第4話 四日目

 四日目:


 鬼金剛は酒瓶を床に置くと、やおら立ち上がった。そして、

「ちょっと。申し合いを止めてくれ」

 と手を上げ、飛び降りるように土俵へと降りた。

 みんなの視線が、鬼金剛へと注がれる。

 彼の動作には、力強いものがあった。

 そして、天ノ宮のそばへと行くと、こう告げた。

「月の宮、お前さんの個有魔法が、わかったような気がするぞ」

 ややあって。

 その当の本人、天ノ宮が、

「天ノ宮ですが。……どういうことなのでしょうか?」

 とようやくのことで言葉を絞り出した。

 一体なんなのよ、という気分に見えた。

 鬼金剛の顔は、確信と自信に満ちていた。

 先程の酔いどれ三十代の顔とは全く違っている。

「これは俺様の推理だが、お前さんには二種類以上の個有魔法がある」

「……え?」

 天ノ宮が首をかしげると、鬼金剛はふふん、と自慢そうに鼻を鳴らすと言葉を返した。

「お前さんは能力のかたまりだ。きっと、ものすごい能力がいくつもあるはずだ。だから、今からそれを確かめる」

「……そっ、そうなんですか?」

 その疑問に、鬼金剛は得意満面な顔で応えた。

 今や彼は、先程のつまらなそうな顔はどこかへと消えていた。

 彼の顔は、魔法学上の重大な発見をした魔導科学者のそれだった。

「天ノ宮、もう一度申し合いをしろ。ただし、相手は俺様だ」

「はい……?」

 そう言うと、鬼金剛は自分の着ている浴衣の帯を手早く解き、脱ぎだした。

 慣れた手付きで浴衣を脱ぐ。

 すると彼は、裸に白い絹の廻しという格好になった。

 現役を退いたとは思えないほどの、筋骨隆々の体が姿を表した。

「鬼金剛!」 騒ぎに気がついたらしい月詠親方が奥の方から出てきて、廻し一枚姿の鬼金剛に向かって呼びかける。「なにか、天ノ宮に関してわかったのか!?」

 彼は月詠親方を見ずに言った。「完璧にわかったとはまだ言えねぇけど、ちょっと、気になることがありましてね。これから申し合いをしてみてそれを確かめてみますわ」

「わかった」そう言うとドサッと言う音がひとつした。元女横綱が、腰を据えたらしい。

 鬼金剛はしばらく腕を回し四股を踏んだ。それを終えると、天ノ宮の方を向き、

「さて、始めようか。亜麻仁油」

 と土俵の仕切り線へと向かう。

「天ノ宮ですけど……」

 困惑しつつも、彼女は鬼金剛の反対の仕切り線の前に立った。

 二人は土俵で相対し、腰を下ろした。

 鬼金剛の表情は、今までにないほどの真剣さをまとっていた。こんな顔をするのは、現役以来かというように。

 彼は天ノ宮の個有魔法について、いくつかの可能性を考えていた。

 その可能性を見定めるため、準備運動の際、いくつかの共通魔法を体に付与していた。

 と同時に彼は思い出していた。

 自分の個有魔法(の一つ)は、全体的な筋力を始めとする身体強化。フィジカルアップだ。

 これのおかげで、ソップ(痩せ)型の体でありながら、山のような巨体の力士を相手に出来たのだ。

 そしてその顔で、彼は天ノ宮を見据えていた。彼女の顔にはまだ戸惑いが残っていたが、それでも一番を取るときの、真面目さを表にしていた。

 天ノ宮が片手を土俵につける。鬼金剛はそれを見て、両手を土俵につけた。

 そして、彼女の残りの手が土俵に触れたか触れないかのタイミングで──。

 鬼金剛は、立ち会った。

 天ノ宮もほぼ同時に立ち上がっていた。彼女の肩が、頭頂部が迫る。

 二人の頭頂部がぶつかりあった。至近距離で鈍い音がしたかと思うと、視界が跳ね上がる。

 その音が聞こえたか聞こえないか否か、鬼金剛はすかさず廻しのあるところへ両腕を伸ばす。

 幕下以下が締める木綿廻しの独特の手触りを感じた。

 両方共腕が彼女より下。つまり両下手だった。

 そして体に天ノ宮の体が触れる。その時だった。

 ほんの僅かだが、触れた部分に針を刺したような痛みが走った。

 やはりな、とおもう間もなく、天ノ宮の圧力に負けまいとこちらも圧力をかける。

 鬼金剛は現役時代から教えるのが上手く、特に女力士に教える事が多かった。

 その関係上、女子と相撲を取ることが多く、こういうことに関しては手慣れていて、いやらしい感覚になることもなかった。

 いやらしいことは、稽古の後ですればよかったというのもあったが。

 組んだ鬼金剛は天ノ宮の圧力に、ほう、と思った。

 自分のぶちかましを受け止めるとは、やるものだな。型がないと自称していたが、やはり受けて組むタイプか。長期戦タイプだな。

 押し方自体は男勝りとも言えた。体の使い方もいい。腕が長いので、両上手で遠回りになるが、廻しの深い(背中の)ところを取っている。これも相撲としては上手い。

 確かに、これなら幕下上位まで行くのは当然のことだろうな。彼は感心した。

 ならば。

 鬼金剛は自分の固有魔法の一つである<身体能力増強>を発動させた。魔法の力で増強した筋力で強引に体を横に振る。左腕を強引に切り、そのまま体を開いて投げる。

 体の強い天ノ宮だったが、個有魔法が発現していない今では対抗するすべも持たず、強烈な投げに片足が浮き、身を振り回されてそのまま土俵に叩きつけられた。

「くぅっ……」

 天ノ宮の腹から空気が抜ける音がした。軽く埃が上がる。鬼金剛も軽く息を吐いた。

 ──さて、俺様の推測が正しければ、彼女の体に変化が起きているはずだ。

 鬼金剛は口でモゴモゴさせるようにして呪文を唱えた。

 情報走査系の共通魔法で、対象がどんな魔法を習得しているのか調べる魔法だ。

 鬼金剛の目の前に魔法陣が現れ、その後方に表示窓が現れる。

 魔法陣は、立ち上がって埃を払っていた天ノ宮の方を向いている。

 スキャンはほんの数秒で終わった。結果が表示窓に表示される。

 鬼金剛はその結果を見て、唇の端をほんの僅か歪めた。

 ──やはりな。俺様が持っていたり付与されている個有魔法や共通魔法が、天ノ宮に複製されている。いや、習得されていると言った方が正しいのか。

 それを確認した鬼金剛は、天ノ宮に向かって、というよりは独り言のように言った。

「やっぱりな。俺様の思ったとおりだ」

「何が思ったとおりなんですか?」

「詳しいことは後で説明するが、お前さんには俺様の個有魔法や共通魔法が複写されている。試しに、『力が強くなれ』とでも念じてみろ」

「はぁ……」

 天ノ宮には、何がなんだかわからないところであった。

 しかし確かに頭の中がわずかに焼けたような気分があった。

 ──そういえば……。

 今までにも、こういう感覚は色々な時に経験していた。

 稽古のときとか、本場所での対戦のときとか。

 しかしそれが何なのか全くわからなかったので、放置していたのだ。

 天ノ宮は心の中で、その今「焼けた」部分に触れながら、

 ──力よ、強くなれ。

 と念じてみた。

 すると、自分の腕や足が突然、大きく膨らむのを感じた。明らかに、筋肉が膨張したのだ。

 骨や血管も一回り大きく太くなった気がする。

 それを感じると、腕や足を振るように動かし、体を軽くジャンプさせてみる。いつもより高く飛んでいる。

 明らかに、身体能力が上がっているのが自分でもわかった。

 天ノ宮は体を動かし終えると、

「体が、強くなってる……」

 とつぶやいた。

 それを見た鬼金剛はにんまりとした。

「だろ? 俺様の言う通り、身体能力が上がっているだろ? さっ、この能力が効果を発揮している間に、もう一番取らせるか。今度は、俺様じゃなく、他の女力士とやらせてみるかな。えーと……」

 彼は獲物を探すような目であたりを見渡すと、

「相手は……そうだな。この部屋で一番強いやつ。と言うと……」

 鬼金剛は、ある女力士に視線を合わせた。

 彼女は、この部屋の中で一番番付が上の力士だ。

「美穂乃月関」

「はい」

「お前さん、天ノ宮の相手をしろ。本気でやってもいいぞ」

「……本気、出しちゃっていいんですかね?」

「ああ、できるんならやってみろ。本場所並にな」

 そう言うと、美穂乃月は腕をぐるぐると回し、四股を何度か踏み、強く息を吐いた。気合を入れているのだ。

 そして、その体からは大量の気力が吹き出しているのが、肉眼でもはっきりとわかった。

 彼女の姿を見ながら、天ノ宮の内心はわずかに震えていた。

──本気でいいって……。この莫迦、何考えてるのよ!? 気力使ってもいいってことなのよ!?

 美穂乃月は先程も述べたように気力型の女力士だ。魔力・魔法型の女力士のように強力な個有魔法や職能魔法を持っているわけではないが、それでも幕内力士だ。その力は圧倒的なのだ。本来なら、幕下の天ノ宮が敵う相手ではない。

 その幕内女力士の、気力の噴出を天ノ宮はそばで感じていた。

 本場所でもめったに見られないような美穂乃月の本気に、いつの間にか、天ノ宮の手足は静かに震えていた。

 稽古ではめったに見られない本気の本気。

 それを見て天ノ宮は、鬼金剛の方を振り返った。

「どうするんですか!? 本気出していいとか言って!? 鬼金剛関、どういうつもりですかっ!?」

「師匠と呼べ。師匠と」

 鬼金剛はそうやり返してから、

「大丈夫だ。さっき俺様から習得した個有魔法を使え。それに共通魔法もあるだろ。それも意識して使ってみろ」

「はあい……」

 逃げ出すわけにもいかず、天ノ宮は土俵へと向かう。

 その間に、自分の頭の中を潜るように「観て」みる。この世界の人々は、思うと自分の頭の中に記憶されている魔法の名前やイメージが思い浮かぶのだ。

 すると、様々な魔法の名前やイメージが浮かんできた。

 その種類の豊富さに、天ノ宮は驚きを禁じ得なかった。

 ──わたし、こんなに魔法を覚えていたんだ……。

 その中には、この部屋の女力士のものや、かつて対戦し、先に十両に上がっていった別の部屋の女力士の個有魔法の「イメージ」もあった。それらは全て、稽古や対戦の中で相手に触れて「覚えた」物に違いなかった。

 ──これ……、全部使えるのかな……?

 そう思いながら、周囲の女力士や親方たちの注視の中、彼女は稽古場の土俵に立った。

 そして、天ノ宮と美穂乃月は、向かい合った。

 仕方なく、というかいつもの癖で相手の目を見た天ノ宮は、おかしなことに気がついた。

 ──あれ……? 怖くない。

 いつもでさえ、美穂乃月との稽古という名のかわいがりの時は、背筋が震え上がる彼女だったが、今は心臓もいつもの通り動いているのだ。

 ──なんだろうこの安らぎ……。鬼金剛関の個有魔法のせいかな……。

 そう思う間もなく、彼女は腰を下ろした。

 そして前傾姿勢になり、土俵に手を付ける。

 皆が息を呑んで見守る中……。

「ハッ!」

 二人は立ち合い、文字通り激突した!

 バシイッ!!

 体と体がぶつかり合い、はじけ飛んだ。

 同時に二人の魔力と気力が二人の全身から吹き出る!

 ぶつかりあった二人はお互いのけぞり合う。

 お互いの後ろで束ねた髪が大きく揺れ、汗が飛び散る。

 天ノ宮の感じたところ、立ち会いは互角。

 衝突の衝撃で一歩下がった天ノ宮は、今度は自分の腕を突き出す!

 ブウンッ! 

 天ノ宮は突き出した手のひらを美穂乃月へと押し出し、対する美穂乃月も、手で押し出す!

 彼女が突き出した手のひらが勢いよく美穂乃月にぶつかり、美穂乃月の突っ張りも天ノ宮の体に突き刺さる!

 その突きが、天ノ宮の肌を焼くように痛める!

「くぅっ……!」

「くぅっ……!」 

 歪み、揺れる胸と体!

 その衝撃と痛みに構わず、天ノ宮は残った手で突っ張りを即座にかます!

 バシイッ! バシイッ! バシイッ! バシイッ!

 天ノ宮から飛び出す腕と美穂乃月から繰り出す腕が飛び交い、ぶつかりあう。

 そのたびに彼女らの顔、胸、体などが大きく歪み、たわみ、揺れる。そのさまは見るものによっては艶めかしさを感じるものであった。

 それは大嵐のときの大海で起こる荒波のようでもあった。

 天ノ宮はほぼ無意識で少しずつすり足で位置を変えながら張り手を繰り出し、相手を後ろに下がらせようと争っていた。

 そんな中で天ノ宮は、

 ──なんて本気の突っ張り!

 最初は、目の前、そう、まさに目の前へと飛んでくる張り手に恐怖感を抱いていたが、しばらく、そう、ほんの数撃を与え、受けた頃。

 ──あれ……? おもったより怖くない……?

 心の何処かに安心感、いや、安らぎさえ感じていた。

 受ける突っ張りも、さほど痛くない。

 何より、見える。見えるのだ。相手の、美穂乃月関の動きが。

 腕を下げる。溜める。突き出す。

 それらの動きが、はっきりと見えるのだ。

 目で見るのではなく、感じる、ように。

 ──これならいける……、かも!

 その時。相手の右の突っ張りが、大きく空振った。

 彼女の目に空いた右脇と、その下にある白いものが、見えた。

 天ノ宮は、本能的に動くと、そのわずかな空間へと飛び込んだ。

 ガシイッ!

 天ノ宮は、美穂乃月の薄く汚れた白い右回しを取った。下手だ。

 下手とは、回しを取った時に、腕が相手の腕に対して下にあることを言う。

 逆を上手といい、この上手下手のどちらが得意か、力が出るか、力士によって違うのだ。

 逆に左手は上手の状態。

 美穂乃月はこの逆、右上手左下手の状態だ。

 天ノ宮の顔は、大柄な美穂乃月の体にめり込むように頭をつけた。

 そしてそのまま、足を止める。

 かなりの筋力を持った美穂乃月のものすごい圧力が、彼女の頭に、体に伝わってくる。

 けれども、鬼金剛のフィジカルアップの個有魔法などがそれを軽減し、支える。

 そして、しばらく時が経った。

 四つに組んだ天ノ宮と美穂乃月は、動きが止まったままだった。

 体の所々、組衣で覆われてない腕や足から汗が吹き出し、滝のように流れていく。

 また組衣も汗ばみ、色がさらに黒ずんでいた。廻しを締めた臀部は特に広がりを見せ、組衣の下から液体が流れ、太ももを伝って流れ落ちていく。

 そうやって二人の体から流れ出る汗が土俵へと落ち、蒸発して消える。

 天ノ宮と美穂乃月の吐く吐息の音が、お互いの耳と周囲で観戦している女力士たちや鬼金剛などの耳に届く。それはある種の音楽と言えた。

 さらにしばらくの時が流れた。

 天ノ宮は美穂乃月の圧力に耐えながら、ふと、とあることに気が付いた。

 ──……美穂乃月センパイ、怖くない。勝てる。勝てます。

 確信が、天ノ宮の胸をよぎった。

 足を、体を前へと出そうとするが、それでも幕内の美穂乃月だ。

 その体の大きさと強さが、前に進ませることを拒む。

 逆に彼女の圧力が、天ノ宮の体にのしかかってきて、思わず、体を下げようと思ってしまう。

 しかし、彼女は踏ん張った。

 天ノ宮の心に揺るぎない天を穿つ塔が立ち、彼女の手足に力が入る。

 そして、彼女は頭を支点に、ぐいっと足を出す。

 一歩、また一歩、美穂乃月の体が後ろに下がった。

 おおっ、と周囲で観戦していた女力士達からどよめきが上がるのが聞こえた。

 数歩後退した美穂乃月だが、それでも本来の体の大きさと筋力と体力により、天ノ宮の寄りをしのいでいた。

 その熱が、つけた頭や回しを掴んだ手、肌を通して天ノ宮に伝わってくる。

 そして押し引きの力が、別の意味合いを持つ感覚に変換されて天ノ宮の頭をしびれさせる。

 ──熱い……。これ、早く決着をつけませんと……。

 その時。彼女は気が付いた。

 獣のような荒い音が耳元で聞こえていることに。

 ──センパイ、息が荒くなっている……?

 そう。耳越しに聞こえてくる美穂乃月の息が、荒く、強く、速くなっているのだ。

 これは、彼女の体力がつきかけているということだ。

 ──……好機だ!

 天ノ宮はそう思うと、上手を切り、体を開いて美穂乃月の下手を強引に切り、右の下手で投げを打つ!

 バランスを崩し、美穂乃月の体が大きく揺らぐ。

 しかし彼女もさることながら、腰を沈めて大きく踏ん張り、投げをこらえた。

 美穂乃月は天ノ宮の廻しを更に強く引き、それが天ノ宮の腹に喰い込む。

 それに対し天ノ宮は自分の体を開き、足を広げ、更に投げを打つ。下手出し投げだ!

 さらに美穂乃月の体が揺らぐ。

「くうっ……!」

 美穂乃月の歯と歯の間から、息を吐くように言葉が漏れた。

 そして、さらに腰を落としてこらえ、抵抗する。

 その抵抗で、天ノ宮の右下手が離れた。

 天ノ宮は瞬間、目を細めた。

 今までの天ノ宮だったら、慌てて対応が遅れ、結果、体が離れ、美穂乃月の逆襲を許しただろう。

 しかし。この時の天ノ宮は、冷静だった。

 ──あそこが空いている……!!

 すかさず離れた右腕を更に上げ、美穂乃月の左わきの下に差し入れたのだ!

 そして、そのまま猛烈な勢いで、

 ──えい!!

 と美穂乃月の体を投げた!

 美穂乃月は、天ノ宮の手を切るのに一生懸命で、自分の体が崩れていることにおろそかになっていた。

 その結果……。

 脇に差し込まれた天ノ宮の力強い投げに、対応することが出来なかった。

 そのまま、美穂乃月の体のバランスは崩れ、

 ドンッ!

 と土俵に叩きつけられた。

 叩きつけられた勢いで美穂乃月の体から気力が爆発するように吹き出し、止んだ。

 すくい投げ。

 本来は守りの技として使われることの多い決まり手だが、天ノ宮は、攻め手でこの技を使って勝ったのだ。

 次の瞬間、声を飛ばしていた周囲の女力士達は一斉に沈黙した。

 誰もが、神無き世界で、奇跡を見たかというような顔だった。

 それは相撲を取っていた天ノ宮自身もそうだった。

 その事実に、脳だけでなく、全身の隅から隅まで、心地よいしびれが駆け巡った。

 何度も。何度も。

 ──勝った……!

 彼女も、空に瑞兆を見たときのような顔をしていた。

 しかし確実なのは。

 自分の中にある力で、美穂乃月に、勝ったということだった。

 ──勝ちましたわ……!

 そう、胸をなでおろした時。

 世界が斜めに傾いた。

 ──あ、れ……?

 しびれが消えると同時に、急速に体から力が抜けるのを感じ、気が遠くなっていく。

 それから全身に強い衝撃を一つ感じると、彼女の目の前は真っ暗になり、何も聞こえなくなり。

 そして、何もかもが曖昧になり、何も感じなくなった。

 ──わたくし、死ぬのかな……?

 それが彼女の最後の思考だった……。


 勢いのある冷たいものが身に降りかかるのを感じると、天ノ宮は目覚めた。

 ──死んで、ない……?

 死んだのなら、蘇るにしろ一度は冥界の入り口へと連れて行かれるはず。

 しかし、そうでないということは。

 わたしは、まだ生きている。

 そう思うと、ぼんやり、目を覚ました。

 背中にはいつもの、ひんやりとした土の感触。

 どうやら、ここは稽古場のようだった。

 目の焦点が合うと、目の前に魔法陣が一瞬見え、そして消えた。

 紋様と魔法陣の色からすると、水の魔法のようだ。

 どうやら、気絶した自分に誰かが水をかけて、目を覚まさせたらしい。

 ベッドで目を覚ました手術後の病人のように、ゆっくりと起き上がると、

「気がついたか? お前さん、美穂乃月に勝ったら気を抜いたようでそのままバタリと倒れちまったんだ。情けないな? ええ?」

 そう皮肉めいたような口調の声が飛んできた。

 上がり座敷の方からだった。

 そこには、鬼金剛、月詠親方がいた。

 声とは違い、彼の顔は、安堵の表情をしていた。

 そして周りを見ると、凜花を始め、数人の力士が心配そうにこちらを見ていた。

 それに天ノ宮はあることを思い出した。

 今まで申し合いをしていた、相手のことだ。

「親方、美穂乃月関は……」

「少し自室で休んでる。まあお前に負けてショックはあっただろうが、すぐに戻ってくるだろうよ」

「そう、ですか……」

 天ノ宮はそうつぶやくと、静かに立ち上がり、うなだれた。

 そんな天ノ宮の心の中を察知してか、鬼金剛は言葉をかける。

「気にすんな。関取の心がやわじゃ、本場所じゃやっていけねえし、大丈夫だ」

「でも……」

「それが相撲というものだ。お前さんもわかっているよな?」

 言葉を遮られ、天ノ宮はただうなずくしかなかった。

 二人のやり取りを見た月詠親方は、弟子や他の親方達を見回した。

 その顔は、極めて厳しいものだった。

 彼女は肩を何度か上下させると、

「少し稽古は一休みにしよう。再開は落ち着いてからにする」

 そう言って、座敷の奥へと下がって行った。

 彼女の姿が消えるのを見届けると、鬼金剛は息を一つ吐いて、顔の汗を拭いた。

「……あとであいつに絞られそうな気がするが、まっ、いいか。それよりもだ」

 そう言って彼は土俵へと降りた。

 そして、未だに呆然としている弟子たちのそばへ行くと、大学の講師のような顔で言った。

「天ノ宮のこれが一体なんなのか、教えてやるとするか。俺もまだわかっていないところは多いが、だいたい何なのか、つかめてきた気はするからな」

 その言葉を聞いて、凜花が鬼金剛に詰め寄ると、恐る恐る尋ねる。

「お、鬼金剛関、天ノ宮の個有魔法って一体何なんですか……?」

「詳しくはもう少し後で説明するが」

 鬼金剛はそこで一度言葉を切った。

 そして、言葉を続ける。

「天ノ宮の個有魔法は、ちょいと珍しくてな。簡単に言えば他人の個有魔法や共通魔法を自分の個有魔法にできる魔法だ」

 鬼金剛と凜花の会話を聞いていた天ノ宮は、よろよろと起き上がると呆然とした。

 ──わたくしに、そんな力があるなんて……。

 そう思いにふけっていた天ノ宮に、鬼金剛の声が飛んできた。

 彼女は、顔を上げた。

「雨ノ宮」

「天ノ宮です」

「お前さんは、ほぼ全ての職能などを含めた、個有魔法に適性がある珍しいタイプの人間だ。しかしその個有魔法などを最初から保有しているわけではない。そのかわり相手に触れたり個有魔法を受け止めたりするなどして、その能力を習得できるんだ」

「……」

「つまりだ。お前さんはありとあらゆる個有魔法や共通魔法を、いつでも使うことができる能力を持っている。意識的にやればな。あの黒煙は、お前さんが何らかのきっかけで取得した他人の個有魔法を、無意識で複数同時に使用しようとした時に起きる、魔法による世界干渉の際の、不具合による現象だったんだ」

「……そうなんですか?」

「ってか、お前自身のことだろ! 知らないでやってたのか! ……って、そうだったな」

「……一人ボケ一人ツッコミはやめてください」

 天ノ宮がジトッとした目を見せながら鬼金剛に突っ込んだ。

 その時、二人の会話を聞いていた凜花が尋ねてきた。

「あの、鬼金剛関、つまり、どういうことですか?」

 彼女の問いに、鬼金剛は、お、という顔をすると凜花の方へと向き、説明する。

「天ノ宮は、個有魔法をいくつも持っている。その基盤となるのが、個有魔法、もしくは職能クラスを習得・保有する個有魔法なんだ。つまり、個有魔法に関する個有魔法、メタ個有魔法ってわけだな。天ノ宮の個有魔法は。名前は〈白き石板(タブラ・ルサ)〉。またの名を〈すっぴん〉という個有魔法、もしくは一種の職能クラスだな」

「そ、そういうことですか……」

「……ちょっとわかってない顔をしているが、まあいいか」

 鬼金剛はわかっていないことがわかった、という顔つきをした。

 それから天ノ宮の方へと向き直ると、説明を続ける。

「その個有魔法を使えば、どんな個有魔法を使う相手でも対応できる。……お前さん、ものすごい逸材だよ。城の宮」

「天ノ宮です」

 天ノ宮は鬼金剛の言葉をそう訂正しながら、首をかしげた。

 ──わたくしって、そんなすごいことができるんだ。

 わたくしの中にすごい個有魔法があって、それを使うことで様々な個有魔法が使える。

 自分でさえ気づかなかったことを、見つけ出すなんて……。

 この鬼金剛って言う人、ただ酔っ払ってる人じゃないんだ……。

 この人、本当はものすごい人なのかもしれない……。

 天ノ宮は彼の顔が、少し格好良く見えたように思えた。

 その時だった。天ノ宮に鬼金剛からいつもの調子で声が飛んできた。

「天羽々斬」

「天ノ宮です。……いい加減四股名を覚えてください」

 ──前言撤回です、と彼女は心のなかで呆れ返った。

 それでも、それはどこか冗談めいたもので、最初の頃の見下した気分はなかった。

 彼女の心は、変わりつつあったのだ。

 天ノ宮は自分の手のひらを見た。そして、静かに握りしめた。

 それを知ってか知らずか、鬼金剛は、彼女を見ると、鬼金剛は彼女が今一番気になっていることを投げかけた。

「そもそも、お前さん、野須乃姫に勝てないって言っていたらしいな?」

「……親方に聞いたんですか」

「そんなことよりもだ。お前さん、野須ノ姫に勝ちたいんだろ? ならやることは一つだ」

 鬼金剛は一度言葉を切り、こう続ける。

「どんどん出稽古をして、様々な相手から個有魔法や共通魔法を覚えるんだ。その繰り返しで、野須ノ姫に勝てる力を得る。もちろん、普段の稽古も忘れずにな」

 鬼金剛は彼女に近づき、両方の肩に自分のそれぞれの手を置くと、その目を見つめた。

 その目には力があった。彼女に勇気の魔力を送るような目だった。

 そして、彼女の耳元に自分の言葉を叩き込むような声で吠えた。

「お前はできるんだ! やれる子なんだ!! それを胸に刻み込め!! そうすりゃ野須ノ姫に勝てるし、十両に行ける! 俺様がそうしてやる! わかったな!!」

 その激励の言葉を耳にして、希望の光が胸内に止めどなく溢れた天ノ宮は、頬を紅潮させ、喜びに満ちた瞳で、

 ──この人なら、わたくしを十両に連れて行ってくれるかもしれない。野須ノ姫に、勝てるようになるかもしれない……! 頑張ろう……! この人に、ついていこう……!

 そう思うと、 

「……はっ、はいっ!! ごっつぁんです!」

 明るい声色で、大きな声で強く返事をした。そして彼女は強く叫ぶように願った。

 ──絶対に次の場所で昇進しよう……! 十両に……!

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