第8話 老人のテリトリー

 フロントから続く廊下を歩く。

 ガラス張りの外の景色はそろそろ夕刻だ。今日は風がないから、中庭の池はまるで磨き上げた金属だ。オレンジ色の光と周囲の景色を写真のように映す。

 閉館日ってより、社員が逃げ出したってところだな。


 俺の目に写るもの。見ようと思えば、それは容易い。


 バケツとモップが小綺麗なこの空間に置き去りにされている。モップを持つ手が一瞬震えて、支える人間を失った柄は床に軽い木の音を打ち付ける音、瞬間。


 館内はどこの水辺も浅いけど、幼い子供は床と見分けがつかないこともある。小さな段差に躓いて、一張羅をべしょべしょにして泣いているのも、透視で見える。

 足元が飛び石になっている通路も多く、車椅子の客がいる度に職員がバタバタとスロープを運んで来ている姿も。

 過去の出来事が、俺には見える。残留思念ってやつで、霊とは違う。自然の産物が記憶した過去の歴史だ。


 今日初めて来たけど、ネットのレビューでは叩かれてそうな式場だな。


 突き当たりの大きな扉を開ける。


 こっちの会場は一般的って感じだな。

 企業のパーティでも使われたりもするだろう。

 会場の端奥に扉がある。


 rest room………ここか。


 用事があるのはこっちだ。赤いスカートマークの方。

 つい辺りをキョロキョロしてしまう。誰もいないよな?


「うわっ! 広っ!!」


 まじか! 女子便所ってこんなに広いのかよ!

 部屋じゃん!

 うわぁー、全然。トイレの数より鏡のブースの方が広い。

 ドライヤー、テッシュ、綿棒、コットン……いれたりつくせりだな。なんなら俺ここに泊まれるぜ。


 えーと、合わせ鏡だったな。

 向かって左右の壁の鏡がそうか。

 人がいる間は気にもならねぇだろうが、誰もいないとおよそ幅八十センチの鏡が互いに向き合う形となる。

 俺だけが永遠に映し出される、合わせ鏡の中の俺、俺、俺。


 面白いと感じるか、気味悪いと感じるか……普通はどうなんだろうな。


 俺はロウソクに火をつけると、提灯に立てた。


「さて………」


 椅子を鏡に映る位置に移動し、そこに座る。

 月の世界には何がいる?

 行くぜ!


「DIVE!!」


 *************


 眩しい。

 視界が白くて、目がチカチカする。


『月の世界とは違う』


 そういや、セルはそう言ってたんだった。

 窓も電気もない。白い空間だ。部屋なのか外なのかも分からない。この白は眩しくはない。だが光源も見当たらない。

 足元を見る。

 霧や煙もない。スニーカーを履いた自分の足がはっきり見える。


「室内か?」


 月の世界に行く時は、DIVEした場所からどこか別の場所に行ったりはしない。本来ならここは女子トイレのはずだ。なのに、鏡も椅子も……存在しない。


 どうすればここから移動出来る?

 振り返っても上を見ても……無だ。

ドクンっと心臓が跳ね上がったのが自分でも分かった。やばくねぇ?!

 ここ月の世界じゃないのか?

 じゃあ、ここはどこなんだ?

 何か、嫌な予感がする。


 月の世界以外には、俺はまともに行ったことがない。ソコは俺が行くような場所じゃない。だから俺は新月の時間には、月の世界に行かないし迂闊に歩き回らない。

 新月を迎えた月の世界は、全ての世界へ通じるゲートが開く。

 それはドアの向こうかもしれない。窓の外かもしれない。

 閉鎖された空間から出入りする、そういう概念の場所が異世界の境目になっているんだ。


 そして、そこから来るモノは、強い。


 ここにもなにかが…………いる。

 背後か? 違う。

 音も姿も無いくせに、とんでもねぇ気配だ。


 提灯の炎に手を入れ、焔を形成する。


ジリ………。

 相棒の勘だ。気配が動いたのを感じた。


「誰だっ!?」


 ドゥッ!


「くっ……!」


 外した!?


サササっ!


 衣擦れ音!

右だ!!


ドドドッ!


 反射的に頭より早く、焔の銃口は正しい場所を撃ち抜いていく。


ギンッ!!


何かの金属音に銃弾が阻まれ、思わず手が止まる。


「はぁっ!!?」


 無かったはずのドアが現れたのだ。

そして、そのドアから鍵の束を持った、黒いスーツの老人が出ていくのを寸前で視認する。


「おいっ! あんた!! 待てよ!」


 誰だよ、あの爺さん!

 ドアは半開きのまま、俺は取り残された。


「どこに繋がってるんだ……?」


 触ると冷たい、黒い鉄製の扉だ。

 確かに最初は無かった。突然、現れたんだ。

 ここから動いていいのか?

 せめて月の満ち欠けだけでも確認したいが、窓も何もない。

でも、このドアの先はやばい気がする。


キィィ…………。


ちくしょう。正直、怖ぇ。

 焔を構えたまま、扉を肘でゆっくり押す。

 隙間から見えたのは、こことは正反対に真っ暗な世界だった。


 右手で焔を構えたまま、左手の提灯をそっと闇の中に差し入れる。


 なにか見えないか?

 なんでもいい。

 せめて床があることさえ分かれば踏み込めるが、なんでだよ。全く見えねぇ。

 光源が足りないわけじゃない。

 提灯の光を当てても何も無い、存在しない空間。

 これはこういう仕組みの場所なのか。


 一瞬だった。


 一旦、戻ろうか……セルに渡された時計で時間を見ようと思ったほんの少しだけの気の緩み。


「!」


 出ていったはずの老人が俺の真後ろに戻っていた。


〈 ふんっ!!〉


「うわっ!!」


 駄目だ!


 ジジイは見目にそぐわない怪力で、俺を闇へと突き落とした。


「ちくしょー!! てめぇっ!!」


 落ちる! やっぱりこっちは床がねぇ!

 頭上、俺のいた部屋のドアが閉まる。その隙間から覗くジジイ目掛けて弾を撃つが、バランスが崩れてるせいかかすりもしなかった!

 黒い鉄製の扉。

 スーツのジジイ。


 もし、今が運悪く新月だったら、俺はあのドアからしか帰れない!


「くそっ!! どうなってるんだっ!!」



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