1-2

 美咲達の住む街『うぶの市』は、もともとは漢字で『雨降野市』と表記されていた。

 数年前に行われた市町村合併の際、読みやすさを重視して平仮名の表記に改められたのだ。

 その名の通り、この地域にはよく雨が降る。日本における年間平均降水量の順位においても、うぶのは毎年のように上位にランクインしているのだ。

 地名の由来はこの気候にある、と住人の多くは思っているが、実際の所は真逆だ。

 かつてこの一帯は、幾度も干ばつの危機に晒されていた。

 都市化が進んだ現代では見る影もないが、農地が地域のほとんどを占めていた時代、稲作が主な産業だった当地の人間にとって、干ばつは死活問題だった。特に江戸後期から明治にかけての被害は深刻で、人々は、多くの雨が降るようにとの願いを込めて雨降野と名付けたのだ。

 時代は過ぎ、地球規模の環境変化によって現代のうぶのは多雨となった。だが、農地がほぼ消滅した今になって先人達の願いが叶ったというのも皮肉な話だ。

 名が体を表す、などという言葉は所詮、結果論に過ぎないのかも知れない。


 この日、夕方に差し掛かったあたりから、うぶのの空はゆっくりと雲に覆われ始めた。

 雲は次第に厚みを増して行き、その色を白から灰へと変化させる。

 やがて下校の時間になった頃には、市内全域でバケツをひっくり返したような大雨が降り出していた。

「まぁ、ついてない日って、トコトンついてないんだよね……」

 下駄箱で制靴に履き替えた美咲は、猛然と降り注ぐ雨を見ながら溜め息をついた。

 その肩に、ポン、と手が置かれる。

「弁当ついでに、傘も忘れたの?」

 笑いながら雪が言った。鼻を鳴らして反論する美咲。

「忘れたんじゃなくて、ハナっから持ってきてなかったの! だいたい今日、雨降るとかいってたっけ?」

「うぶのじゃ晴れでも傘は持つ。何年市民やってるのよ」

「えぇー、だって邪魔なんだもん」

「もう、しょうがない子ね。はい、貸してあげる」

 言って、雪が手持ちのビニール傘を差し出した。

「えっ、いいの?」

「生徒会で今日も残らなきゃいけないし、置き傘もあるから、いいわよ」

「ステキ! 友達に恵まれてるあたしってステキ! ありがとー!」

 雪に抱き付こうとする美咲をひらりとかわし、雪が笑った。

「そうよー、恵まれてる事に感謝しなさいな。それじゃね」

 手を振って、雪は校舎に戻っていく。

「ほんと、ありがとね!」

 雪の背中に呼びかけて、美咲は帰路についた。


 傘を差し、いつもの通学路を歩く。傘布を打つ雨の音は激しく、水溜りを撥ねて通り過ぎる車のエンジン音がかすれて聞こえるほどだ。

 メインストリートを外れた路地にさしかかったところで、人影が目に入った。 

 手押し車の老婆。傘も差さずに、ゆっくりと歩みを進めている。

(あー、あのおばあちゃんも、傘を忘れて出てきちゃったのかな?)

 考えながら歩いているうち、老婆が近付いて来る。ほどなく、その背中に追いつく美咲。

 横目でちらりと老婆を見れば、全身がずぶ濡れになっている。乱れた前髪から滴る雨粒。表情はよく解らないが、歩くスピードから想像するに随分とつらそうに思えた。

(こんなどしゃ降りじゃ、そうなるよね……)

 通行人の持つ傘と傘が行き交う路地で、老婆だけが傘を持っていない。その事が、美咲の心にひっかかる。

(んー)

 老婆を数歩追い越したあたりで、自分の差している傘を見る美咲。

(んんー)

 もう一度心中で唸り、立ち止まる。

(雪よ、許せ)

 美咲は苦み走った表情で頷くと、老婆に声をかけた。

「あの!」

「はい?」

 顔を上げた老婆に傘を差し出す。

「これ、使ってください」

 突然の申し出に、老婆は少し困惑した表情で美咲を見た。

「いや、お嬢ちゃんが濡れてしまうじゃないか。あたしゃだいじょうぶ……」

 言いかけるのを遮って、美咲が続けた。

「いえ! あたし、ここから家近いんで。さ! ぜひどうぞ!」

 ずずい、っと勢いよく差し出された傘に驚きながらも、老婆は微笑んだ。

「そ、そうなのかい? ……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかねぇ」

 老婆が傘を受け取ったのを見て、美咲も微笑んだ。

「お気になさらず! それじゃ、気をつけて!」

「ありがとうねぇ。お嬢ちゃんも気を……」

 老婆が言い終わらない内に、美咲はその場から駆け出していた。


 降り注ぐ雨の中、猛ダッシュで家路を急ぐ美咲。

 老婆には近所だと言ったが、自宅まではまだ15分以上かかる距離があった。傘の代わりに鞄を頭の上に掲げてみたものの、この豪雨ではほとんど意味を成さない。

 残りの道程を半分ほど進んだ所で、ついに彼女は音を上げた。

「こっ、これはムリー!」

 たばこ屋の庇の下に駆け込む美咲。

 制服もインナーも水を吸って重くなり、一層体力を消耗させる。

 乱れた呼吸を整えて、天を仰いだ。

「はあ……ちょっと疲れた、かな……」

 濡れて乱れて、目にかかった前髪を指でどかす。左右で結った髪も雨にやられて、すっかりしんなりしている。まるで彼女の心境そのものだ。

 ビニール製の屋根に打ち付ける雨音が、なおもバタバタとけたたましい。頭は濡れないで済むが、地面から跳ね返った水滴が容赦なく足に襲い掛かってくる。

 雨はまったく止む気配を見せない。ここにいても状況は変わりそうになかった。

「……ダメだね、こりゃ」

 諦めて再び走り出そうと、道の先に目をやる美咲。

 その時、雨の向こう、地面で薄く光る何かが目に留まった。

「ん、あれは……」

 美咲はその何かの正体を、目を凝らして見極めようとする。

 それは柄の部分が白く華奢な、透明の傘。

 骨組みはあまりに頼りなく、力を入れれば折れるし、吹けば飛びそうな安物のビニール傘だった。

 美咲がニヤリと笑う。

 濡れながら走っている最中、確かに一瞬考えはしたのだ。今や傘など、コンビニでも100円均一の店でも簡単に、しかも安価で手に入る。

 あまりに降り方が酷いようなら新しい傘を買って帰るか……と思った時、自分の所持金を思い出したのだ。

 83円。

 これでは傘すら買えない。貧しさは悲劇。神よ、私はあなたを恨みます。

 しかし今、目前にある一本の傘。

 美咲の頭の中に、捨てる神あれば拾う神あり、という言葉が浮かんだ。

「ラッキーってヤツだね……へっへっ」

 道端に打ち捨てられたビニール傘に、下卑た笑みを浮かべながら駆け寄る美咲。

 拾い上げて、傘を開いてみる。親骨が一本だけ折れている。ビニールには2箇所ほどの小さな穴が開いていたが、傘としての機能はなんとか果たせそうだった。

 拝借決定。

 美咲は力強く頷くと、一歩、踏み出した。

 その瞬間。

(おい)

 いきなり男の声で呼び止められ、美咲の肩がビクっとすくむ。

 まさか持ち主でも現れたのかと慌てる。しかし、この傘はどう見ても捨てられていた。だいたいこれは自分を呼び止める声なのか? 無視して立ち去るのもアリかも……。

(おい!)

 まただ。間違いない。自分を呼んでいる。これはもう観念するしかない。

 美咲は恐る恐る、後ろを振り返った。

「あれ?」

 誰もいない。

 先程まで雨宿りしていたたばこ屋を見るが、人影はない。キョロキョロと周囲を見渡してもみたが、自分を見ているような人間はいない。

(聞こえておるのか! 聞こえておるなら3べん回ってワンと言え!)

 クルクルクル。

「ワン」

 律儀に回って、美咲は言った。

(よし、ちゃんと聞こえておるようだな。ふぅ、ようやく見付かったか……)

「???」

 美咲はもう一度あたりを見回す。

 やはり、誰もいない。

(オホン、我輩は傘である。名前はまだない)

 我輩、傘。そう言われて、美咲は手にした傘を見る。

 だが少なくとも見た目には、それはちょっと傷んだ普通のビニール傘にしか見えない。状況が飲み込めない美咲は、目をパチクリさせたままその場に立ち尽くしている。

(むぅ……やっと、声が届く者に出会えたと思えばこのざまか。まあ無理もなかろう。最初は誰でもこのようなものだ。おい! 日向美咲! しっかりせい!)

「うわ! 気持ち悪っ!!」

 自分の名前を呼ばれて我に返った美咲は、思わず傘を放り投げた。

(いてっ! こりゃ、投げるでないわ!!)

「ワー! ワー! ワー!」

 傘の発する声を遮断しようとして、耳を塞ぎながら大声を上げる美咲。

(いや……そんな事をしても無駄だぞ。我輩はおぬしの精神に直接語りかけておるのだからして……)

「無駄じゃない! 全然聞こえない! あたしさっきから全然まったくなんにも聞こえなーい!!」

(聞こえておるではないか)

「ワー! 気んもちわりいいいいぃぃぃぃぃ……」

 叫びながら、美咲は猛スピードで逃げ出していく。

 たまたま側を通りかかった通行人が、気持ち悪そうな視線で美咲を見送る。

(……いや、そんな逃げなくても……)

 その場に取り残された傘が、コロン、と寂しそうに転がった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る