第二章 #4

 女が居ついてから一週間が過ぎた。


 まだ女は出ていこうとせず、僕の命令を聞いている。


 だが、最近僕の要求の一部を断固拒否するようになってきた。


「おい。今日ぶつかってきたやつがいるんだ。そいつを事故かなんかで大怪我させたい」


「それはできません」


 それは僕がバックルームで発注をしていた時、別の部門の人間がゴミ台車を押して通りかかった。


 道を開けるつもりで端に避けたのに何故かぶつかってきたのだ。


 しかも向こうはこっちを見てぶつけた事に気づいているのに、謝罪の言葉ひとつ言わずに言ってしまう。


 噂だが、そいつは人や商品にぶつける常習犯みたいなもので、何度注意しても聞く耳を持たないらしい。


 だったら懲らしめてやろうと女の不思議な力を使おうとしたのだが、その女が拒否してきた。


「僕にぶつかって何も言わないやつなんだぞ」


「聞いて。ご主人様は避けたのかもしれない。けれどその人もぶつける気はなかったと思うの。ただ距離を見誤っただけなのかもしれないわ」


「悪気はなく、事故だって言うのか?」


 女の言葉に納得なんてできなかった。


「じゃあ、どうすればいいんだよ」


「その人の行動に注意するの『近くを通ったらぶつかるかもしれないから今までよりも離れよう』って。

 もしくは話しかけてみるとかはどう? 『そこ狭いから気をつけてください』って」


「そんな事で改善なんかするか!」


「何もしなければ改善なんか絶対できないわ。でもご主人様から動いてみたら改善する可能性があるかもしれない」


 女の意見を聞く気にもなれなかった。


 ある日テレビを見ているとこんなニュースが流れていた。


 脱税容疑で捕まった政治家が保釈されて直ぐ、禁止されていた国外渡航をして、自分の国に帰ってしまったとらしい。


 その政治家は故郷の政府に守られている中、延々と日本の事を糾弾していて自分の事を正当化していた。


「おい。こいつを日本に連れてくる事なんて楽勝だろ?」


 本人も気づかないうちに検察の建物の前に置いていく。当分ワイドショーはネタに困らないだろう。


 いやそれよりも僕がヒーローとなってあいつを力づくで連れてくると言うのはどうだ。


 映画でもあるじゃないか。悪の組織がいる警戒厳重な建物を正面突破して現れる正義の味方。僕もそう言う風になれるかもしれない。


 考えただけで愉快な気分だ。


 おもちゃを買ってと駄々をこねる子供に言い聞かせるように、どちらの提案も却下された。


「駄目です。ご主人様は『自分が凄い力を持って他人とは違う存在になりたい』と思っているだけです。そんな気持ちで正義の味方なんて務まりません」


 自分の心を見透かされたようで、僕は何も言えなかった。


 土曜日。いつものように仕事をこなしていると、嫌な仕事が回ってきた。


 それは予約数を獲得するために行う恵方巻の試食会だ。まだ一か月近くあるが予約している人はいる。しかし従業員の方が圧倒的に多い。


 なので少しでも客に認知してもらうために予約会を開く事になったのだ。


 そんな事しても最終的には客より従業員の方が多いのだが。


 その試食会で僕が任された仕事は言ってしまえば拷問のようなものであった。


「ジャンケ〜ンポン」


 くぐもった僕のかけ声を合図に目の前で涙目の子供が握り拳を出した。


 対して僕が出したのはハサミを模した二本指。


 勝った子供に景品を渡すと、終始怯えていた子供は逃げるように親の元へ走っていた。


 その子供が僕を指差しながら親にこう言う。


「オニ怖かった〜!」


 じゃあ参加するなよと思いながら、鬼の面をつけた僕は並んでいる子供とジャンケンをしていく。


 親子連れを取り込もうと言う作戦だろうが、こんなのが成功するとはとても思えない。


 というか成功してもしなくてもどっちでもいいので、早く終わって欲しかった。


 僕は鬼の面の下で、目の前の子供のことも忘れて、早く終われ早く終われと念じ続けていた。


 一時間のイベントが終わってホッとしていると、上司から追い討ちの言葉が浴びせられる。


 土曜日だけでなく日曜日もあり、更に節分まで毎週開催するらしい。


 それを聞いた時、言葉も出ずに唖然とするだけだった。


 もし僕が本物の鬼で金棒を持っていたら、目の前の上司をぶん殴っていたかもしれない。


 帰ってすぐ靴も脱がずに出迎えた女に命令する。


「僕は今やりたくもない仕事をやらされている。しかも土日に必ずあって一か月間ずっとだ。そんな事やりたくないから何とかしろ!」


「具体的にどうしたいの?」


 余裕ぶった女に、一刻も早く理解させたくて僕は大声で話していく。


「どうしたいかって? 僕以外の人間が代わりを務めるようにお前の力で何とかするんだ。そうだ! 何かと言い訳ばかりして仕事から逃げる奴がいる。そいつと交代させるんだ!」


 興奮するあまり、最後の一言を喋った時に自分の口から唾が飛んでいた。


 これだけ熱意を込めて伝えたのに、女は笑顔のまま要求を否定する。


「できません。たとえ出来たとしてもご主人様のためになりません。嫌な事なら嫌と言ってみたらどうかしら」


「そんなこと言えるか。言ったところで却下されるに決まってるだろ!」


 僕の声は玄関の外に聞こえてしまうほど大きくなっていた。


「まだ言ったことないのに決めつけるのはよくないわ。もしかしたら嫌な仕事しないで済むかもしれないじゃない。何も言わなければずっとそのままなのよ」


「うるさい! 説教される為にお前に言ったんじゃない! 何とかしろと命令しているんだ!」


「そんなお願いは聞き入れられません」


 怒りで我を忘れた僕と対照的に、女は終始穏やかに返答していた。


「じゃあ仕事しない人間はそのままでいいのか?」


「そのままは良くないわ」


「だろう。じゃあそんな役立たずはいらないから辞めさせろ。それぐらいならできるだろ」


「それも私がする事ではないわ。仕事をするしないはその人自身の問題よ。けれど、ご主人様が気になるのなら話してみてはどうかしら」


「うるさい役立たずが!」


 こんな感じで女は拒否をする。


 僕が『お前の要求を聞かなくてもいいのか』と脅しをかけても女は『今のご主人様にはお願いしません』とすまし顔で答えられてしまった。


 追い出してもよかったのだが、身の回りの世話は今まで通り文句言わずに行うので、仕方なく家に居させてやっている。


 だが、段々と女の態度に苛立ちが募っているのは確かだった。


 今日の恵方巻の試食会は最悪だった。周りが集まるほど子供に大泣きされてしまったのだ。


 原因は僕がジャンケンに勝ってしまったから。


 その子供の親には怒られらるわ上司にも注意されたし、店長と副店長にも長々と説教された。


 しかも鬼の格好のまま。


 お説教が終わった後も残った自分の仕事をこなして、ぐったりとしたまま家に帰ってきた。


「今日は凄く疲れてるみたいね。お風呂沸いているから入ってきたら」


 女の薦め通りに風呂に入り、疲れているとはいえ食欲はあったので夕食を食べる。


「食器片付けるわね」


 食べ終えると、タイミングよく女が空の食器を持っていき洗い物を始めた。


 座ったまま首を動かすと、流しで洗い物をしている女の後ろ姿に目を奪われる。


 服越しとはいえ、触りたくなるような曲線を描く臀部に釘付けになった。


 僕は音を立てないよう注意して椅子から立ち上がる。


 女が気付いていないのを確認すると、足音を立てないように神経を集中させて真後ろまで近づいた。


 流れる水道の音と触れ合う食器の乾いた音で僕の接近に気付いていないようだ。


 手を伸ばせば届く距離まで近づくと、ほんのりと甘い匂いが漂ってくる事に気づく。


 それは頭が動く事に揺れる女の後ろ髪からなのか、それとも女の全身から香ってくるのか判別がつかない。


 けれども、その匂いをもっと身体に取り込みたくなって、鼻の穴を限界まで開いて吸い込んだ。


「あら?」


 後ろにいる僕に気付いたのか、女が振り返る。


「どうしたの。もしかして夕飯足りなかったかしら?」


 女は何の警戒もせず笑顔のまま、全く見当違いのことを言っている。


 この笑顔をめちゃくちゃに歪ませてやるのはどうだ。


 僕の中で僕が囁く。


 どうせ言うことを聞かないんだ。身体に直接分らせてやれ。


 囁き声に従って、両手に力を込める。口角が釣り上がっていくのを感じる。


 そうだ。相手は不思議な力を持っていても女。男のお前に勝てるはずがない。そうだろう。


 ゆっくりと両手を伸ばしていくが、女は何が起ころうとしているのか気付いていないようで、僕に無防備な背中を見せたまま冷蔵庫を開けている。


 征服して屈服させろ。お前が主人だというを目の前の所有物の身体と心に刻み付けろ。


 僕の足の付け根が溶鉱炉のように熱くなっていく。もう我慢できない。一刻も早くこの熱を女に注ぎ込みたい。


 囁き声に従った途端、僕の行動は今までの人生の中で一番素早かった。


 女の方を掴んで、無理やり振り向かせる。


「……どうしたの?」


 こちらを見るオレンジオパールの瞳が恐怖で揺らめくのが分かった。


 女が怖がっている。僕が優位に立った証拠に他ならない。


 それが見れただけで更に全身の熱が燃え滾る。


 左手で女の右手首を掴む。力を入れたら折れてしまいそうな細さだった。


 抵抗しないように左手に力を込めて手首の骨を圧迫すると、危害を加えられると思ったのか、女の身体が強張る。


 僕はそのまま引っ張り、自分の布団の上に女を寝かせる。


「こういう事は駄目よ――きゃっ」


 冗談か何かだと思っている女の両手を押さえつけ、腹に馬乗りの状態になって、自分の身体を押し付ける。


 自分の中にある熱が早く出たいと出口に殺到していた。だから早く解放してやらないと。


 そこで女と目が合った。オレンジオパールの瞳に誰かが映っている。


 獲物を前に舌舐めずりをする口が三日月に裂けた醜い顔の男。


 それは僕だった。


 慌てて女の体の上から離れる。勢いが良すぎて後ろの壁に頭をぶつけるほどだった。


 後頭部の鈍痛を気にする余裕はない。押し倒された女がゆっくりと上体を起こす。


 反撃が来る。女は人間が持ちえない力を持っている。僕を消すことなど造作も無いはずだ。


 女の手が伸びてきたので、襲っていた僕が襲われる存在となったと自覚した途端、喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げて逃げた。


 逃げ込んだのは家の中で唯一鍵が掛けられるトイレだった。そこに電気もつけずに入り、扉を閉めて鍵をかけた。


 便座に座り込み頭を抱える。吹き出してくるのは後悔の念ばかり。


 僕は何をしたんだ。あの女を押し倒して馬乗りになって、あれじゃまるで陵辱しようとしていたみたいじゃないか。


 いや『みたい』じゃない。確実に僕はあの女を壊して無理やり従わせようとしていた。


 終わった。人生終わった。この後どうなるんだ。警察に通報される。いやもしかしたらあの女の持つ力で殺されるんじゃないのか。簡単に首をへし折られてしまうんじゃないか。


 そんな自問自答をしていると、ドアがノックされた。


「開けて。私は怒ってないから。ここを開けてちゃんと理由を話して」


 いつもなら優しく聞こえる女の声も、今の僕には死刑宣告にしか聞こえない。


 開けたら死ぬのはもちろんだが、答えても死ぬ。どうすればいい。誰かここから逃れる方法を教えてくれ。そうだトイレの下水道から逃れれば。


 そんな現実逃避をしていると、ドアから異音が聞こえてくる。


 暗くて分かりづらいが、それはドアノブ辺りから聞こえてくるようで耳を澄ます。


 何かが擦れる音だ。まるでストッパーが外れるような……。


 気付いた時にはもう遅かった。トイレの鍵が外され外から扉が開いた。


 後光に照らされた女は眦を下げて僕を見下ろす。


「そんな所で閉じこもっていてはお話しできないわ。さあ出てきて」


 僕は操り人形のように促させるままトイレを出てくる事しかできなかった。


 向かい合わせに置かれた椅子に座らされると、女が対面の椅子に座る。


 お互い何も話さず、リビングの時計が時を刻む音だけがいやに大きく聞こえていた。


 僕は俯いて、自分の膝に乗せた乾燥肌でカサカサな手の甲に視線を注いでいた。


 前は見れない。見たら最後女からどんな言葉が飛び出すか分からない。


 いや叩かれてもおかしくない。僕はそれだけ酷い事をしてしまったのだから。


 時計が時を刻む中、どれだけそうしていたのだろうか、段々と僕は沈黙に耐えられなくなっていた。


 一言、まずは一言謝らないといけないのは分かっている。でも謝罪したところで女が許してくれるとは思えない。


 じゃあ、どうすればいい。向こうから話しかけてくるのを待つのが一番楽だ。


 そうすれば詰まった排水管のような喉から謝罪の言葉が飛び出すだろう。


 だから待っている。女が口を開くのを待っているのに何も切り出さない。


 ずっと僕の方を見ているであろう視線だけが無言の圧力を加えてくるような気がした。


 心の中で『早く謝れ』と言う僕と『言うこと聞かない向こうが悪いんだ』と言う僕が、意味のない討論を繰り広げていた。


 討論はいつまで経っても決着がつかず、僕は視線を左右に泳がせ、両手の指は痙攣するかのように膝頭に爪を食い込ませる。


 その間も女は一向に口を開かない。そうやって視線で僕を責め続ける気なのかもしれない。


 でも僕はそれを止めろと言う権利はない。明らかに僕の方が加害者だから。


 でも心の半分が『お前の言う事を聞かないあいつが悪いんだ』とまるで暗示のように繰り返し唱え続けていた。


 僕は逃げる事を選ぶようになっていた。


 そうだ。言う事を聞かない女が悪いんだ。勝手に家に入り込んで来たくせに僕に逆らうからいけないんだ。


 閉まりきっていない蛇口から一滴の滴が垂れる音が聞こえた。


 音の出所は女の方から。気になって視線をあげるとまた一滴の滴が落ち、女の履いているジーンズにシミを作る。


 更に視線を上げていくと、今まで笑顔で穏やかな表情を浮かべていた女が大粒の涙を溢していた。


 僕は心の中で組み立てられた言葉を口に出してしまっていたらしい。


 その証拠に口が開いていたのだ。


 開きっぱなしの口を動かして『ごめんなさい』と言おうとした。


 だけどそれより早く、身体が動き僕は毛布を頭から被った。


 今までの出来事は全部夢で、次に目が覚めたらきっと女はいなくなってる。そう信じて僕は毛布の中で小さくなっていた。

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