第29話 車いす少女と文字盤

 いつものように病院に着くと、清掃着に着替える。

 『さて、働くか』と気合を入れていると院長に呼ばれた。


「賢太君、ちょっといいかな?」

「はい、別に構いませんが」


 バイトの開始時間までにまだ時間がある。

 でも、院長に話しかけられることは珍しい。

 あまりないことなので、少し緊張してしまう。

 何かしでかしてしまっただろうか?


 しかし、院長の顔は緩い顔で、怒気は含まれていないように見える。


「この前言った、ご褒美の件なんだけどね」

「……ああ、ありましたね」


 肩透かしを食らった俺は、一瞬何のことか分かんなかった。


 確か、阿瀬さんと仲良くなったことに対するご褒美だった気がする。

 期待していなかった上に、あまり興味のないことなので忘れかけていた。


「久野君はバイト終わりに阿瀬君のお見舞いをするだろう?」

「まぁ、そうですけど」

「そこでなんだが――」


◆◇


「散歩に行こう!」


 阿瀬さんの病室を開けるなり言い放つ。

 これには阿瀬さんも驚愕で動けない。

 目も閉じて顔も無表情。


 ……。


 いや、違う。

 今日は元気があまり良くない日なのかもしれない。


 阿瀬さんが持っている物を見て察する。

 それはひらがな50音が並んで書かれた透明な文字盤で、数字や日常でよく使うであろう単語も書いてある。

 阿瀬さんに限った話ではないが、話すことが難しい人はその文字盤を使ってコミュニケーションを取る場合がある。

 その証拠に、阿瀬さんはその文字盤を指さして言葉を作った。


『いきなり、なに』


 目を少し開けて、懸命に作った言葉。

 今では慣れてしまったが、阿瀬さんは書く媒体になると負担を減らすために言葉が簡潔で冷たくなる。

 本当の性格は明るく優しい子だと知っていて長男だから耐えられるが、初見の人か次男だったら耐えられないだろう。


「院長から聞いたぞ。病気に対して前向きになったらしいじゃないか。リハビリも看護師さんとの会話も頑張ってるって」


 掃除を始めながら阿瀬さんを褒める。

 今日こそはこの床の汚れを落としたいなー。


 ぼとっ。


 俺が掃除に熱を出していると、ベッドの方から音がした。

 顔を上げて見てみると、阿瀬さんが体を伸ばして床に落ちた文字盤を拾おうとしていた。

 どうやら文字盤を落としてしまったらしい。


 病人が体を伸ばしているのは少し危なっかしいので、代わりに拾ってやる。


「あまり無理すんなよ。怪我すんぞ」


 阿瀬さんに返しながら注意する。

 しかし、俺の注意など聞いていないのか、震えた指で文字盤を指す阿瀬さん。


『なにを、どこまで、きいたの』


 文字を見るだけなのに、なぜか迫力を感じる。

 でも裏を返せば、表現に乏しい彼女の気持ちが少しずつではあるが、分かるようになってきたということか。

 これはうれしいことだ。


「なにって、阿瀬さんは最近頑張ってるから、散歩をしてあげてほしいって頼まれただけだよ」


 俺は言いながら、やましい思いから阿瀬さんから目線を外す。

 嘘はついていないが、真実をすべて伝えたわけではない。

 

『それだけ』

「ほ、本当にそれだけだって」


 阿瀬さんは冷酷にも、疑心を込めた言葉を示す。

 まさか追及されると思っていなかったのでテンパってしまった。


 もしかして、見透かされている?

 俺が阿瀬さんの考えが分かるように、阿瀬さんも俺の考えが分かるようになったのか?

 俺の気持ちを読み取れる人が増えたというのか……?


 とにもかくにも、このまま言及されるのはまずい。

 長期戦は敗北を意味する。

 

「とにかく! はやく掃除を終えて、散歩に行くぞ!」


 阿瀬さんはまだ疑っていたのか、文字盤を持ち続けていたが、そのあとゆっくりと文字盤をベッドに置いた。


 冷や冷やさせるぜ、、まったく。

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