Chapter 2. Dear My Brother (我が親愛なる兄弟に) 4
医師が他の患者を見にいった後、フェリックスはそっとリチャードのかけ布団をめくって彼の足を見た。
包帯に、赤黒い血がにじんでいる。
よく見れば、その血の跡は模様のようになっていた。まるで、逆さ十字のように。
「悪魔決定、か」
そう呟いたとき、病室の扉がノックされた。ひょっこり顔を覗かせたのは、ジョナサンだ。
「フェリックス……。お姉ちゃんから話を聞いたんだけど、まさか今回も――」
「ああ、おそらくな」
「僕、手伝うよ」
ジョナサンの申し出に、フェリックスは首を振った。
「今回は、お前に手伝ってもらうわけにはいかない」
「えー」
ジョナサンは不平の声を上げた。
「何で? 僕、誰にも言ってないよ。フェリックスが悪魔祓いってこと――」
ジョナサンは台詞の後半になって声を落とした。
「わかってるって。そういうことじゃないんだ。この被害者は、ブラッディ・レズリーの一員だ。少しでも関わらない方が良いだけだ」
言い聞かせるようにして説明すると、ジョナサンはまだ不満そうではあったが頷いた。
「おい……」
低い声が響いて、フェリックスとジョナサンは振り返った。
見れば、リチャードが目を開けている。
「悪魔祓い……って言ったな。本当か……」
「――ああ。それを生業としている」
フェリックスはリチャードに近づき、答えた。
「じゃあ、あんたわかるか。あれも……悪魔なのか……」
「あれ?」
「狼男みたいな、人間みたいなもんだ……」
その説明で、フェリックスはピンと来たらしい。
「低級の悪魔が人間に完全に同化できず、本来の姿を現すことはある」
「よくわかんねえけど……兄貴は、悪魔とやらになっちまったってことか……」
リチャードは、苦しそうにせき込んだ。
「そうだよな……。変だと思ってたんだ……」
「リチャード」
フェリックスは固い声で告げた。
「悪魔の姿が出る状態ってのは、末期なんだ。もう命は助からない。悪魔ごと殺すしか、魂を救う方法はない。悪魔に地獄に連れていかれるか、その前に殺して魂だけは救うか――身内のお前が選んでくれないか」
「けっ。どっちにせよ、俺たちゃ地獄行きだと思うけどな」
でも、とリチャードは首を振った。
「ありゃもう、兄貴じゃねえ……。ひと思いに殺してやってくれ。他人に頼むのは
「――わかった。お前の兄は、どこにいる?」
「町外れの森の中に、小さい倉庫がある。そこだ……」
気力で起きていたのだろう。それだけ言い残して、リチャードは気を失ってしまった。
「フェリックス……」
ジョナサンに声をかけられ、フェリックスはその続きを聞く前に頷いた。
「ああ。逃げられる前に、決着つけなくちゃな」
本来は、悪魔祓いは夜に行う。悪魔の力が満ちるので危険なのだが、満ちるということは正体を現すということ。本当に悪魔に憑かれているかどうか、見極められる。
万が一にも悪魔に憑かれてもいない人を殺さぬよう、夜に行ってきたのだ。
だが、今回はどうやら既に正体が明らかに現れているらしい。
低級ゆえだろう。高い位の悪魔は反対に人間に同化するのが上手く、気配も気取りにくい。
「お前は、家族のところにいるんだぞ。あと、ルースのことも頼む」
「わかったよ。お姉ちゃんを、近づかせないように……だね」
ジョナサンは役に立てることが嬉しいらしく、朗らかに笑った。
強面の男が来て怪我人を置いていった、と目撃者の男は語った。
「ふむ。どちらから来たんだ?」
「あっちだったかな……」
フィービーに問われて答えたものの、すぐに自信をなくしたように男は指さす方向を変えた。
「いや、あっちだったかな。俺、方向音痴なんだ。何か、もらったら思い出すかも……」
明らかな賄賂の請求に保安官補が激昂しそうになったが、それよりも早くフィービーの銃が火を噴く方が早かった。
頬を撫でた熱さと痛みに、男は悲鳴を上げる。
「おや、これは失礼。火薬の衝撃で思い出すかもしれないと思ってな。今度は撃ち損じないよう、脳天にちゃんと見舞って――」
「わかったわかった! 言うよ!」
男は慌てて真実を語ったのだった。
フェリックスは、忍び足で小屋に近づいていった。ふと、生臭い匂いが風に含まれる。
ハッと気づいたときには、衝撃を受けて転がっていた。
受け身を取って身を起こし、フェリックスは見上げた。獣人としか呼べないものが、荒い息をして毛むくじゃらの腕をかざしている。
その鋭い爪には、今しがた失ったばかりの自分の血が滴っていた。
「おやおや、聡いな」
利き腕でなかったことを感謝しながら、フェリックスは左腕を押さえる。
止血している暇はない。勝負を早くつけなくては、と自分にタイムリミットを課しながら銃を構える。
「リチャード……」
フェリックスに向かって、ジョンは弟の名前を呟いた。
どうやら間違えているらしいが――。
「あんた、意識があるのか?」
これほど悪魔に肉体を支配されているのに、意識があるとは何という拷問だろう。
「リチャード、なぜだ。俺はお前のために裏切ったのに」
フェリックスは作戦を変え、リチャードになりきることにした。
「兄さん、一体どういうことだ?」
もちろん銃を構えた腕は下ろさない。隙を見つければ、すぐに撃つつもりだった。
「貧しさから救っただろう。支配から救ってやっただろう」
「それは違うな」
フェリックスは一蹴して、咆哮した獣人の心臓に銃弾を撃ち込む。
「貧しさから逃げたくて、支配から逃げたかったのはリチャードじゃなくて、お前だろう」
詳しい事情など、聞かなくてもわかる。この兄は、弟に理由を求めただけのこと。
「お前の“貪欲”に悪魔は惹かれ、憑いたんだ」
滅びるはずの肉体は、砂になるのではなく薄らいでかき消えた。――違和感に気づく。
「まさか……」
幻覚――。
フェリックスは舌打ちし、うかつな自分を呪う。
これほど攻撃的な悪魔が、隠れ家にずっと留まっているわけがない。
分身を残し、悪魔はどこに行ったのか。それは先ほどのジョンの言葉を考えれば……いや、考えるまでもなかった。
草を踏む音がして、フェリックスは思わず木の幹に身を隠す。フィービーが保安官補を連れて、非常識なまでに音を立てながら歩いてきたのだった。
「フィービー、こういうときは静かにしろよ」
聞こえない程度の小声で毒を吐いてみる。
「おい、ジョン・ジャンク! いるのか!?」
連邦保安官とその助手が隠れ家の扉を蹴破り、その中に入っていく光景を見届けてから、フェリックスは町に戻るべく、そっと足を進めた。
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