イレブンターキー北海道 2‐0 石巻ベイスパロウ


 序盤に連係ミスから失点しながらも、じっと耐えて同点のチャンスを窺っていたベイスパロウの選手たちであったが、しかし、ついに二点差に広げられてしまった。


 堂島秀美は両手でピッチを何度も叩き、悔しがった。あとほんの一瞬でも決断が速ければ、絶対に防げたのに、とそんな自責を感じさせる険しい表情で。


 このPKを招いてしまった優衣は、豪雨の中、呆然と突っ立っている。


「切り替え切り替え!」


 と、選手たちが、それぞれのポジションに戻っていく中、西田久子が、その突っ立っている優衣へ、通り過ぎざまにどんと肩をぶつけた。

 わざと当たったのかどうかは定かではないが、謝るつもりがないのは定かなようで、ふんと鼻をならし、そ知らぬ顔でポジションへと走っていった。


「ほら、優衣、下向かないの!」


 茜が背中を叩き、叱咤する。


 しかしながら、気持ちを切り替えようと、落ち込む選手を励まそうと、もう後半三十分であり、点差を考えると時間がなかった。

 ここで石巻ベイスパロウの笹本監督は、二枚目の交代カードを切った。

 左SBサイドバツクであるせんチカを下げて、なるを投入した。


 久木成美はCBセンターバツクの選手なので、DFデイフエンダー登録同士の交代である。しかし彼女は、ピッチへ入るや否や、前線に張り付いた。

 笹本監督は、ベンチから大声で叫ぶ。それは、実にシンプルな指示であった。


「全員、上がれ!」


 守備の枚数を減らしてパワープレー。

 これが監督の指示であった。


 戦い方はいたって単純。

 久木成美とさねあいつみ、身長百六十六センチコンビのツインタワーにロングボールを放り込む。

 他の選手は攻め上がる。

 ただそれだけだ。


 どうせ、このままでも負けてしまうのだ。勝てる可能性のあることを精一杯やるしかない、ということだろう。

 終盤で二点差ということもあり、相手もすっかり引いており、ベイスパロウの選手たちは簡単にボールを持つことが出来るようになっていた。持ってはすぐに、久木成美と実合美摘のいる最前線へと、ボールを蹴った。


 百六十六センチがそこまで巨体というわけでもないのだが、イレブンターキー北海道の3バックは全員が百六十もないため、試合終盤の力押しとしてはそこそこ有効な作戦といえた。


 だが、相手も必死であり、良い位置を先に占められてしまったり、身体をぶつけられたりして、なかなかツインタワーにボールがおさまらない。


 しかし、下手な鉄砲もなんとやらで、ついに久木成美の頭へと、どんぴしゃりのロングボールが届いた。


 成美は、ボールの勢いを殺すように上手に胸で受けると、身体を捻って相手に奪われないよう守りながら、身体を滑らせるように落として、足におさめた。


 後方から一気に上がってきていた野本茜が、成美の横を駆け抜ける。

 綺麗なボール交換。

 一瞬にして、茜の足元へとボールは渡っていた。

 茜は、相手守備陣を完全に抜け出した。

 ゴール前には、GK一人だけだ。

 PA内に入ると、GKの位置や動きを冷静に見ながら、GKの脇を抜けるシュートを放った。


 GKは全然反応することが出来なかった。茜の蹴るタイミングがあまりに正直すぎて、それ故にかえってタイミングをずらされてしまったようにも見えた。

 しかしながら、あと僅か精度が足らず、クロスバー直撃。


 だがベイスパロウの攻撃はまだ続く。

 茜と同じくボランチである優衣も、上がってきていた。

 バーに当たって大きく跳ね返ったボールを、後方へ下がりながら胸トラップ。即座に相手の守備三人に取り囲まれたが、優衣は、胸でボールを押すようにしながら、足元に落ちるまでにまず一人かわした。足元に落ちた瞬間、右に、左にと軽いタッチでボールを転がしたかと思うと、既に残る二人も抜いていた。


 一瞬にして三人を抜き去った優衣のプレーに、観客席からどよめきがあがった。


 優衣は、利き足と反対である左足で、ボールをゴールネットへと転がした。

 逆をつかれたGKが、足を踏ん張って慣性に逆らおうとしたその瞬間には、そろっと柔らかくゴールネットが揺れていた。

 優衣のシュートが決まり、これで一点差になった。

 サポーターの太鼓の音。


 だが、優衣にとって汚名返上のゴールとはならなかった。

 押せ押せであった後半アディショナルタイム、またもや優衣の痛恨のパスミス、それが起点となって、カウンターから失点してしまったのである。

 またしても得点者は伊生七海。ハットトリックだ。


 ゴールと同時に、笛の音が、土砂降りの競技場に鳴り響いた。

 試合終了。


 イレブンターキー北海道 3‐1 石巻ベイスパロウ


     5

「あ、は、はい!」


 しのはらは、びくりと肩を震わせると、慌てたように立ち上がった。

 黒板を見て、先生の顔を見て、そして俯き加減に小さく口を開いた。


「分かりません」


 ここは石巻いしのまきせい女学院。宮城県石巻市にある、来年が創立百周年という伝統のある女子高である。


 現在、三時限目。

 二年三組の教室は、英語の授業中である。


「黒板を見たって問題なんか書いてないぞ。篠原、お前、分からないというより、聞いてなかっただけだろ。もう一度いうから聞けよ」


 英語教師のだかかずひろの言葉に、優衣は自信なさげに、小さく頷いた。


「昔の人の、有名な言葉あるだろ。我思う故に我在り。それと、敵を知り己を知れば百戦危うからず。それぞれを、英訳してみろ」

「はい」


 優衣はゆっくりと黒板の前へと向かい、前に立つと、特に考え込むこともなくすらすらと白のチョークで綺麗な筆記体を書き始めた。


 I think,therefore I am.

 Know your enemy,know thyself・・・・・・


 チョークを置いた。

 おずおずと、先生の顔を見る。


「正解。完璧」


 尾高先生が拍手をすると、教室のあちこちから、おーっと感嘆の声があがった。


「でもな、授業はちゃんと聞いておけよな」

「はい。どうもすみませんでした」


 優衣は申し訳なさそうに、小さく頭を下げた。


「あたしまーったく分からんかった」

「あたしも。つうかそんな格言聞いたことない。弱肉強食くらいしか知らん」

「それ格言じゃないよバカ」


 などとざわつく中を、優衣は相変わらずおどおどしたような俯き加減のまま、静かに席に戻るとゆっくりと腰を下ろした。


 授業は進み、それから十五分ほどもすると、終了のチャイムが鳴った。

 尾高先生が出ていくと、教室は大爆発でもしたかのようにどっと騒がしくなった。

 毎度毎度の光景。十代女子、パワーが有り余っているのだ。


 優衣の座っている窓際の席へと、いつものように友達が近寄ってきた。

 ふもとすげようの二人だ。


 この二人、なにからなにまで対照的なのである。


 麓絵美は、上下から押し潰したみたいに背が低くてずんぐりむっくりとした体型。

 性格は豪放磊落。

 ちょっと無神経なところがたまにきず。


 対して小菅洋子は、上下から機械で引っ張って伸ばしたかのようにひょろひょろっとした体つき。

 性格は生真面目の一言。


「優衣さあ、まぁたぼーっとしてただろー。なんかさ、最近疲れてんじゃないの? 性格暗いのはもともとだけど、そんなんじゃなくて、困ったことでもあって塞ぎ込んでるみたいな感じだよ」


 麓絵美がなんだか失礼なことを、場所も構わず大きな声で口に出した。


「そんなこと、ない」


 優衣は否定する。

 暗い、ということをではない。それは自分も認めている。困って塞ぎ込んでいるということをだ。


「そう? ほんならいいけど。実はあたしのほうこそ最近っつうか今日はお疲れなんだよね。昨日アニキに、極上たまごのふるふるプリン食われちゃってさあ。それで取っ組み合いの大喧嘩しちゃって、まあほんとに疲れた」


 絵美は、がははと豪快に笑うと、「勝ったけどね」とガッツポーズ。


「ちょっとお疲れの意味が違う気が。でもさあ、ぼーっとしてても、すらすらと先生の質問に答えられちゃうのが凄いよねえ。さすが天才少女」


 小菅洋子がさらりと、しかし大袈裟に褒める。

 中学三年生の頃、優衣はテレビのドキュメンタリー番組に出たことがある。中学生ながらなでしこリーグでプレーする天才サッカー少女で、学校の成績も優秀、という扱われ方であった。中学時代からの親友である洋子は、なにかといえばそれを引き合いに出してからかってくるのだ。


「洋子だって、解けたでしょ」


 優衣はぼそぼそ呟くようにいうが、教室の喧騒に掻き消されて、二人の耳には届いていないようだった。わざわざ聞かせ直すほどのことでもないので、優衣はそれきり黙っている。


 親に、サッカーを続けさせてもらうための条件として、夜は必死に勉強をしている。

 だから、そこそこの成績を保てている。

 ただそれだけだ。

 決して天才などではない。

 優衣は自分のことをそう分析している。


 勉強だけじゃない。サッカーにしてもそうだ。自分には天から与えられた才能など、なに一つない。


 それに対して洋子は、一を聞くだけで十を知ってしまうタイプだ。勉強しているそぶりをろくに見せないくせに、成績はいつも上位。こういうのをこそ天才というのではないだろうか。

 実は洋子も夜は机にかじりついているのかも知れないが、それにしたって、自分よりは遥かに勉強時間は少ないだろう。それで上位なんだから、やっぱり洋子のほうが凄いと思う。

 自分には、ほんとうになんにもない。


 でも、別になくても構わないのだ。

 そんな才能など。

 勉強も、運動も。


 優衣が欲しいと願っているのは、ただ一つ。

 それは……


      6

 りくぜんいな駅から徒歩二十五分ほどのところ、広大な田畑に囲まれた中にぽつんと住宅地が存在している。

 しのはらの自宅は、その中にある。


 外れの、田畑に面したところにあり、秋の昼などは窓を開けると稲穂による黄金の海が広がる目に見事な眺めになるが(住んでいると慣れてなんということもないが)、今は初夏でしかも夜、なにも見えやしない。


 街灯のほとんどない地区であるため、ただ漆黒の海が眼前に広がりさわさわという音が聞こえてくるばかりである。

 見所聞き所を強いて上げるならば、その稲穂の音に混じって届いてくる蛙の大合唱くらいであろうか。


 優衣は今、その蛙の大合唱を聞きながら、二階の自室で学習机に向かっている。

 学校の予習と復習を終えて、課題をやっているところだ。


 それが終了したら今度は、志望大学受験に向けての勉強をしなければならない。


 机の上のアナログ置き時計は、七時三十分を示している。


 今日は休日だ。

 早朝から勉強、そしてアルバイト、昼はサッカー練習、夕方に家に帰ってきてからまた勉強机に向い、現在に至る。


 もう三時間近くずっと机に向かっていたため、頭がぼーっとしてきた。

 ちょっと休憩をとることにした。


 空になったコーヒーカップを手に、自室を出て階段を下りる。


 居間でテレビをつけるが、どの番組もつまらなさそう。結局いつものことではあるが、消去法によりNHKニュースに落ち着いた。


 電気ケトルでお湯を沸かしている間にと、床に腰をおろして膝や股関節のストレッチなどをしていると、廊下の向こう、玄関ドアの開く音が聞こえた。


「ただいま」


 父が仕事から帰ってきたのだ。

 まもなく居間に父が姿を現すと、優衣は柔軟で床にぴたりと付けていた頭を持ち上げた。


「おかえりなさい。なにか作ろうか」


 立ち上がった。


「ありがとう。それじゃ、お願いするかな」


 父、しのはらまさあきは、スーツの上着を脱いで壁に吊るしたハンガーにかけた。

 中肉中背の、柔和な顔といった以外にこれといった特徴のない男である。


 優衣はこの家で、正昭と二人で暮らしている。

 やたらと気が弱く、そして非常に口数が少ない父親である。


 でも優衣は、自身の気の弱さは欠点だと思っているくせに、父のそれに関しては、まったくそう思っていない。

 二人でいつまでも口を開くことなく同じ部屋にいても、気まずくなることもないし、そういう面で親子の相性は良いのではないかと思っている。


 二人暮らしをしているのは、もちろん母親がいないため。優衣がまだ乳幼児であった頃、自分の時間が持てないことにノイローゼ気味になった母親の育児放棄が原因で、両親は離婚をしたのだ。


 仕方のないことではあるかも知れないが、働かなければならない正昭の子育ても、かなりいい加減なものになってしまい、優衣は祖父宅と自宅と保育所を行ったり来たりといった、そんな乳幼児、幼児時代を過ごしてきた。


 娘はきっと両親を恨んでいるに違いない、と父は思っているようなのだが、正直なところ少なからず恨んでいる面も確かにあり、二人の関係になにか問題があるとすれば、そういった点であろうか。


 それでもそれなりに、幸せに生きてきたつもりではあるが、しかし……


 優衣は遠い目になり、先日見てしまったものを、無意識に回想していた。

 瞬きすると、首を振り、その記憶を追い払った。


 胸に、手を当てた。

 鼓動が速くなっている。

 ゆっくり、深く呼吸をした。


 と、ちょっと焦げたような臭いが鼻に飛び込んできた。優衣は慌てて炒め物を素早くヘラで掻き回した。

 危うく焦げてしまうところであったが、いや少し焦げたが、でもぎりぎりセーフか。

 優衣はおでこの汗を拭うと、ため息をついた。料理を救った安堵のため息なのか、それとも別の何かなのか、自分でも分かっていないが。


 火を止めると、次いで隣の鍋を味見しながら味を整える。

 などとやっているうちに、父、正昭が風呂から出てきた。


「あ、ちょうど出来たところだよ」


 それほど父が長風呂であったわけでもないのに、短時間のうちに、電子レンジに頼らずしっかり調理された、そして女性らしく色あざやかな盛り付けの料理が完成、テーブルの上に次々とならんでいく。

 あまり考えずに適当に作ったので、和洋ごっちゃになってしまったが。


「おー、これは凄いなあ」


 正昭はテーブルに着くなり、早速と箸を取った。


「せっかくだから、わたしもちょっと食べよ」


 優衣も小皿を取ってきて、テーブルに着いた。まだまだこの後も勉強しなければならないのだし、カフェインと砂糖だけじゃ、頭も回らないから。


「うまい。優衣は本当に料理が上手だよな」


 正昭は、お世辞でなく娘の料理を褒めた。

 だが、それも一言だけ。その後は、ずっと黙ったきり、黙々と箸を口に運んでいる。


 美味しいのは間違いないのだし、一口ごとに褒めるのもかえっておかしいだろう。と、基本いつも無言で優衣の料理を食べる父なのである。


 テレビのチャンネルは相変わらずNHKであるが、もうニュースは終わっており、健康バラエティ番組をやっている。油っぽいものを食べる際に、ちょっとした工夫で血液ドロドロを防ごうという特集だ。


「なあ、優衣」


 正昭は箸を置いた。


「なに?」


 優衣はテレビから父の顔へと視線を動かした。もともとテレビに集中などはしていなかったが。


「お前、あの日さ……」


 二人は見つめ合った。

 ほんの僅かの時間であったが、緊迫した空気がこの場を支配した。


 優衣は、ごくりと唾を飲んだ。


「いやいや、なんでもない」


 父はまた箸と小皿を取ると、食事を続けた。


「え、なんの話? あの日って」


 そんなこと聞くまでもなく分かっているというのに、優衣のほうこそ、とぼけてみせることでその場をごまかした。


 このようにうやむやにすることが、ますます自分の精神を追い詰めていく、そんなこと、よく分かっているはずなのに。

 でも、どうしようもなかった。


 勇気が欲しい。

 ほんの少しでもいいから。


 優衣は心の底から、そう願っていた。

 これこそが、勉強も運動も出来なくて構わないと思う優衣が、ただ一つ欲しいと真剣に願うものであった。


     7

「そう、そこで挟み込め! ダナエ、そこでパスコース塞いどくんだよ! あかねも、そこでがっと上がんなきゃダメだろ! ぼーっと見てんな、バカかお前は!」


 ささもとよし監督の怒声が、先ほどからひっきりなしだ。

 日本女子サッカーリーグ所属、石巻いしのまきベイスパロウのチーム練習風景である。


 ここは石巻ランドと呼ばれている、クラブ専用の練習施設。

 数年前に潰れてしまったが、それまで隣の敷地にそういう名の遊園地が存在していた。現在、練習場を指す名前だけが関係者に通じる言葉として残っているのである。


 しのはらは、もとハルからのボールを胸で受けると、ほとんどその瞬間に、もう走り出していた。


 ボールを扱う技術全般に対して非常に優れた才能を持っている優衣であるが、その中でも特にトラップ技術は高い。フル代表の選手でも、彼女ほどの技術を持つ者はいないだろう。

 代表で米国相手にゴールを決めた試合の後、やたらと天才少女とメディアに持ち上げられた時期があったが、それも伊達ではないのだ。本人には、まったく自覚はないようだが。


 ルーズボールに駆け寄って拾った優衣は、簡単なフェイントでしばえいを抜くと、パスコースを探す。


「そこで潰せ!」


 監督の号令の下、ぬのようむくあいの二人が優衣を挟み込んだ。


 パスかドリブルか一瞬迷った優衣であるが、ドリブルを選択。だが椋愛子の足に引っ掛かって、転んでしまった。


「寝てんじゃねえよ。眠いんならとっとと家に帰って寝ろ!」


 監督の怒鳴り声を受け、優衣はすぐに立ち上がると、奪われたボールを追って走り出した。


 優衣はトップ昇格してからというもの、練習がオフの日と遠征の日以外はほとんど毎日この石巻ランドに通っている。

 例外は、膝の靭帯を負傷した時と、代表に呼ばれた時、それとただ一度だけだが風邪をこじらせてしまった時くらいである。


 その、靭帯の負傷というのも、原因は代表戦なのだが。

 中国女子代表の選手に、ドリブルしている背後から激しいスライディングを受けたのだ。


 オフの日以外は毎日練習に参加しているといっても、それはとりたてて褒めるほどのものではないだろう。トップリーグに所属しているチームの選手ならば、持っていて当然の責任感だからだ。

 大半の者が無給の身という世界とはいえ、日本の頂点に立つリーグの選手として練習し、全国規模の高レベルな試合を経験させて貰っているのだから。


 トップリーグに所属しているチームに入った以上は、暗黙の了解としてサッカーを最優先事項とする義務が生じるのである。それが嫌ならば、最初から友達を集めて草サッカーをやっていればいい。どちらが良いか、選択権はきちんと本人に与えられているのだから。


 でも優衣はこれまで、そんな義務感などではなく、単にサッカーが好きで楽しくて仕方がなかったから、苦しくても叱られても、毎日の練習に参加していた。

 しかし、ここ最近のことであるが、これまでの優衣を知っている者からすれば、現在の彼女は、なにかを忘れたくてサッカーに取り組んでいるように見えた。でもそれを忘れることが出来なくて、サッカーにも集中出来ていない。


 実はそのこと、優衣本人も自覚している。

 だからといって、どうなるものでもなかった。


 ぼうきぬが、スライディングでボールをカットした。立ち上がるや、すぐさま前方へパス。


 優衣が走り寄り、右足で受けるが、野本ハルが目の前に立ちはだかった。

 対峙は一瞬であった。

 優衣はボールを足の裏で引き寄せたかと思うとその瞬間、ちょんと前へ蹴り、ハルの股の下を通して、自身は横を抜けた。

 しかし抜け出したところで、ぬまたえに転ばされてしまった。


 全力で加勢に戻った妙子が、その勢いを殺せずに、つい両手で突き飛ばしてしまったのだ。


「優衣ちゃん、ごめーん」


 妙子は両手をすりすり合わせながら、笑顔で謝った。


「そんくらいで転がってるほうが悪いんだよ。早く起きてボール置きな」


 西にしひさは倒れている優衣を一瞥し、通り過ぎた。


 優衣は起き上がると、ボールを拾い、自分が倒されたところへ置いた。

 FKフリーキツク。蹴るのはファールを受けた優衣自身だ。


 直接得点が狙えそうな近い距離のFKは、優衣がいれば任されることが多い。

 筋力がないため、遠くまで飛ばそうと力強く蹴ると、どこへ飛ぶか分からない酷い精度のボールになってしまうのだが、しっかり届けられる範囲内であれば、優衣は非常に高いキック精度を持っているからだ。


 ゴール前にはビブス組と非ビブス組が押し合い、ひしめき合い、優衣の蹴るのを待っている。


「優衣、いいボールちょうだいね!」


 ニアで待ち構えるつじうちあきが、両手を激しくぶんぶん振り、大声を上げてボールを要求している。


 優衣は片手を上げて蹴る合図を送ると、ゆっくりと助走を付け、蹴った。

 どっ、といい音、足にいい感触があった。


 大きな弧を描いて、ボールはゴール前、秋菜の待つニアをすっ飛ばして、ファーへ。


 速度がなく、ふわりゆったりとしたボールであったが、GKゴールキーパーが飛び出しに迷う絶妙な位置に落ちると、野本茜がうまく頭を合わせてゴールネットを揺らした。

 力強くガッツポーズを取る茜。さすがキャプテン、と自画自賛の表情だ。


「ゆ~い~、なんでこっちにくれなかったのー」


 秋菜がうらめしそうな声を上げている。


「優衣、よかったぞ。いいボール上げたな。茜のゴールはおまけだ」


 さっきまで選手たち全員に怒鳴り散らしていた笹本監督であるが、ようやく満足げな表情になると優衣に拍手を送った。


「くまひげさん、おまけって、なんですかそれ!」


 頬をふくらませて、むくれっ面の野本茜キャプテン。まるで餌をたっぷり詰め込んだハムスターだ。


 くまひげさんとは笹本監督のあだ名である。ずんぐりむっくりとした体型で、腕も毛深く、あごひげももしゃもしゃと生やしているところが、なんだか熊を連想させるからだ。

 十代の選手は恥ずかしがって「監督」と呼ぶ者が多いが、それ以外の者は大抵、「くまさん」、または「くまひげさん」だ。


 話を戻そう。

 優衣はいま見せたようにFKの精度も秀逸であるが、それだけでなく、ボールを扱う技術全般として実に非凡な才能を持っている。

 欠点はフィジカルの異常なまでの弱さと、スタミナがないことであるが、そこはそう認識さえしておけば使い方でカバーが出来るというもの。


 実はそれ以外にも、優衣には致命的ともいえる欠点があった。

 監督によっては試合に出すことを躊躇、いや、ベンチ入りすら躊躇するほどの。

 いまのところ、それは表れてはいないようであるが。


 さて、仲間内での紅白戦とはいえ勝負は勝負。先制されたことにより、非ビブス組が熱くなった。

 ボールを持った野本茜に対し、とくやまかんがスライディングタックル、つい激しくいってしまい、転ばせてしまった。

 だが茜は倒れながらも足でくわえ込むようにボールを守り、野本ハルへとパスを出す。


 ハルにはすぐさま、柴野栄子と沼尾妙子が二人掛かりでプレスをかける。


 優衣はフォローに動き、ハルからのボールを受けた。

 だが今度は優衣自身が非ビブス組からのプレスを受けて、出しどころを探しているうち柴野栄子に肩をぶつけられて、よろけたところを奪われてしまった。


 優衣が奪われたボールを、すぐに茜がスライディングカットで奪い返した。

 しっかりボールにいっていたのでファールは取られなかったが、しかし、非ビブス組の激しくなってきたのに合わせて、ビブス組も熱くなってきていた。


 それは、最初は茜やてらなえなど、中盤だけでのことだったのだが、その尖った雰囲気はあっという間に全体に伝播してしまっていた。


 優衣はパスを受けたが、今度は布部洋子と椋愛子と、また二人に挟まれてしまう。右に左に軽快なステップでボールを守るものの、それは身体が勝手に動いるだけで、精神的な余裕などは完全にどこかへ飛んでしまっていた。


「優衣!」


 FWの辻内秋菜が、優衣のフォローのために下がってきた。


 しかし気迫のこもった相手のプレスにすっかり頭が真っ白になってしまっていた優衣は、相手チームである沼尾妙子のほうを向くと、そのままボールを渡してしまった。


「あちゃあ……また、出ちゃったか」


 前髪を掻き上げながら苦笑を見せる秋菜。


 これがその、優衣の致命的な欠点であった。

 相手の過剰な気迫を受けると、プレッシャーを感じて見るも無惨な状態になってしまうのだ。


 もちろん試合では、相手が気迫を持って当たってくるのは当然。最初は優衣も頑張るのだが、なにが引き金になるのか、なにかがきっかけでスイッチが入ってしまうと、もうおしまい。いま見せたような、ミスプレー乱発の酷い状態になってしまう。

 さらには、そんな自分に動揺して、どんどん酷くなっていくという悪循環に陥ってしまう。


 試合で九十分間保ったこともあるし、代表ではその癖があまり目立たなかったから、これまで毎年のように呼ばれてきたのではあろう。一種の爆弾である。


 今日もその爆弾を、紅白戦が終わるまで余すところ無く見せてくれた。


「ほんっとメンタル弱すぎ」


 秋菜だけでなく、キャプテンの野本茜も、苦笑するしかないといった様子であった。


「でも、以前はダメなりにとことん食らいついて、最後まで闘志見せて頑張っていたのになあ。なんか、あったのかな。あいつ、いっつも暗いから分からないんだよなあ」


 茜のぼやき。

 精神面さえ改善出来れば、いますぐフル代表に呼ばれたっておかしくない。そう思えばこそ、もどかしいのだろう。


「今度やらかしやがったら、度胸付けに、罰ゲームでショートコントとか一発ギャグでもやらせちゃおうかしら。……いや、泣き出しちゃうな」


     8

 異様に密度の濃そうな、ぶ厚い雲が、夏の星空を完全に覆い隠してしまっている。

 どんよりどんよりと曇った夜の空が、一瞬、昼間にでもなったかのように真っ白に光った。


 どどどどどど、ん。


 何秒か遅れて、低い音、振動。

 天気予報では終日快晴のはずであったのに、実際には昼頃から雲が出はじめ、いまにも雨が降り出しそうであった。


 しのはらは、駅前の通りを歩いている。

 グレーのスカート、白いブラウスの上には薄い素地のグレーのベスト。通っている高校、石巻いしのまきせい女学院の夏服だ。

 石巻ランドでサッカーの練習を終えて、その帰宅途中である。


 ユースの子など、中高生は自宅で私服に着替えてから練習に向かう者も多いが、優衣の場合そうすると一度JR石巻駅を通り越えて、戻って来ねばならないし、電車は一時間に一本であることから、学校帰りにそのまま石巻ランドへと向かってしまうことが多い。だから制服姿なのだ。


 見るからに足取りが重そうなのは、初夏の湿気や汗が服にじっぽりと染み込んでいるというだけではない。練習の疲労だけでもない。

 ここ最近、常にこうなのである。


 倦怠感、とでもいうのだろうか。

 いや、それとは少し違う。


 とにかく、ちょっとずつ、すべてのことが、考えるのも面倒なくらいに、どうでもよくなっている。


 これまでの優衣は、無趣味ということもあるが、ひたすらにサッカー優先の生活を送っていた。物理的な時間の使い方というだけでなく、自分の精神的立場という意識の持ち方としても。

 要するに、自分はサッカー選手であるという自覚を持って生きてきたということだ。


 優衣がサッカーを始めたのは、小学二年生の夏。

 何においても自信のない自分との付き合いが嫌になり、これだけは負けないというものを作ってみたいと思っていた時、脳裏に「サッカー」という言葉が誰かの声のように浮かんで、それで興味を持つようになったのである。


 おそらくその声は幻聴だったのであろうが、何故だか優衣は、いまでも鮮明に、その声を覚えている。


 とにかく、そうしてサッカーを始めた優衣であるが、自分はともかく周囲がその才能に気付くのに、さして時間はかからなかった。


 そしてその競技は、優衣自身にも向いていた。

 のめり込んだ。

 自信がついたというわけではなかったが、間違いなく成長を感じることが出来たから。


 いつかそれが人生においての自信に繋がることを信じて、優衣はサッカーを続けた。


 小学五年生の夏に、当時の所属クラブの監督に推薦されて、石巻ベイスパロウのセレクションを受けて合格、翌年より入団。


 その後、世代別代表に選ばれ、所属クラブの石巻ベイスパロウでも中三の夏でトップの試合に出場するという異例の早さで公式戦デビューを果たした。


 自信がつきました、とは堂々どころかささやかにもいえない。でも、何かにひたすら頑張れる自分を発見できたことは、きっと将来、勇気や自信に繋がっていくはずだ。そう信じて、優衣はサッカーを続けた。


 とはいうものの最近は、試合でも練習でも、自分の情けなさを見せつけられることばかり。


 サッカーだけではない。勉強だって必死になってやっているつもりだけれども、親が望んでいる仙台の国立大学は、この前の模試の成績から考えてちょっと厳しそうだし。


 それに……

 優衣は首を横に振り、ついつい思い出しそうになる記憶を追い払った。


 ●あんなの、見なければよかったのに。

 そうすれば、これまで通りだったのに。


 ため息をついた。


 クラブや学校で、みんながいっていた通り、自分はすっかり気が抜けてしまっているのだろう。


 世の中、自分なんか比較にならないくらいに苦しい目にあっていたり、空虚感に悩まされている人はいる。

 それに比べればなんということのないのは分かるが、でもやっぱり自分は強くない。


 辛いから自殺してしまおうなど、そんなつもりは毛頭ないが、今日死ぬ運命だというのならば、それはそれで構わない。


 そんな精神状態がいつまでも続いていること自体が辛かったが、だからといって自分でどうこう出来るものでもなかった。


 もう少し、勇気があればいい。

 ただ、それだけなのに……


 また、ため息をついた。


 いきなり、どどっと天を突くような、大きな喚声が聞こえてきた。いや、先ほどから耳には入っていたはずだが、まったく気付いていなかったのだ。


 宮城まきぞえスタジアム、現在はネーミングライツによりでんこうスタジアム、そこから、その喚声は聞こえてきていた。


 いま優衣の歩いている、この大通り沿いにあるスタジアムで、現在Jリーグの試合が行われているのである。


 どんどんどん、どんどんどん、と太鼓の音。

 両チームを応援する、熱狂的な喚声。


 そして、小さな女の子の笑い声。

 それはスタジアムからではなく、優衣のすぐ近くから聞こえてきた。


 優衣は視線を落とした。

 前方から幼い女の子が、小さな両手をそれぞれ両親に預けて、ちょこちょことした足取りで歩いてくる。

 まだ四歳くらいだろうか。

 無邪気な笑顔がかわいらしい。


 優衣は、ほほえましくなるのと同時に、ちょっと胸が苦しくなるのを感じていた。

 ものごころついた時から、「両親」というものを知らなかったから。片親だけの生活だったから。


 別に羨ましくなんかない。常々そう思ってきた。

 しかし実は羨ましく思っていることにも気付いている。どんなに理屈をつけようとも、自分の気持ちはそう簡単にごまかせるものではないのだ。


「しんごー変わっちゃうよ!」


 女の子は、そう大きな声をあげて両親の手を振りほどくと、横断歩道を走って渡り始めた。

 自分だけ渡り切ったところで両親が来なければ急いだ意味がないのに。


 ただ反対側で待っていたいのだろう。両親が子供のように遅れてやってくるのを、自分のほうこそが大人になったつもりで。


 家族、

 三人で、

 笑顔、

 お母さん……


 優衣は、苦しそうに顔をしかめ、胸を押さえた。


 その時である。

 どどどど、と低いエンジン音が空気を震わせたかと思うと、大きなトラックが速度を落とすことなく横断歩道へと突っ込んできた。


 猛スピードというわけではないが、制限速度は遥かに越えているであろう。


 横断歩道側の歩行者信号がちょうどいま赤に変わったところであるが、車両側もまだ赤、完全な信号無視だ。

 突如唸りをあげて現れて視界一杯に広がったトラックに、女の子は瞬時に状況を理解することが出来ず、きょとんとした表情のまま動けなかった。

 金切り声のような、母親の絶叫が空気をつんざいた。


 優衣はバッグを投げ捨て、車道へと飛び出していた。

 身体が勝手に動いていたのだ。


 女の子へと走り寄ると、両手で突き飛ばしていた。


 ぎぎぎ、と鼓膜の破れそうな、不快な急ブレーキの音に、優衣は顔を上げた。


 突っ込んでくるトラック。

 ライトが、優衣の全身を照らした。


 眩しさに目を細めたその瞬間、さらに激しい、まるで超新星のような光の粒子が、空から降ってきた。

 間近で何かが大爆発したかのような、凄まじい雷鳴とともに。


 世界は真っ白に包まれた。


     9

「ぶっ殺す!」


 まつしまゆうはそう叫ぶと、自分のほっぺたをばちばちべちべちと、ひっぱたき始めた。


 いつも通りの気合い入れに、チームメイトは平然としたものであるが、対戦相手の選手たちはすっかり唖然としている。


 ここはでんこうスタジアム。

 サッカーJ1リーグ、ズンダマーレみや対オミャンパスおかざきの試合が、これから行われようとしている。


 列になっている両チームの選手たちは、それぞれにかわいらしい小さな子供の手を繋いでいる。間もなくこのエスコートキッズとともに、ピッチへと入場だ。


 松島裕司はズンダマーレ宮城の選手である。年齢は二十九歳。身長百八十センチの、快足と泥臭さいプレーが売りのFWである。


 高卒で、まだ社会人リーグ所属であった宮城に入り、それから宮城一筋。

 昇格の都度、選手が大幅に入れ替わり、JFL時代にチーム名称も現在のものに変わり、そしてJ2、J1、と、そんな中で松島は常にこのチームにいた。

 激動の時代の全てを肌で知っており、現在もなお主力として活躍していることから、いつの間にかミスター宮城などと呼ばれる存在になっていた。


 スタジアムの観客席では、宮城サポーターがタオルマフラーを高く掲げ、毎試合恒例となった宮城県歌を歌っている。


 サポーターの合唱に合わせて、大声を張り上げている松島。

 右手を振り上げ、振り下ろし、振り上げ、振り下ろし、その仕草のせいか、野太い声のせいなのか。彼が歌うと、県歌が軍歌っぽく聞こえるのは。


「変態野郎、うるせえな!」


 さっきからイライラして舌打ちを繰り返していたオミャンパス岡崎のやまが、我慢出来ずに声を荒らげた。


 全然耳に入っていないのか、松島は腕をぶんぶん振って魂の県歌熱唱を続けている。


 小宮山はため息をついた。


 彼は松島と、小学校時代の同級生である。

 松島と違って、Jクラブのユースからとんとん拍子にJリーガーになった、いわばエリート街道を突き進む選手だ。


 高年俸に引き止められて、万年中位の岡崎に所属し続けているものの、海外からの評価も上がってきておりさすがに移籍も秒読みといわれている。

 選手寿命の短いサッカー選手、二十九歳での海外挑戦を誰も責めることは出来ないだろう。


 場内のスピーカーから、観客の喚声を打ち消すような大きな音楽が流れ始めた。それに負けじと、喚声もより大きさを増した。


 選手の入場だ。

 まずは先頭、宮城のユニフォームを着た女性が四人、大きなフラッグを持ってスタジアムへと入っていく。


 続いて審判団。

 主審 いえのぶまさ

 副審 西にしよしろうよつあき

 の三人が横並び。


 そして、選手たち。まず先頭が歩き始め、松島裕司もそれに続く。


 暗く狭い通路から、一気に視界が開ける。

 観客席では大勢のサポーターが、タオルマフラーを振り回し応援の声を張り上げているのが見える。


「頑張んねえとなあ」


 きらきらと、輝いている観客席を見渡しながら、松島は呟いた。


 こんなにたくさんの人達が、応援してくれてるんだからな。九十分間、頑張らないとな。


 慣れることなく毎度のように、試合前にそう思う松島である。

 サッカーをやれる喜びを胸に、必勝の闘志を沸き上がらせ、いざピッチの中へ。


 ばらばらになり、少しピッチを走り回った選手たちは、再び集まり写真撮影。そして、またピッチ上に散らばった。


 ズンダマーレ宮城は、緑色のユニフォーム。

 対するオミャンパス岡崎はえんじ色、アウェイの地であるがホームと色調が被らないためファーストユニフォームだ。


 今年からズンダマーレ宮城の新たなスポンサーになった、もりワイナリーの社長による始球式。

 小太り社長が、なんとかかんとかよたよたとボールへ近づいて、蹴飛ばした。

 転げることなく上手に蹴られたことで、会場からは大きな拍手が起きた。

 それが収まったところで審判の笛。ピッチ上でそれぞれボールを蹴っていた選手たちは、次々と外へと蹴り出して、センタースポットに置かれている一つだけになった。


 エンドを決めるコイントス。

 続いて両チームはそれぞれ集まって円陣を組む。

 ズンダマーレ宮城は、キャプテンである松島裕司の音頭の下、大きな叫び声を上げ、再びピッチ上に散らばった。


 松島は、ボールを軽く踏みつけ、笛を待つ。

 主審は、改めて笛を口にくわえると、片手を高く上げた。


 笛の音が鳴り響いた。

 観客席を埋め尽くす熱狂的な声援の中、ズンダマーレ宮城ボールで試合が始まった。


     10

 まつしまゆうは、相棒のとうにちょこんとパスを出す。

 同時に、両サイドの選手が全力で駆け上がる。


 後藤は大きく、前線へと送った。

 右サイドを駆け上がるおおを狙ったボールであった。


 だが、オミャンパスおかざきDFデイフエンダーは、さして大柄でもないというのにしっかりとポジショニングを取り、落ち着いて弾き返した。ただ弾くだけでなく、上手に自分の味方へと。


 岡崎の選手にボールがおさまると、そこからは岡崎ペースであった。


 宮城の選手が前線から激しくプレスをかけににいくのだが、簡単にかわされ、いなされる。人の少なくなった中盤にボールを通されて、ピンチを招く。この繰り返し。

 なんとか頑張って後ろからラインを押し上げたかと思ったら、今度は岡崎のロングボール一発で大ピンチ、結局押し戻されてしまう。


 サッカーというものは、所属カテゴリーによほどの違いがない限りはペースを握る時間帯がお互いに訪れるスポーツであるが、宮城はいつまで経ってもペースを掴むことなく、岡崎の猛攻に、押されに押され続けていた。


 岡崎が強豪ならばいざ知らず、かつて一度たりとも上位に食い込んでシーズンを終えたことのないチームだというのに。


 宮城としても、引いてカウンター一辺倒とでも出来れば、勝つための現実的な戦い方をしているということで少しは引き締まって見応えのあるものになったかも知れないが、しかしながら、どこをどう見ても完全ポゼッション指向。

 けれどもそれがろくに選手間に浸透しておらず、またその能力もないものだから、結局のところ嫌な奪われかたをしては必死に守備に戻るのを繰り返すばかりで、いたずらに自らの体力を消耗してしまっていた。


「こっちよこせ、おい!」


 センターFWの松島裕司は、大声を張り上げて、味方にボールを要求する。

 しかし宮城の選手たちは、相手の巧妙な守備の前に、とてもボールを前に送るどころではなかった。


 やみくもに前へ蹴り出してみても、FWの手前で簡単に処理をされてしまう。


 こうしてなにも出来ずに、ただ時間や体力が減っていく中、前半二十九分、ついに宮城は失点した。

 岡崎のトップ下の選手である小宮山にスルーパスを通されて、抜け出したFWに、あっさりと決められてしまったのだ。


 天を仰ぐズンダマーレ宮城の選手たち。

 地を叩いて悔しがるGKゴールキーパーもとけんいち


 そう……

 もう充分に想像がついていることとは思うが、ズンダマーレ宮城は弱いのである。

 今日は、先制されるまでもったほうだ。


 J1に昇格してから五年、宮城は毎年のように残留のための綱渡りをしていた。

 そんな低迷状態から脱却するため、去年の夏に知将と評判の外国人監督を招いた。


 彼は、J1での宮城の基本ともいえる戦い方であったカウンターサッカーをやめて、ポゼッションサッカーを導入。


 しかし、知将という評判がまったくの出鱈目だったのか、脳が老いたか、それとも選手たちに技量がないだけなのか、まったく成熟が進まないまま、現在、チームは降格圏内の十七位。


 どんどんどんどん。


 宮城ゴール裏から、選手を励ますべく太鼓の音が鳴り響く。そして、サポーターたちの声援。

 今日もサポーターたちは、先制されても諦めていなかった。

 毎試合のように負けている宮城だというのに、それでも、今日こそは勝つと信じて大きな声援を送っている。


「逆境を……楽しめ」


 またもや先制されてしまったことに萎えそうになる気持ちを、こうして大勢のサポーターに鼓舞された松島は、そう己の胸にいい聞かせると、全力で走り出した。


 ド根性のスライディングタックルを見せて、相手DFからボールを奪い取った。

 完全に相手の足に入ってしまっていたが、気迫が誤審を招いたのか笛は吹かれなかった。もともとあまり見ずに雰囲気でジャッジすることで有名ないえのぶ主審であるが。


 ボールを奪い取った松島は、前方へ大きくボールを転がすと、それを追いかけて全力で走り出した。


 岡崎の守備陣が高いラインを取っていたタイミングでボールを奪えたものだから、前方には大きななスペースが広がっている。


 松島裕司、完全独走だ。


 彼は技術よりも、粘っこさや足の早さ、スタミナを売りとしている選手である。広いスペースを一気に駆け上がってのゴールは、もっとも得意とするところだ。

 宮城の大チャンスに、岡崎の大ピンチに、観客席全体がどっと沸いた。


 松島は走る。

 走る。

 雄叫びをあげながら。

 声に、胸に。


 これだから、サッカーっつーのは面白いんだよ。

 個人がダメダメだってチームワークで強くなることもできるし、反対にチームが元気ないときに個人の頑張りで打ち破ることだって出来るんだから。

 それだからサッカーってのは、見る者に、サポーターたちに、感動を与えられるんだ。

 だから、

 だからこのチャンス、絶対、生かす!


 松島はまたボールを大きく蹴った。

 まるで百メートル走のような全力疾走で、ぐんぐんと、風を切ってゴールへ向かって突き進んでいく。

 ゴールが近づいて来ると速度を落として、小さなボールタッチへと切り替えた。


 背後に足音。おそらく追ってきた俊足CBのせりながけんぞうだ。


 それにちょっと気を取られた瞬間、正面から岡崎のGKが猛然と飛び出してきていた。

 GKは、シュートを阻止しようと、身体を横へ倒した。


 甘いよ!

 松島はその動きを冷静に見ながら、半歩横へステップを踏み、そして素早いモーションで右足を振り抜いた。


 その時である。

 どんよりどんよりと曇っていた夜空が突然、カッと明るく光った。


 凄じい雷鳴。

 鼓膜の破れそうな、バリバリバリバリという轟音が空気をつんざいた。


 まるで超新星を間近に見るかのような閃光に、すべては真っ白に包み込まれ、すべてが溶けた。

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