【前日譚】閉じた瞼の上なら憧憬のキス 頬の上なら厚情のキス 2
その夜、ルースは天幕の中で鏡を覗いていた。ランタンの薄明かりの中に浮かぶ、自分の顔。
小さい頃は金髪だったのに、いつの間にか金茶色に変わってしまった髪。そして、幼さを残す顔。
自分の顔ながら、嫌気が指す。十五歳なのに、十三歳ぐらいに間違えられることが多々ある。
そういえば、フェリックスも初対面で「こんにちは、お嬢ちゃん」と言ってきたのだった。
いちいち勘にさわる男だわ、とルースは舌打ちする。
(それにしても姉さんと比べて、あたしって何て平凡なんだろう)
姉が舞台に立つまでは、皆がルースを褒めそやした。天使のようにかわいい子だと言われ、天使の歌声だと言われた。
(今思ったらそれは、あたしを舞台に立たせるためのお世辞だったんだわ。声が潰れたママの代わりに、舞台に立てる歌い手の女が必要だったから――)
平凡な自分を特別だと思いこんだ自分は、何と愚かだったのだろう。
「あたし、醜いわ――」
驕りに溺れ、嫉妬を抑えられない自分が醜く思えてたまらない。
「そうは思わないけどな」
と呟いて、フェリックスが天幕の中に入って来た。
「――フェリックス! 勝手に、あたしの天幕に入ってこないで!」
「悪い悪い。ちょっと話があってさー。さすがに中に入るのはまずいか?」
「当たり前でしょ!」
個人用の天幕に信用できない男を入れるなんて行為は、未婚の女としての名誉に関わるのだ。
「じゃあ、外行こうぜ」
「コヨーテ出るんじゃないの?」
「コヨーテが襲ってきたら、俺が撃ってやるさ」
「大した自信ね」
嫌味を飛ばしながらも、ルースは立ち上がった。
悔しいことに、フェリックスの銃の腕が誰もが認めるほど見事なのは事実だった。
外には天幕が並んでいた。もちろんルースの家族のものなのだが、そこに姉専用の天幕はない。
姉だけは町長の好意で、最高級の宿屋に案内されたからだ。
「話って何?」
天幕の間をゆっくり歩きながら、ルースはフェリックスを見上げる。
「焦るなよ。あそこに行こう」
フェリックスが指さした先には、大きな岩があった。ルースがその岩に腰かけると、フェリックスは口を開いた。
「あんまり、卑下すんなよな。独り言、聞こえたんだ」
「な……」
ルースは真っ赤になった。
「ルースは美人だし、歌声も綺麗だ。プライドは高いけど、それに見合う努力家だ」
そこまで手放しに褒められると、嬉しさを通り越して恥ずかしい。
「あら、そうかしら。じゃあどうして、あたしは舞台に出してもらえなくなったの?」
益々赤くなった顔を隠すかのように、ルースは夜空を見上げる。
「――普通じゃないから」
「はい?」
「キャスリーンのことだ」
フェリックスは、恐ろしく真剣な顔になっていた。彼は昼間も、キャスリーンを“異常”と称したことをルースは思い出す。
「観察していて、やっと確信した。キャスリーンは、悪魔に憑かれている。悪魔の歌が人々を魅惑するのは、当然のことだろう」
「……何ですって?」
この男は一体何を言い出すのだ、とルースは眉をひそめる。
「話してくれたよな。キャスリーンは、ある日突然、美人になったって」
「ええ、そうよ」
昔のキャスリーンは、誰もが認めるような美女ではなかった。素朴でかわいらしいとは、言われていたが……。
「別人みたいになっちゃったの。髪も茶髪だったのに、プラチナブロンドになっちゃって。染めてもないらしいのよ」
正に劇的な変化だった。
「おかしいと思わなかったか?」
「思ったけど――実際、変わっちゃったんだもの」
普通なら、あそこまで容姿が変化することはないだろう。しかし姉の面影は、確かに残っていた。
「悪魔が憑いたから変化したと考えれば、納得できるだろう?」
「……悪魔が」
悪魔が取り憑いたせいで、姉は天使のような姿に変わったというのだろうか?
「でも、それじゃ変だわ。神父さんや牧師さんにも興業した町で会ったけど、何も言ってなかったもの」
「聖職者全てに悪魔を見抜く力があるとは限らない。むしろ、この力を持つ者は稀だ」
「――じゃあ、あんたには……あるの?」
ルースのためらいがちな問いに、フェリックスは頷いた。
「そもそも俺の本業は、用心棒じゃなくて悪魔祓いだ」
「ええ?」
「言っとくけど、俺は神父でも牧師でもない。たまたま悪魔を見る素質を持って生まれたから、悪魔を退治しているってわけだ」
ルースは納得した。もしフェリックスが神父や牧師だったと言われたら、天地がひっくり返るほど驚いただろう。どうひいき目に見ても、フェリックスは聖職者には見えない。
「前にウィンドワード一座が興業を行った町で、キャスリーンのことを聞いた。上級の悪魔は人間に同化するのが上手すぎて、なかなか尻尾を出さないんだ。だから俺は、確証を得るためにも用心棒としてここに潜り込んだというわけさ」
とんでもない話に、ルースは唖然とするばかりだった。
「悪魔が憑いてるってわかったなら、さっさと退治してよ!」
「――それが、そう簡単にはいかない。キャスリーンを殺すことになる」
ルースは愕然として、フェリックスの胸倉をつかんだ。
「どうして!」
「キャスリーンと悪魔は同化しすぎている。分離はもう、無理だ」
フェリックスも、辛そうな顔をしていた。
そこでルースも悟った。だからこそ、フェリックスは慎重にキャスリーンを観察してから決断したのだ。
「パパやママには、もう言ったの?」
「いいや。家族の中で魅入られていないのはお前だけだから、お前にしか言わない」
フェリックスは、青い目でルースを見据えた。
「あの悪魔は、人を誘惑する力を持つ。家族の様子も、段々とおかしくなっていっただろ?」
「ええ……」
キャスリーンが変わりはじめてから、家族は皆キャスリーンにしか興味を示さなくなった。
「キャスリーンに憑いた悪魔が、そう仕向けたからだ。あの悪魔は魅惑した人々から、少しずつ生気を取り込むことができる“誘惑”の悪魔だ」
そういえば、キャスリーンが変わり始めた頃から、家族はどことなく憔悴した顔を見せるようになった。公演の後、観客がげっそりしていたのも気のせいではなかったのか。
「だが不思議なことに、お前にだけは魅入ろうとはしなかった」
言われてみれば、ルースは他の家族のように変わったキャスリーンに心酔しなかった。それは、自分の嫉妬ゆえだと思っていたのだが……。
「なぜかは、俺にもわからない。だがおそらくキャスリーンは、お前に一番思い入れがあるんだろう。それで悪魔の力をお前には向けなかったのかもしれない」
「そう……」
不思議だった。確かに昔は仲の良い姉妹ではあった。舞台に出るルースの髪をいつもくしけずってくれたのは、キャスリーンだ。
一度だけ聞いたことがあった。どうして舞台に出ないのかと。
『私は、ルースを支えるだけで満足なのよ。綺麗なルースを見て、綺麗なルースの声を聞くと私は幸せ』
キャスリーンは笑って、そう言っていた……。けれど――
「フェリックス」
「何だ?」
「姉さんが悪魔になった理由には、あたしが絡んでる?」
勘だったが、フェリックスは動揺を見せた。隠していたのだと、嫌でも悟る。
「聞かない方が良い」
「いいえ。あたしは知るべきよ」
燃えるような目で、ルースはフェリックスを睨みつけた。
「やれやれ。――後悔するなよ」
ルースの目を見て、フェリックスは覚悟を決めたように語り始めた。
「悪魔に取り憑かれやすいのは、大罪とされしものを抱く人間だ。大罪は七つ――虚栄、貪欲、色欲、暴食、憤怒、嫉妬、怠惰――これに付け込まれ、憑かれることが多い」
言われた中で一つ、思い当たるものがあった。
「姉さんの場合は――嫉妬?」
「おそらくな」
フェリックスは話を聞き、自分なりに推理したのだろう。
優しい手でルースの髪をとかしてくれた姉は、舞台に立つ妹に密かに嫉妬していたのだ。――今のルースのように。
「だから、あたしは魅入られなかった」
姉は、わざと自分に理性を残させて苦しめたかったのかもしれない――。
それほど妬まれていたのか。それほど憎まれていたのか。そう思うと哀しくて、涙が次々に溢れた。
「だから言ったんだ。聞くな、って」
フェリックスはため息をつき、ルースの肩を抱いた。
「ルース。悪魔に憑かれた人間の近くに家族や親しい者がいる場合、身内から許可を得て俺は悪魔祓いを行うことにしている。だから、決断してくれないか」
両親も兄弟もキャスリーンの力で魅惑されているから、ルースしか冷静な判断を下せないのだろう。
「このままだったら、姉さんはどうなるの……?」
「近い内に死ぬだろう。悪魔はもうキャスリーンと同化して、命はほとんど食らっているはずだ」
ルースは衝撃的な真実に、目を見張った。
「今生きているのは、ほとんどキャスリーンじゃない。悪魔と、キャスリーンの……名残だ」
フェリックスは唇を噛み、続けた。
「間もなく悪魔はキャスリーンの魂まで食らうだろう。キャスリーンの魂を食った後、悪魔はまた別の者に取り憑く」
淡々とした説明だったが、だからこそ悪魔に取り憑かれた者の末路の悲惨さが伝わってきた。
「じゃあもう……選択肢は一つしか、ないのね」
「ああ」
キャスリーンは、殺されなくてはならないのだ。
「あんたに、ためらいはないの?」
呟くルースの前に、フェリックスが銃を掲げた。
「祈祷や聖水で治せる悪魔憑きは、初期症状のときだけだ。それ以外の者は殺すしかない。この中に入っているのは、ただの鉛弾だ。悪魔だけを貫くような特殊な弾じゃない」
悪魔と共に人を殺し続けた彼は、見た目通りの人物ではないのだとルースは悟った。
「姉さんは、あんたと会ったときから――助からないと?」
フェリックスが合流したのは、二週間ほど前だ。
「ああ。気配が同化しすぎていた。だからこそ、確かめるのにこれだけかかった。“手遅れ”の兆候だ」
「あたしは、あんたを信じるべきなのかしら」
それとも、悪魔の存在など突っぱねてフェリックスを殺人者として
失礼とも言える台詞に、フェリックスは少し陰のある微笑を浮かべた。
「信じるかどうか、今から決めてくれ」
フェリックスはルースの手を引き、町の中へと
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