Chapter 3. Angel's Heart(天使の心)2
翌朝、洞窟を目指して出発した。
町から出て小一時間ほどだろうか。特にトラブルもなく、目的の洞窟に着いた。
フェリックスが馬から下り、「様子を見にいくから少し待っててくれ」と言い残して入っていってしまった。
しばらくしてフェリックスが出てきて二人に頷きかけたので、ルースもトゥルー・アイズも馬から下りた。
中に入ると、ひやりとした空気が包んだ。
「……わあ」
ルースは足を止め、大きな氷の塊に息を呑んだ。氷の中に、まばゆい光がある。
ルースからはただの光にしか見えないが、フェリックスには天使に見えているのだろうか。
「どうして凍っているの?」
「ただの氷じゃない。悪魔が氷漬けにでもしたかな。……ちょっと待っててくれ」
フェリックスは氷に近付き、何事か話しかけていた。
「……ちょっと交渉が長引きそうだな。トゥルー。外でルースと待っていてくれ」
「わかった」
「えっ」
ルースは戸惑ったが、トゥルー・アイズに手を引かれて彼の後を追うことしかできなかった。
フェリックスは二人が出ていったのを見送り、また氷に向き直った。
フェリックスの目には、天使は金髪の青年に見えた。とはいえ天使は悪魔と同じく現世では実体を持たないはずだから、これは自分のイメージが具現化しているだけだろう。
「――聖水をかければ、あんたは解放されるんだな?」
『おそらく』
「それで、さっき頼んだ……悪魔の植物に取りつかれた依り代の少年――彼の中に入って、浄化してくれるか」
『構わないが、今の私は弱っている。ここから出た後は実体を保てず、天に帰ってしまうだろう。私を依り代の少年に入れたいのなら、彼をここに連れてくるしかない』
「……それは無理だ。体がもたない」
『なら、違う依り代を貸せ。あの少女もまた――依り代だろう』
天使の発言に、フェリックスは眉をひそめた。
「ああ。だが……入れるのか?」
『問題ないだろう。作用しないようにする。だが、浄化はできない』
「……わかった。あんたがいいなら、頼む」
フェリックスは殊勝に頭を下げてから、一旦洞窟の外へと向かった。
「ルース」
声をかけられ、馬にもたれかかっていたルースは顔を上げた。
「どうしたの?」
「……天使が、一旦誰かに取りつかないと実態を保てないんだってさ。天使曰く、お前もエンプティらしいから、一旦依り代になってくれるか」
フェリックスの発言に、ルースは仰天した。
「あ、あたしもエンプティなの!?」
「らしいな」
「でも――あんた、言ったじゃない。わからないって」
「俺から見ても、わからないんだよ。天使がエンプティって判断したんだ」
「……」
ルースは、じっとフェリックスの目を見た。
(本当に、それだけ?)
そう聞きたいのを堪えて、ルースは頷く。
「わかったわ。それで、あたしはどうすればいいの?」
「こっちに来てくれ。トゥルーも」
「ああ」
そうして三人は再び、洞窟の奥へと向かった。
「今から氷に聖水をかける。そしたら、お前の中に天使が入ってくるはずだ。……ちょっと変な感じがするかもしれないけど、こらえてくれ」
「了解」
フェリックスの指示に頷き、ルースは氷の方を見やった。
フェリックスは懐から聖水の小瓶を取り出し、氷に向かってかける。すると、みるみる内に氷が溶けだした。中の光が、輝きを増す。
あまりの眩しさに目を抑えたルースは、突然腹のあたりが熱くなる感覚に耐えきれず、膝をついた。
「……っ」
「ルース、大丈夫か」
フェリックスがすぐに、助け起こしてくれる。
「今、天使がお前に取りついたんだ」
「なんだか、ぐらぐらする」
ルースは目を閉じる。立とうとしているのに、足が言うことを聞かない。
「ルース――」
ぷつりと、フェリックスの声が聞こえなくなった。
意識が覚醒したのは、どれほど時間が経った後だろう。
これは馬に揺られる感覚だ、と気づいて体の状態を意識する。
どうやら、誰かが抱きかかえるようにして馬に乗せてくれているらしい。
「ルースは大丈夫なのか」
トゥルー・アイズの声が聞こえる。
「うーん、あんまり大丈夫じゃなさそうだな。拒否反応ってやつか?」
フェリックスの声は、かなり近くから聞こえた。どうやら、ルースを乗せているのはフェリックスのようだ。
「やはり――同居は難しいか」
「そうだろうよ。急いで、ジョナサンのところに行かないとな」
同居……と、ルースは心の中で反芻する。
(あたしの中には既に、何かがいるってこと?)
そこでようやく、得心がいった。
(あたしが記憶を失くしたいと自ら願った理由は、きっとそれに関することなのね)
もっと考えたいのに、意識をそれ以上保っていられなかった。
はっきりと目覚めたのは、ベッドの上だった。
「……あれ」
宿の一室のようだ。最低限の家具しかない、簡素な部屋だった。
ルースはベッドからおりて、ブーツをはいた。
服は寝間着ではなく、ルースが意識を失う前に着ていた服だ。
(あの洞窟から、あまり時間が経っていないのかしら)
外に出ようかと思ったが、フェリックスやトゥルー・アイズがここに来るまで待つ方が得策だと判断し、ルースはベッドの上に腰かけた。
「……」
夢うつつで、気になる会話を聞いた。
腹に手を当てる。まだ、違和感があった。
そこで、いきなり部屋のドアが開いて、フェリックスが入ってきた。
「……あ。ルース、起きたか」
「ええ。ここはどこ?」
「洞窟から少し離れたところにあった、町だよ。治安があまりいいところじゃないから迷ったけど、ここに一泊するのが一番いいと判断したんだ。一刻も早く、農場に帰らないといけないからな。――それで、体は大丈夫か?」
「まだ少し変な感じがするけど、大丈夫」
「そうか、よかった。もうすぐ夕食の時間なんだが、食堂まで行けるか?」
「うん」
ルースはふと、フェリックスを見上げた。
「どうした?」
「あたし、夢うつつであんたとトゥルーさんの会話聞いたんだけど」
「……」
「あたしの中に、元々何かがいたの?」
フェリックスはうろたえるかと思ったが、意外な行動に出た。にっこり笑って首を傾げたのだ。
「何を言ってるんだ? ルース。お前がエンプティなことは、俺だって今日初めて知ったんだぞ」
「う、嘘。じゃあ、あの会話は何だったのよ」
「夢でも見たんじゃないか? さあ、行こう。早く」
フェリックスはルースを促した。嘘なんてつきっこないと思わせるような、爽やかな笑顔で。
「……わかったわ」
これ以上追及しても、口を割らないだろう。ルースは頷き、フェリックスの背を追った。
どうやら、ここは賞金稼ぎの町だったらしい。食事を取っている最中に説明を受け、ルースはきょとんとしてしまった。
「賞金稼ぎの町? この前、行ったところと一緒?」
「いや、違う。もう一つあるんだよ。こっちの方が小さいけどな。というわけで、あそこに負けず劣らず治安が悪い。一人じゃ歩かないように」
「わかったわ」
そもそも、一人で歩き回れるような体調でもないのだが。
「おーい」
大柄な男が、こちらに手を振って近付いてきた。
誰、と尋ねかけたところでルースは気付いた。
フェリックスの記憶に出てきた、カルヴィン・エスペル――フェリックスの銃の師匠だ。
(そういえば、彼は賞金稼ぎだった)
しかしフェリックスは、ルースが彼を知っているなんて、思いもしていないのだろう。
フェリックスは、きちんと説明してくれた。
「あのオッサンは、俺の銃の師匠。賞金稼ぎだ。さっき町を歩いてたら、偶然会ってな。夕食を一緒に取ろう、ってことになった」
「そ、そうなの」
ルースはぎこちない反応しかできなかった。
「おーっす、邪魔するぜ。いやあ、偶然だな。フェリックスにトゥルー・アイズ。……で、この嬢ちゃんがお前の雇い主の娘さんだっけ」
「そうだ。口説くなよ」
「へいへい。心配しなくても、子供には興味ねえよ」
フェリックスに警告され、カルヴィンは豪快に笑っていた。
フェリックスの師だからなのか――それとも関係ないのか、カルヴィンはどうやら女好きらしい。
「どうも、嬢ちゃん。俺はカルヴィン・エスペルだ。このクソガキに銃を教えてやった、偉大な賞金稼ぎだ」
カルヴィンに手を差し出され、ルースはその手を握り「よろしく。ルース・C・ウィンドワードです」と名乗った。
カルヴィンは自信たっぷりなところも、フェリックスを彷彿とさせる。やはり弟子は師に似るのだろうか。
「賞金稼ぎってことは、ジェーンさんとも知り合いなのよね」
既に知っている事実ではあったが、本人に確かめたくなって思わず口にしてしまった。
「ああ。あいつも俺の弟子だ。賞金稼ぎになりたいって、ドレスを着た令嬢に頼まれたときはびっくりしたぜ。ジェーンは銃があんまり得意じゃなかったが、ナイフの才能があってな。投げナイフを教えてやった」
「へえ……。カルヴィンさん、ナイフも得意なんですか」
「俺に使えない武器はないのさ」
カルヴィンは軽く笑って、ようやく運ばれてきたビールをジョッキで一気飲みしていた。
「そういやフェリックス、あの町に戻ってこないよな。トゥルーでさえ、たまに来て墓参りしてくれるのに」
カルヴィンの発言で、その場の空気が凍った。
「……この前、帰ったよ。墓参りはしてないけどな。この話は後だ、カルヴィン」
「お、おう?」
カルヴィンはルースを見て、「ああ」と納得したようだった。
ルースは気まずさから顔を背けるように、ピラフを口の中に押し込んだ。
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