おたくのグルメ
山本弘
第1話 ミスドの朝食
「はあ……」
ある初夏の日の朝、俺は医院から出てきて、ため息をついた。
毎年、健康診断で問診票のマークシートに記入するたびに、罪悪感に陥る。仕事場に閉じこもってばかりで、運動していないからだ。
腹を撫でてみる。このところ、メタボも気になってきている。ズボンのベルトがきつい。仕事中についついポテトチップスとか食ってしまうからなあ……。
今日もこれから仕事場に行って原稿を書かなくてはならない。仕事場にしているマンションは、この医院から歩いて七~八分の距離だ。
俺は決心した。今日は仕事場に行くのに、無駄に回り道してみるか。少しでも運動不足解消だ。
意味があるのかどうか分からないが。
俺はいつもと違う道をぶらぶら歩きはじめた。
しかし、腹が減ったな。
健康診断に行くのに、昨夜から何も食っていない。今朝もコップ一杯の水を飲んだだけで、お腹がぺこちゃんだ。
道路沿いに立つレストランには、まだ「準備中」とか「OPEN 11:30~」といった札がかかっている。
まだ九時台だからなあ……。
駅の方まで行けば喫茶店があるだろう。モーニングでも食ってから仕事に行こう。
コーヒーも飲みたいし。
俺は駅の近くの繁華街をぶらついた。
ミスタードーナツの前で、ふと立ち止まる。
俺はウィンドウに貼られた冷麺の写真を見て考えこんだ。ミスドか。うん、こういう選択肢もあるかな。
「……ん?」
ふと気づいた。店の前に「温野菜セット」と書かれた看板が立っている。
温野菜セット? いつの間にかこんなのができてたのか。
ホットドッグ、飲茶、冷麺、温野菜……どんどんドーナツ屋というコンセプトから遠ざかっている気がするぞ、ミスタードーナツ。
まあ、野菜を食っておくのも健康には悪くないか。
俺は店内に入り、カウンターの前に立った。「店内でお召し上がりですか?」と店員が訊ねる。
「はい。こっちの温野菜と、単品でナンドッグを……」
「それだとナンドッグのセットにされた方がお安くなりますが?」
「えっ、そうなんですか? じゃあそれで……」
「ドリンクはどうされますか? ホットコーヒーならお代わり自由ですが」
「いや、アイスコーヒーで」
コーヒーも最近、飲みすぎだからな。
俺はアイスコーヒー、温野菜、ナンドッグの載ったトレイを受け取り、席に着いた。
ガムシロップの容器をつまみ上げて悩む。ガムシロップも控えた方がいいのかな……?
あらためてトレイを見直し、先の丸いスプーンが載っているのに気づいた。スプーン? これで温野菜を食えと言うのか?
まあ、細かく刻んであるから、スプーンですくえなくもないが……箸でもフォークでもなしに野菜を食べるなんて初めてだ。
俺はスプーンで温野菜をすくい、口に運んだ。
そのとたん、衝撃が襲ってきた。
な……!
なんだこれは!?
今、生まれて初めて、グルメマンガの登場人物が美味いものを食って叫び出す心境が分かったぞ!
これは美味い!
思いがけない甘さだ!
野菜がこれほど美味しくなるなんて、まったく予想外だ!
俺は夢中で、二口目、三口目を口に運んだ。この緑色なのはキュウリ? ゴーヤー? いや、ズッキーニか。しかし、苦味がきれいに抜けているぞ。ナスもナス独特の風味を残しつつ、びっくりするほど味が変わっている。さらに子供の嫌いなパプリカの、この変貌ぶり! そしてアクセントとして入っているポテトは……。
ああ、いかん、このメニューは分解して味わってはいけないんだ!
個々の食材の味ではなく、複数の野菜のブレンドが生み出す調和を楽しむものなんだ!
なるほど、それでスプーンか。箸だと一個ずつつまんでしまうからな。お客に最も美味しく食べてもらおうという配慮がスプーンなのか。
ミスドよ、その意志、しっかり受け取ったぞ!
俺は心の中でつぶやきながら、がつがつと温野菜を頬張った。
ああ、なんて心地好い甘さだ。
砂糖の人工的な甘さではない、野菜からほんのりにじみ出る自然な甘さだ。
ふらりと回り道して衝動的に入った店で、こんな当たりに出くわすとはな。人生というのは面白い。
食べ終わり、俺は店を出た。
いっしょに食ったナンドッグの味が記憶に残っていない。それほどに温野菜が衝撃的だった。また何度か食べに来てもいいな。あれなら健康にも良さそうだ。
俺は街を歩きながら考えた。あれはもしかして夏場の期間限定メニューなのだろうか。確認するのを忘れたな。
確かに夏にふさわしい味ではあるが、ひと夏の思い出として終わらせるのも惜しい気がする。
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