第52小節目:転がる岩、君に朝が降る

「市川さん、ごめんなさい、そのツイートしたの、うち……」


 市川が目を見開く。


「沙子……さん、が……?」


 沙子が唇を震わせながら、言葉をぽろぽろとこぼし始める。


「amaneが作曲をやめたのも……拓人が音楽を人に聞かせられなくなったのも……うちのせいだったんだ……」


「さこはす、うそ……!」


 吾妻が沙子にすがるような視線を寄せる。


 沙子はそれに気づかない様子で、うわごとのようにつぶやくばかりだった。


「うちのどうしようもない感情のせいで、そんな……そんな……!」


「沙子」


 おれが呼びかけた瞬間。


 一瞬だけおれの方を見て顔をどうしようもなくゆがませたあと、


「ごめん……!」


 そう言って、沙子は部屋を飛び出していった。


 部屋に残されたおれは、市川を見る。


 市川は、瞳を黒くして、ただただぼろぼろと涙をこぼして、寒そうに身体を抱きながら、ガタガタと震えていた。


 吾妻があわてて寄り添って、その震えをおさえるように、市川の肩を抱く。


「市川……」


 おれが寄ろうとすると、


「小沼!」


 吾妻が大声でおれの動きを止めた。


「小沼は、さこはすのところに行って」


「でも……」


 キッとおれを見据えた吾妻の瞳には、涙がたまっていた。


沙子・・は、小沼じゃないと、ダメなんだよ!」


 そう、吾妻が叫ぶ。


 あまりの剣幕におれはうなずきを返して、沙子がバタンと閉じたドアを開けた。






 スタジオを出る。


 沙子はどっちに行った……?


 部屋の前で動きを止めていると、


「波須は、階段で上に行った」


 と声がした。


 声の方を向くと、はざまがそこにいた。


「あ、え……」


 突然のことに混乱していると、はざまがこちらに寄って来て、おれの肩を強く押す。


「いいから行けよ!」


 おれはまたうなずいて走り出す。


「あんな無表情なやつを、あんな顔にさせてんじゃねえよ」


 足を踏み出した瞬間、背中でそんな声が聞こえた。




 階段を駆け上がる。


 なんなんだ、おれの周りの女子は、逃げる時に階段を使ってばっかだな。


 まあ、他には英里奈さんだけだけど……。


 階段を上がりきる直前。屋上につながる扉が視界に入る。


 ほとんどの高校の例に漏れず、その扉は固く閉ざされている。


 行き場を無くした沙子はそこに立ち尽くして、壁に向かって泣きじゃくっていた。


「沙子」


「来んな!」


 強い拒絶。


 構わず、おれは一段ずつ上がっていく。


「こんなに汚いやつだったんだって、こんなにくだらないやつだったんだって、そう思ってるんでしょ!」


「沙子……」


 沙子が頭を抱えて叫ぶ。


 仲直りをした時以来に、大きな声を出す。


「来んなって言ってんの!」


 おれは無視して階段を上がり続け、やがて、沙子のすぐそばにたった。


「沙子、戻って、話そう」


「話して、何になるの!? 許してもらえっての!? こんなにクソなうちのことを!?」


 半狂乱になった沙子が振り返る。


 目を真っ赤にして、ひどい顔をしている。


「ねえ、拓人、うちは、拓人の大好きなamaneの音楽を奪ったんだよ? 拓人の音楽だけじゃなくて、amaneの音楽まで奪ったんだよ? どのツラ下げて、許してもらえっていうの? 許せないでしょ? ねえ!」


 おれのシャツをギュウっと掴む。もう二度とシワがとれないかもしれないな、なんて思うくらい、強く、握り込まれている。 


「許してもらえるかなんか、知らねえよ」


 すがるような姿勢でいる沙子を見下ろしながら、おれは言い放った。


「え……?」


「許されようなんて思ってんじゃねえっつってんだよ」


 沙子の赤い瞳の涙が、止まった。


「思ってること、伝えなきゃ始まんねえだろ」


『自分の言いたいこと、言って、嫌われたら、もう、本当におしまいになっちゃうもん』

 と、英里奈さんは言っていた。


「後悔してるなら、本当のこと、市川に伝えるしかないだろ」


 沙子の目をしっかり見て、おれは伝える。


「それでもダメだったら痛いかもしれない、辛いかもしれない。おしまいになっちゃうかもしれない」


 でも。


「でも、それは、伝えるべきことを伝えない理由にはならないだろ」


 だって、それしか、おれたちには出来ないんだから。


 沙子は、真一文字まいちもんじに結んでいた唇をそっとほどく。


 おれを見上げながら、


「悔しかったんだよ……!」


 と、そう言った。


「悔しかった……?」


「拓人は、色んな音楽を知ってて、楽器が出来て、中学の吹奏楽部の中でだって、本当は一番上手かったのは拓人で」


「おれが……?」


 突然の独白におれは一転、混乱する。


 沙子はなんでいきなり、おれの話してるんだ?


「みんなそのすごさなんか分かってなかったけど、うちにとっては、ずっと、拓人は目標で、憧れだった。拓人自体が、唯一無二ゆいいつむにの存在だったのに」


 そんな風に……?


「なのに、うちの目標の拓人が、誰かに憧れて簡単に変わっていくのが、どうしても許せなかった」


「は……?」


「憧れた拓人のオリジナルの部分が、amaneに影響を受けて変わっていくのが、許せなかった……」


「それで……」


 おれが言うと、沙子はそっとうなずく。


「だから、とにかく、拓人がamaneに幻滅すればいいと思って、めぐりめぐって届けばいいと思って、別のアカウント作って、あんなツイートした」


 そんなことをしていたのか。おれの見てないところで。


「だったら、おれに直接言えばいいだろうが……」


 嘆くおれに、


「だって、拓人に直接言ったら、拓人、怒るじゃん」


 と幼稚な黒髪女子中学生の顔で、そう言った。


「沙子……」


 呆れて、言葉を失う。


「ねえ、拓人。うちは、もともと何にも持ってないのに、これで、本当に何にもなくなっちゃった」


「何も持ってない……?」


「拓人みたいに曲も作れない、ゆりすけみたいに詞も書けない。市川さんみたいに憧れてもらえるようなもの、何にも持ってない」


 苦しそうに、一つ一つつぶやく。


「もう、みんなの音楽に関わる資格なんて、うちにはないよ」


 奥歯を強く噛み締めながら、痛々しく、息を吐く。


 沙子が言おうとしていることがありありと伝わってくる。


「うち、バンド辞める。なるべく、みんなの前にもう姿を見せないようにする」


 血の滲むような思いで放たれたであろう、その一言。


 どうしておれに、それが止められるだろう。


 その覚悟を、おれが止める権利なんてあるはずがない。



 そうか、とおれがうなずこうとしたその瞬間。







「逃がさないよ、沙子さん」








 抜けの良い凛とした声が聞こえた。


「へ……?」


 階段の下、踊り場に、手すりにしっかりつかまりながら立つ市川と、それに寄り添う吾妻がいた。


「沙子さん、これはちょっとショックが大きいなあ……」


 胸の痛みで、市川はやっとそこに立っているという感じだった。


「市川……大丈夫なのか?」


「市川さん、うち、ごめんなさい、本当に、うち……」


 沙子が謝り始める。


 おれたちの声を無視して、市川は話を続ける。


「沙子さんの大きな声を聞いたのは、2回目かな」


「2回目?」


「初めて聞いたのは、この間のお昼休みに小沼くんが仲直りしようとして、階段の踊り場で話してた時」


「えっ」


 あれ、聞かれてたのかよ……。


「あの時から、沙子さんが、私の、amaneのことを意識してることはなんとなく知ってた」



 それで、あのあと、ベーシストは他に探さないといけないかもと言った時に、


『ううん、私のせいでもあるだろうし……』


 って言ってたのか……。



「ねえ、沙子さん。本当に後悔してるなら、責任を取って、その指を私のために使って欲しいな」


「責任……? 指……?」


 沙子が混乱している。


 おれも市川が何を言ってるのか分からない。


「私がもう一度歌えるように、ベースをいて、私を支えて」


「それが、責任……?」


 沙子が首をかしげると、市川がそっとうなずく。


「人のこと、歌えなくさせるだけさせておいて、歌えるように手伝いもせずに、今逃げるなんて、無責任だよ」


 市川は淡々と、そう告げる。


 なんというか。


 理路整然りろせいぜんと話してるように見えるけど、市川さん、かなり怒ってるっぽくない……?


「指を市川さんのために、って、言うのは……?」


 沙子が怯えるような表情で市川を見る。


 市川が一歩一歩階段を上がりながら、説明する。


「そのまんまの意味だよ」


 市川は、かすかに震えながらも、ニコッと笑って。




「あんなことつぶやいたその指を切り落とす代わりに、私が歌う歌のベースを弾いてって言ってるんだよ」




 ひぃっ……と沙子が息を呑む音がする。


 うわ、市川、きっつ……!


 ちょっと後ろで吾妻が本気で青ざめた顔をしている。


 この間も言ったけど、表現力のあるやつが怒ると本当に怖い。




「は、はい……!」




 沙子がブルブルと震えながら、コクコクとうなずいている。



「だからさ、沙子さん」


「はい……」





「せっかく出会えたんだから、離れちゃうなんて言わないでよ」






 そう涙ぐみながら、市川がそっと沙子を抱きしめた。


「市川さん……」


「そんなの、やだよ。もう、何かを失いたくないよ……」


 市川の肩が震えている。


「天音……」


 しとしと、と。


 二つの泣き声がそっと、混ざって、天井に反響していた。




 少し時間が経ち、泣き止んだらしい市川が顔をあげた。


「あ、そうだ、沙子さん」


「なに……?」


 潤んだ声で答える。


「私ね、さっきまで少し遠慮してたんだけど、今日からは本気で、」


 そこまで言ってから、意地悪そうに笑って、つやめいた唇を沙子の耳元に当てる。


 そして、おれには聞こえない音量で、何かをこそっと呟いた。


 それを聞いた沙子はおれの方を見て、ギョッとした顔をする。


「え、ええ……?」


 え、なに、なんて言ってんの?


 吾妻を見やると、やれやれとため息をついていた。


「だから、おあいこね!」


 と、市川がカラッとした笑顔で沙子に言った。


「は、はい……?」



 市川が何を言ったのかは分からないが、沙子の泣き止んだ顔を見ると。


 市川はどこまでも完璧なやつなのだと、おれは感心するばかりだった。








 何はともあれ、もう、本番で演奏するだけだ。


 ロックオンまでの数日間、おれたちは練習を重ねた。


 数日後。


 二度と忘れようもない、特別なライブが、始まろうとしていた。

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