黒髪の姫

 言葉を失って茫然と女を見つめる二階堂。


 先に口を開いたのは女だった。


「サトセイヴー、イクッス?」


「――え?」


 同時にきょとんとした両者。


「サネヴィ、ヴェイケッスド?」


「んんんー? ……なんて?」


 頭の上に「?」をいくつも浮かべた二階堂。女の方もしゃがみ込んだまま細い指を口に当てて首をひねっている。二階堂はたまらずロンロンを呼んだ。


「ロンロン」


『確認中』


「オイミソ、カルボッス?」


 格子を掴んだ二階堂の腕を指差してきた女。しかし意図がまったく読めない。


「はい? お味噌? お味噌、カルボ……ナーラ? パスタじゃないけど」


「オミソッス? パスタ⁇ サロラピヴォイッス、キルプ」


 驚いて眉をひそめた女。


 ――やばい。まったく、本気で、なにも分からない。 下手なこと言うと妙な誤解を与えそうだ。


「ろ……ロンローンっ‼」


 思わず遠くのドローンに向かって助けを叫んだ二階堂。「ロンロン?」と言って同じ方に目を向ける女。


『これは難儀なんぎだ。今のところ、どの言語の翻訳にも成功しない。似ている言語はあるのだが』


「まじか」


「マジカ?」


 女にロンロンの声は聞こえていない。


 ここは二階堂が自分で何とかしなければならない場面だ。


 咳払いして基本に立ち返る。


「二階堂――」


 そう言って、格子を掴んでいる方とは逆の手で、自分の胸を押さえた二階堂。彼は次に、その手を女に向けて差し出した。そのまま笑顔を作って小首をかしげて見せる。


「……アノマリア」


 女は答えた。


「二階堂――アノマリア」


 同じ動作を繰り返し、二階堂がアノマリアという単語と共に女に手を差し出すと、彼女は薄く微笑んで頷いた。


「アノマリア」


「ニカイドウ」


 女の声に誘われた風が、見つめ合う二人の髪をさあっと吹き散らした。


「――分かった。アノマリア。まず、格子を切るから下がってくれ」


 そう言って二階堂が手のひらで何度か空気を押して見せると、アノマリアは不思議そうな顔つきになって立ち上がり、するすると数歩後ろに下がった。会話は通じないが、ジェスチャーは通じる。間違いなく友好的な知的生物だった。


 二階堂が腰からソニックセイバーソーを抜き、それを格子の下端に押し付けると、すぐに鼓膜をくすぐる音が上がった。二階堂が不快な音に顔をしかめながらゆっくりと刃を進めていく。アノマリアも耳に手を当てながら、しかしその行動を興味深そうに見ていた。


 ソニックセイバーソーが格子の中程まで切断したところで、はっとなったアノマリアが慌てた様子で何かを言ってきたが、二階堂にはその意味が分からなかった。


 キンッ……という音を最後に、ソニックセイバーソーが格子の下端を切った。それを見たアノマリアが、あちゃーみたいな表情になって額に手を当てていた。


「――え、なに? だめなの?」


 とはいえ、いまさらやめるわけにもいかない。二階堂は同様に上を切って格子を一本外した。切り取った格子を持って隙間から身体を中に滑り込ませると、薄暗い檻の中でぽつんと立つアノマリアと対峙する形になった。


 手にした格子をそっと床に置く二階堂。


 黒髪の姫は美しい女だったが、どこかさち薄そうな影を背負っているようにも見えた。


 彼女は線の細い身体の上に、装飾の少ない黒いぼろをまとっていたが、一方で腰まで垂れた髪は、黒染めのシルクのように張りのある艶を湛えていた。


 そんな服装から覗いた白い肌には様々な装飾品が輝いている。ピアス。首輪。ネックレス。腕輪。足首にもミサンガのようなものが。片腕に数珠も巻き付けている。アクセサリー好きは間違いない。


 その中でも特に、恒星の如き強い光を放つ指環ゆびわが指にいくつも見えているのが、印象的だった。


 ――さて、困った。


 言葉が通じないと何も進まない。ロンロンに期待だが、これだけ時間をかけて人工知能が翻訳できないとなると、未知の言語である可能性が濃厚だ。


 押し黙ったまま見つめ合う二人。


 クーッ。


 その沈黙を破ったのは二階堂の腹の音だった。


 一瞬呆気にとられたアノマリアだったが、彼女はすぐに困ったような顔になって頬を膨らませ、やがてプフーッ! と吹き出した。居心地が悪くなった二階堂が手をひらひらと振る。


「恥ずかし……。あのさ、とりあえずなんか食べるもの――」


 二階堂の弁解を遮って、床が揺れた。二人がその場でたたらを踏んだ。


「――なんだ?」


 二階堂が檻の外を覗くと、塔の下に、大きな肉の塊が取り付いているのが見えた。それに強い既視感を覚えた二階堂。


「あれは――」


『蓮の実顔のトロールだ』


 ロンロンの声に、二階堂が小さく舌打ちする。


「俺を追ってきたのか――?」


 ふと、隣で同じように格子の下を覗くアノマリアの横顔が見えた。両手で格子を持ち、表情の消して目を細め、トロールを見下ろしている。その表情はどこか憂いを含んでおり、酷くはかなげに見えた。


『カオル、登ってくるぞ』


 ロンロンの声に、二階堂ははっとなった。


 視線の先で、トロールが塔を登り始めていた。


「――やるしかないか。ロンロン、サポートを」


『任せてくれ。まずはフックショット。次にソニックセイバーソーだ』


 二階堂が後ろを向き、腰に手を当てるとバスンッという音と共にフックが射出され、それはがっちりと牢屋の床に食い込んだ。フックからは細いロープが腰に伸びている。高所作業用の〈フックショット〉だ。


 その様子を、ほーっという顔になって興味深そうに見ていたアノマリアに向かい、二階堂は「ちょっと待ってろ」と言い残して格子の外に飛び出した。


 二階堂が落下を始めると、ギュウゥンという音を立てて腰からロープが引き出されていく。彼は同時に腰からソニックセイバーソーを抜き、壁に張り付いていたトロールとのすれ違いざまに、その腕を切った。


『着地と同時にロープを切って、振り返らずに走れ』


 減速しながら着地して、ロープをリリースし、そのまま走り去る。二階堂はロンロンの指示に盲目的に従った。


 直後に後から重い激突音が追いかけてきた。トロールが落ちたのだ。


 ロンロンはこの二日で二階堂の動きの癖を掴み、巧みに指示を出していた。そして二階堂もまた、ロンロンの指示のタイミングに慣れ、そして彼の言葉を疑っていない。二人の呼吸が抜群に合いつつあった。

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