Chapter 7. Sweet Little Bird(優しい小鳥)3







 ルースは、芳しい香につられて目を覚ました。この香ばしい匂いは……コーヒーだ。


 身を起こし、目をこするとリトル・バードが「オハヨウゴザイマス!」と声をかけてきた。


「……おはよう。いい匂いね」


 眠気を堪えて挨拶を返す。


「おはよう。お前も飲むか」


 トゥルー・アイズが、コーヒーを啜りつつルースに尋ねる。


「是非――。あなたたちも、コーヒー飲むのね」


「私の趣味だ。他のレネは、あまり飲まない。コーヒーを作る道具は、フェリックスにもらった」


 なるほど、とルースは得心する。トゥルー・アイズはしばらくフェリックスと共に移民の町で育ったから、コーヒーの味を覚えたのだろう。


「スグ淹レマスネ、ルース様。ワタシ、コーヒー淹レルノ得意ナンデスヨ」


 そう言って、リトル・バードはまたコーヒーをたて始める。


(トゥルーさんのために、練習したのかな)


 そう考えると、益々いじらしく思える。


「トゥルーさんは、いい奥さんを持って幸せ者ね」


 思わず呟いてしまった。


 トゥルー・アイズは照れるでもなく、表情も変えずに「そうだろう」とのたまう。リトル・バードの方が照れ、顔を赤くしていた。


「コーヒー飲ンダラ、ルース様ハ身支度シマスカラ。トゥルー様、一旦出テクダサイネ」


「はいはい。……もう飲み終えたから、私は出かけてくる」


 トゥルー・アイズはカップをリトル・バードに渡して、天幕から出ていってしまった。


「トゥルーさん、忙しいのね」


「シャーマンノ仕事ガタマッテルラシイデス。色々、相談ニ乗ラナイトイケナイノデス」


「なるほどね」


 ルースは頷き、あくびをこらえた。知らない土地だというのに、昨夜は驚くほどよく眠れた。静かだったから、だろうか。


「……なんだか、悪いことしちゃってたのね。トゥルーさんて忙しい人なのに……あたしのために、フェリックスはトゥルーさんのこと、何度も呼んでたもの」


 トゥルー・アイズはフェリックスに呼ばれて、しばしば集落に留守にしていた。そのせいで、シャーマンとしてのやることが溜まっているのだろう。


「大丈夫デスヨ。トゥルー様モ、無茶ハシテマセンカラ。レネノ者モ、ヨクワカッテマス」


 リトル・バードはルースの悩みを一蹴して、コーヒーの入った木のカップを渡してくれた。


「ありがとう。……わあ、おいしい」


「エヘヘ。何ヨリデス。豆ガイイカラオイシイノデスケド。フェリックス様ガクレタ、豆ダソウデスヨ」


「あら、そうなの」


 お礼はコーヒー豆でしていたのだろうか、と思い浮かべると、なんだか楽しくなってしまった。


(フェリックス、かあ……)


 迎えに来てくれるはずだと言われたが――本当に、来るのだろうか。


(いえ、来るわよね。あたしはカロの娘っていう……監視対象なんだから)


 さっきまでの楽しい気持ちが萎みそうになってしまい、ルースは気を紛らわすためにも、ぐっとコーヒーをあおる。熱くて、舌が火傷しそうになってしまった。








 一方、フェリックスはすぐには出発できなかった。ルビィの引き渡しをせねばならないからだ。


 幸い、ジェーンは想定より早く東部から戻ってきたフィービーを順調に捕まえたらしい。


 ジェーンはフィービーを連れ、フェリックスに追いついた。


「久しぶりだな。お前が、ブラッディ・レズリーのスナイパーを捕まえるとは意味不明だが、手柄は手柄だ。褒めてやろう。特に何もやらないがな」


 フィービーは、相変わらず横柄だった。隣のエウスタシオは、静かにフェリックスの足元で縛られ転がっている少女を見ている。


 ジェーンは今、ここにはいなかった。用事があると言って、出かけている。


「はいはいっと。とにかく、この子を保護してあげてほしいんだ。既に一回、襲撃があったから居場所はばれてる」


「すぐに手配しよう。……東部にやるのが、一番いいな。ブラッディ・レズリーといえど、東部にはそうそう手も出せまい。エウ、手続きを頼んだ」


「はっ」


 フィービーの指令に応え、エウスタシオは部屋を出ていってしまった。


「手配が終わるまで、お前とジェーン・A・ジャストも護衛に協力しろ」


「……わかったよ」


 フェリックスは一瞬ためらったものの、頷いた。ルースは、トゥルー・アイズと共にいるので当面危険はない。もちろん、迎えに行くつもりだったが、ルビィの安全も重要だ。彼女の引き渡しを終えたら、すぐにレネの集落に行けばいい。


 フェリックスはため息をついて、屈みこんでルビィの目を覗き込んだ。


 少し辛抱してくれよ、と口の形で伝えるとルビィは小さく頷いた。


 なぜルビィがフェリックスを訪れたのか、を聞かれるとまずい。あくまでフェリックスが偶然、彼女を捕らえた形にした方が都合がよかった。そういうわけで、彼女は今、縛られているのである。


(でも、いつまでも秘密――ってわけにもいかないよな)


 ルビィの口から、クルーエル・キッドことアーサーの正体が吐露されれば……保安官は全力で動く。


 フェリックスはそのとき、どういう立場を取ればいいのだろうか。兄がクルーエル・キッドとは知らなかった、哀れな弟?


 はあ、とフェリックスは息をつく。


 なんとなしに、母の顔を思い出してしまった。レズリー、それは母の名前だ。だが、彼女が実際に使っていた名前ではない。


 母は、アンという平凡な名前だった。だからか、いつか物語で読んだ物語に出てくるヒロインの名前を、こっそり使うことがあったのだという。


 どういう折に使ったのかは、わからない。だが、教師らしく真面目一辺倒だった彼女が、この話をするときだけは悪戯っ子のように笑っていた。


『私はアン・メアリ・マクニールという名前とは別に、名前を持っているのよ。レズリーというの』


 フェリックス――エヴァンは、彼女の機嫌が良いときには媚を売るように、ひたすら笑っていた。秘密の名前を明かされたときも、別におかしくもないのに笑っているエヴァンを見て、母が顔をしかめたことを覚えている。


 ただ、愛されたくて。でも、エヴァンの行動は全て裏目に出た。母は、エヴァンが何かする度に機嫌を損ねた。


 どうして、兄のように如才なく振舞えなかったのだろう、と今なら思えるが、幼い自分にはどうしようもなかった。


 秘密の名前については、息子たち――つまりフェリックスと兄のビヴァリーしか知らない。夫すら知らない事実だ。


 だからこそ、ビヴァリーはこの名前を使ったのだろう。


(……どう、転ぶんだろうな)


 ブラッディ・レズリーごと、ビヴァリーは滅びるのだろうか。


 フェリックスは、兄のことは自分の手で殺そうと決めていた。彼は悪魔に憑かれてはいないだろうから、悪魔憑き以外の人を殺すことになる。


 抵抗はある。しかし、退くつもりはなかった。


 己の手で兄へ引導を渡してやることが、兄への手向けになると信じていたから。


 ノックの音で意識を戻す。「ジョナサンだよ」という応えに反応したのはフィービーで、さっさと扉を開けていた。


「何の用だ? ここは立ち入り禁止だ」


「フェリックスに用があるんだよ。入れてー」


 入れて、と言いつつジョナサンは勝手に入ってきた。フィービーもさすがに子供には強く出られないのか、黙って扉を閉めていた。


「ジョナサン、どうした?」


「お父さんが、これからどうしたものかって……。色々、フェリックスに聞いてこいって言われたの。お姉ちゃん、戻ってくるの?」


「勝手には戻ってこないな。トゥルーといえど、二人だけでここまで戻るのは危険だ。トゥルーは銃が使えないし。だから、俺が迎えに行く」


「ふーん。僕ら、どうしよう」


 ジョナサンは困り切った表情をしていた。


 ルースはしばらく歌い手を務めていなかったとはいえ、彼女抜きの巡業は抵抗があるのだろう。ルースを迎えに行くのにウィンドワード一座に同道してもらってもいいが、寄り道をする暇もないので巡業もできない。


「……農場に戻ってもらうのが、一番かな。俺がルースを迎えに行って、そこまで送り届けるよ」


 これが最後の仕事として、ちょうどいいだろう。


 ビヴァリーの正体が露見する以上、そろそろ決着を付ける時期も近づいている。フェリックスは、無傷で兄を殺せるとは思っていなかった。相討ちでも、いい方かもしれない。


「わかった。すぐに帰った方がいいの?」


「いや、ルビィの引き渡しが終わってからだ。ウィンドワード一家には、ジェーンを護衛に付ける。親父さんに言っておいてくれ」


「はーい」


 ジョナサンはいい子の返事をして、フィービーをじっと見上げてから出ていった。


「……何だ、今のは」


「さあ。怖い顔してる奴いるなあ、って感心してたんじゃないか?」


 フェリックスの答えに、フィービーはすかさず銃を抜いていた。冗談が通じなかったらしい。


「しかし、死ぬ気で裏切り者を殺すかと思っていたら、意外にブラッディ・レズリーも悠長だな」


「一度、襲ってきたぞ?」


「手ぬるいと思うが?」


 フィービーの言う通りだった。襲撃は一回きり。それも、三人だけ――。


(もしかして)


 襲撃者はルビィより、ルースを狙っていた。もしかすると、ルビィのことは狙っていなかった可能性もある。


 しかし、そんなことが有り得るのだろうか。ブラッディ・レズリーが裏切り者を放置するなんて、おかしすぎる。


 まさか、とフェリックスは可能性に思い至り、背中に冷たい汗を感じた。


 ルビィが証言し、正体をばれることを恐れぬどころか望んでいるのだとしたら……?


「おい、お前。どうした」


「……いや」


 フェリックスはフィービーに短く答えて、窓の外に目をやった。もう、日は暮れ始めている。


 ルースの元に急ぎたいが、ルビィが狙われる可能性もゼロとは言えない。油断を誘っているかもしれないのだ。とにかく、フェリックスは離れられない。


 待ってろよ、と心の中で呼びかける。


 ただでさえ、真実が明らかになって心が弱っているのに――。また、不安な思いをしていないといいが。


(いや、レネのところならかえって精神面は安心するか)


 フェリックスは、ルースの顔を思い出して……目を閉じた。


 もう、ルースはフェリックスのことを信頼していないだろう。嘘ばかりついて、隠し事ばかりして、結局ルースを傷つけてしまった。


 やはり、過去のルースとの約束を守るべきだった。どうして、言ってしまったのだろう。彼女が見た目より繊細なことは、痛いほどわかっていたのに。


 あのまま言わないで、守り切って――さっさと姿を消すのが一番よかったのに。

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