ピアノマン

布施鉱平

ピアノマン

 私がよく行くバーの名前は『ピアノマン』という。

 

 繁華街の外れにある、古びた小さなバーだ。

 

 六十を越えて見えるマスターが、一人で切り盛りしている。

 

 マスターはひどく無口だし、酒の種類も少ない。

 

 つまみもナッツだけだ。

 

 だが、置いてあるピアノと、それを弾くピアノ弾きは素晴らしかった。

 

 ピアノ弾きは、マスターよりも歳を取って見えた。

 

 髪も髭も真っ白で、よれよれのワイシャツから覗く腕は、折れそうなくらい細くて、筋張っていた。

 

 彼は枯れ枝のような腕を目まぐるしく動かし、心を揺さぶる曲を弾いた。

 

 悲しい曲の時は涙を流し、明るい曲の時はとても楽しそうに。

 

 私は彼の演奏に惹き込まれるように、ともに涙を流し、ともに笑い、ともに楽しんだ。

 

 一曲弾き終わると、彼はその度に荒い息を吐き、肩を上下させていた。

 

 ピアノの演奏に、全ての力を使い切っているようだった。

 

 それでも、彼は何度か深呼吸をすると、またピアノを弾き始める。

 

 そんなことを、バーの閉店時間まで繰り返すのだ。






 あのピアノ弾きが死んだ。

 

 その噂を聞いたとき、私は無理もないと思った。

 

 彼は命をすり減らすような弾き方をしていたのだから。

 

 だが、私は自分の目で確かめずにはいられず『ピアノマン』へと向かった。

 

 店の前にたどり着くと、扉には閉店を知らせる紙が貼ってあった。

 

 店を閉めた日付と、簡単な挨拶だけが書かれている。

 

 無口なマスターらしい、簡潔な文章だった。

 

 やはり、あのピアノ弾きは死んでしまったのだ。

 

 私は、何かを失ってしまったような思いを抱きながら、店を離れようとした。

 

 だが、店の中から漏れてくる音に気づいて、足を止めた。

 

 振り返り、無意識に扉に手をかける。

 

 鍵はかかっていなかった。

 

 ゆっくりと、扉を押し開いていく。

 


 酒の匂い。


 

 オレンジ色の照明。


 

 そして、ピアノの音。


 

 僅かな隙間から、『ピアノマン』の世界が広がっていく。

 

 だが、私の目に飛び込んできたのは、いつもの光景ではなかった。

 

 椅子とテーブルが端の方に積み重ねられてがらんとした店内に、ピアノだけがいつもの場所に置かれていた。

 

 そのピアノの前に座っているのは、あのピアノ弾きではない。

 

 マスターだ。

 

 ウイスキーの入ったグラスを横に置き、太い腕をゆったりと動かして、優しい曲を弾いている。

 

 マスターは私の姿に気が付くと、寂しげに言った。


「これでも、昔はピアノ弾きだったんです」

 

 そして、私に見えるように袖をまくると、大きな傷跡の付いた腕をかざした。


 私は、自然と椅子を運び、カウンターの前に座っていた。


 マスターの演奏が続く。


 優しいけれど、切ない音色だ。


「あいつの死を、悲しまないでやってください。あいつは、ピアノマンになれたんですから」


 マスターは低い声で、呟くように言った。






 それからしばらくの間、私は、ただ黙ってマスターの演奏を聴いていた。


 素晴らしい演奏だった。


 だが、あのピアノ弾きのように、私の心を揺さぶることはなかった。


「ピアノマンとは、何なのですか」


 私は、初めて口を開いた。


 マスターの細い目が、一瞬だけ私を見て、またすぐに前を向いた。


「ピアノマンはね、全てのピアノ弾きの目標なんです」


 マスターは演奏を止めることなく、そう言った。


「音楽って、心に残るでしょう。それは、演奏している人間の魂が、音に乗って入り込んでくるからなんです。

 ですが、いずれその音楽は、聞き手の魂に取り込まれて、別のものになってしまう。思い出そうとすれば何度でも頭の中に流れますが、もうそれは別の音楽なんです。

 演奏した人間の奏でたものではなく、聞いた人間が頭の中で奏でたものになってしまう」

 

 ピアノを弾いたまま、マスターは続けた。


「ピアノマンはね、音に乗って頭の中に入り込むと、そのまま居座ってしまうんです。そして、一日中好き勝手にピアノを弾いています。

 普段は邪魔にならないように小さな音で弾いていますが、望むなら、いつでもそれを聴かせてくれるんです」

 

 そう言うと、マスターは演奏を止めた。


 店を、静寂が包む。


「さあ、目を閉じて、頭の中の音に耳を傾けてみてください。あなたの中にも、きっとあいつがいるはずですから」


 言われた通りに、私は目を閉じた。


 自分の呼吸する音だけが聞こえてくる。


 だが次第に、静かなメロディが流れてきた。


 その音は次第に大きく、力強くなっていく。


 あの、ピアノ弾きだ。


 間違いなく、何度も聴いた、彼の演奏だった。


 それはすぐ傍で演奏しているかのような鮮明さで、私の心を揺さぶった。


 よれよれのワイシャツを着た、枯れ木のようなピアノ弾きが、私の頭の中ではっきりとした形を取り、にっこりと微笑んだ。


 目の前にいる。


 私は思わず目を開いた。


 ……もちろん、そこに彼の姿はなかった。


 そして、マスターがピアノを弾いているわけでもなかった。


「これからも、あいつをお願いします」


 マスターが、深く頭を下げた。


 私は静かに会釈を返し、また、目を閉じた。


 私の中のピアノマンが、待ってましたとばかりに、演奏を再開した。 

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ピアノマン 布施鉱平 @husekouhei

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