異形の洗礼

 空から降り立ったのは牛頭の巨人だった。


 二階堂の倍はある身の丈。盛り上がった肩。膨れて血管の浮いた大腿だいたい筋が印象的。そしてなによりも、あの斧。


 ウォーアックスとも言うべきそれは牛頭の巨人の背丈に匹敵する大きさがあり、肉厚な刃は透き通っていて赤く、光を乱暴に反射して輝いていた。


 二階堂は口に飛び込んできた苦い土を、唾に混ぜて吐き出しながら、その威容を睨み付けた。


「ロンロン……なにかな……あの身体中から出てるミミズみたいのは? まじで気持ち悪い……っ!」


 近くで見る牛巨人は、ピロピロと細長くて活きの良いミミズのような何かを体中から生やしていた。その姿は全身を寄生虫におかされた人間を連想させ、吐き気をもよおすオーラを背負って二階堂をしたたかにあっした。


『不明だ』


「くっそ……」


 ブッブー。ブッブー。何度引き金を引いてもガウスライフルは頑固だった。


 牛巨人が一歩前に出た。


 二階堂は後じさった。


 牛巨人が斧を振るった。空気が唸りを上げた。


 二階堂は全身を強張こわばらせ、二歩、後じさった。


「ロンロン、何か、手を頼む。冷静に考えていられない……」


『カオル、ガウスライフルのロックを外すしかない。あの斧を身体のどこかにかすらせる感じで攻撃を受けるんだ。シューティングゲームで弾をかわす時にチッという音が鳴る、あの感じだ』


 ロンロンの無慈悲な通告に、二階堂は顔を引きつらせた。


「いや、あれは……掠っただけで死ぬぞ」


 二階堂の視線の先では牛巨人が巨大な斧を振り回し、森の木々を切り払って左右に吹き飛ばしていた。まるで枯れ草をぐように軽々と、だ。


『君ならできる、カオル。私と一緒にゲームを攻略した日々を思い出せ』


「馬鹿なこと言ってる場合かっ⁉ 逃げるぞ‼」


 二階堂が慌ててきびすを返すと、背後でけたたましい雄叫びが上がり、森が激しく揺れ始めた。


 凄まじい殺気を背負いながら森を駆ける二階堂。


「ビヨンド号に待避する‼ ガイドしろ、ロンロン!」


 わずかに間があって、『だめだ』とロンロンは言った。


「なんでだよ‼」


『あの斧で殴られたらビヨンド号はひとたまりも無いと判断したからだ。ビヨンド号無くしては、カオルは生き残れない』


「じゃあ俺はどーすりゃいいんだ!」


『あの異形をビヨンド号に近づけるな』


「ひ、ひでぇ……っ! お前そんなこと言って自分だけ安全圏で――」


『伏せろ』


 ロンロンの鋭い調子に、二階堂の身体は素直に反応した。


 身体を前に投げ出す。それと同時に、うなじに冷たい刃物を押し当てられたような錯覚を感じた。直後に後ろに吸い込まれる感覚があって、木々がぜる乾いた音が追ってきた。二階堂は地面を転げながら立ち上がると、後ろは見ずに、ひたすら足を前に送り続けた。


「――ひえっ」


 遅れて総身そうみが冷え、全身から汗が吹き出した。二階堂が首の後ろに手を当てると、手のひらがザラついた異変を感じ取った。


「――か、髪の毛! 髪の毛切れた‼ ほら、もういいだろ⁉」


『ロックが外れていない。髪の毛では駄目だ。次は皮一枚だ、がんばれ』


「ロンロおおおおぉん‼」


 二階堂の悲痛な叫びも、背後から迫る牛巨人が暴れる音に紛れてしまった。


『皮だ、カオル。皮一枚でかわせ。そうだ忍者だ。忍者の動きをイメージしろ。VR格闘ゲームでは敵の忍者が残像を残して、皮一枚でこちらの技を躱していたぞ。あれは凄まじい鬱陶うっとうしさだった』


「俺が、忍者に、見えるのか⁉」


『日本人はみんな忍者じゃないのか』


 ――ここで冗談をぶっ込んでくるのか。


 言葉を失った二階堂は胸中でうめいた。そしてふと、嫌な予感が頭をよぎる。


 ――さっきからこいつ、シューティングゲームとか格闘ゲームとか、まさか本気で言ってないよな?


『来るぞ、伏せろ』


 二階堂は倒れ込みながら身体をひねった。


 耳たぶと肩の隙間に赤い閃光がごうと走った。その様子を、肩の上にスズメバチが止まっていた、みたいな顔で見送った二階堂。


 彼は枯れ草をまき散らしながら土の上を滑り、すぐに手を突いて立ち上がると、また走った。今は走り続け、考えるのはロンロンに任せるしかなかった。アラフォーの肉体はすでに悲鳴を上げ始めており、息はめちゃくちゃに乱れて喉の奥が締め付けられるように痛んだ。


 突然目の前に現れた倒木を、パルクール然と軽やかに跳び越した二階堂。直後に爆音と共に背後から飛散してきた木片が、バチバチと彼の後頭部や耳を叩いた。


「いたたた、痛ってぇ……ああっ、血! 耳から血が出てるっ‼ ほら、もうこれでいいだろ⁉」


 二階堂は手のひらにべったりと付いた血をチョーカーの前に掲げて見せた。


『だめだ。間接的に、ではない。直接的に、だ』


「さっきから何なんだよ、その厳密さ! 必要か⁉」


 木に手を突いて右へ左へ。森の中を闇雲やみくもに走り回りながら、二階堂の感じていた緊張は、徐々に腹立たしさに上塗りされていった。


『厳密性。日本人の美徳でもあり、悪癖あくへきでもあるな。私は嫌いではないぞ』


「聞いてねぇよ――っ!」


 背後から膨らんで寄せてきた殺気が、二階堂の肩に手をかけた。


 思わず振り返りかけた二階堂に、ロンロンが静止の声を上げた。


『振り返るなカオル。振り返ったらゲームオーバーだ。後ろは私が見る、君はとにかく前を見て走れ。先ほどからギリギリを狙っているのだが、カオルの反応が私の予想より早くて失敗する。これが生き物の勘というやつか。さすがだな、カオル』


「狙う……? ……いやいやいや、狙わんでいいわっ⁉ さっきからタイミングが際どいのはお前のせいか、ロンロン‼」


『わかったぞ』


「なにがだ!」


『ミノタウロスだ』


「はぁ⁉」


 集中が途切れた二階堂がつまづきかけて、たたらを踏んだ。おかげでペースが落ちて、後ろから聞こえて来る具体的な死の足音が、一段と近づいた。


『あれはミノタウロスなのではないか。レトロゲームでは典型的な敵だ。牛頭の怪物。ああ、どうしてすぐに気付けなかったのか。あの全身から出ているアニサキスに似た生理的嫌悪感を刺激する部位のせいだな。相手は強敵だぞ、カオル。大抵のプレイヤーは初見でミノタウロスに敗北する』


「へぇ……で?」


『で、とは?』


「続きは?」


『それだけだ』


「弱点とか?」


『特にないな。装備を固めて魔法でゴリ押しがおすすめだ』


「お前さっきから、なんの話してんだよっ⁉」


『右へ曲がれ』


 二階堂が従って右へ急転進した時、ちらりと視界の端に見えたのは、薪割りフォームでウォーアックスを振り下ろしたミノタウロスが、地面を激しく爆砕している姿だった。


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