第26話 「そんなことは、判らないで居られるなら、ずっと判らない方がいいでしょう?」
「そうかも。彼にしてみたら、確かにそうかも。確かにあたしは、ほとんど何も言わずに、あのバンドを辞めたんですよ。それはあたしだけではなくて、箱崎もそうだったんですよ」
「ハコザキ、さんも?」
「あたしは、元々、箱崎の彼女だったんですよ。で、箱崎がRINGERに居る間、彼をケンショーに取られていたようなもの。それに怒って出向いたあたしの声に、今度はケンショーが節操無く、声に惚れたと、箱崎を差し置いて歌ってくれ、って言ったんですよ」
「……」
僕は思わず眉を寄せる。何だか人間関係が無茶苦茶の様な気がする。
「だって、あなた、のよりさんも、ケンショーの彼女だったことがあるのでしょう?」
「ええ。だって、結局RINGERのヴォーカルは、代々あのひとの恋人なんですから。と言うか、ケンショーが惚れた声、がヴォーカルで、あの男は、声が全てなのだから」
かち、と胸の中で何かが割れた様な音がしたような――― 気がした。
「それでまた、あの男が、その時、確かに本気なのが判るから、あたしも箱崎も、怒ることもできない。できなかったんですよ。どうしても。箱崎がヴォーカル辞めてからも、あたし達はずっと友達をしていて……」
「だけど、終わりが来た?」
「そう」
彼女はうなづいて、ミルクティの残りを飲み干した。
「どうして?」
「それは、一口じゃあ言えないんですよ」
彼女は目を細める。
「そんなことは、判らないで居られるなら、ずっと判らない方がいいでしょう?」
僕は首を傾ける。
「とにかく、辞めてから、ずっとあたし達は人前で歌うってことはしていないんですよ。その代わり、二人でカラオケに行くことは増えたのかしら。あたし達は昔からのつきあいだったし、同じひとを好きだった。そういう気持ちが、結局また、一緒に居ようって気にさせたんですね」
「今は…… 何をしてるんですか? お二人とも」
あたし達? と彼女は自分自身を指さす。
「今は、ただのOL。うん。小さい会社だけど、アットホームで、いいとこなんですよ? 箱崎もホームセンターの会社に入って……つまりは、全く関係の無いとこに二人とも、生きてる、ってとこなんでしょうね」
「いいんですか?」
「何が?」
「だって、ずっと、二人ともヴォーカルやっていたなら……」
「あとりさんは、ヴォーカルをしたくて、そうなりました?」
どき、と心臓が一瞬飛び跳ねた。
「あたしも彼も、したくて始めた、って訳じゃないんですよ」
どきどきどき、と鼓動が激しくなる。何故だろう。何を僕の心臓は怖がっているのだろう?
「あたし達は、ケンショーがあの熱意で勧めたから、それまで人前で歌うことなんか滅多になかったのに、そうなってしまったんですよ。……ああ、もちろん、それが嫌だった訳じゃないですよ? 歌うこと自体は好きでしたもん。認められるのは嬉しかったし。ただ、彼が曲を作るように、ギターを弾くように、……ああいうものがあった訳じゃないから…… あら?」
彼女はのぞき込むように、僕の顔を見た。
「顔色が、悪いわ?」
伸びる手。僕はその手を反射的に、払っていた。
「あとりさん」
「……あ、ごめんなさい」
彼女は黙って、小さなバッグから、ハンカチを取り出すと、僕の額に差し出した。
気付かなかったけど、ぽんぽん、とその乾いた感触が過ぎた後の皮膚の上には涼しい空気が抜けていった。びっしょりと、汗をかいていたらしい。
大丈夫です、と僕は繰り返した。
「あとりさん、彼はあなたに、優しいですか?」
僕は顔を上げる。
「ええ、優しいですよ」
「だったら、良かった」
「でも、あなたは、彼が好きだったのでしょう? どうして、逃げたの?」
僕はずっと言いたかった質問を彼女に投げた。ハンカチを逆に畳み直すと、彼女は苦笑する。
「好きでしたよ」
「じゃどうして」
「だって、彼はあたしでなくてもいいのだから」
僕は一瞬、息が詰まる様な気がして、胸を押さえた。
「あたしは、彼が好きだった。そりゃ彼のギターも好きだったけど、それ以上に、彼が好きだったんですよ。あたしの声を好きな、彼が好きだったんです。だけど彼はそうじゃない。彼が好きなのは、あたしの声で、あたしは、その声の持ち主だ、ってことだけなんですよ。……それに気付いてしまったら…… ねえあとりさん、確かにあたしの声は、あたしかもしれないけれど、あたしはあたしの声じゃないんですよ」
「同じじゃないですか? だって奴も、その声には、その人の全てが、って……」
「違うわ」
彼女は静かに、だけどきっぱりと言った。
「判らない?」
判らない。判らないと思う。どういうことなんだろう。
「だったら、判らないなら、判らないままで居たほうが、あなたのためなのかもね」
何か彼女に向けて、言いたかった。
違うのだ、と言いたかった。
だけどそれが、どうしても僕の中には、見つからなかったのだ。
*
あ、と思った時には遅かった。僕の身体はバランスを崩して、ステージの上に転がっていた。
だけどそのまま、マイクは掴んだまま、僕は転がりながら、声を張り上げていた。
視界に入ったオズさんが、不安げな顔で僕を見ていた。ナカヤマさんも、つとめて平静そうな顔をしていたけど、一瞬肩を上げたのを僕は見た。
そしてケンショーは、と言えば。
平然として、ギターを弾き続けている。胸の中で、何かが騒ぎ出す。ばん、と床に手をついて、立ち上がると、思い切り身体を揺らして、僕の前にずらりと手を伸ばす客の女の子達に、ぱんぱんぱんぱん、と手をはたきだした。
苛立っていた。その時確かに僕は。
そう広いステージじゃない。だけどとにかく止まっているのが嫌だった。
止まってしまったら、何かが、自分の中でぎゃーぎゃーとわめき出しそうだった。前かこのバンドにあった曲。僕ではない、誰かが以前は歌っていたうた。
間奏のギターが細かな音を刻む。その音を奏でることだけを、何よりの喜びとしてる奴。僕はそんな奴のところへとふらふらと近づいていって、ちらちらと視線を投げた。だけど駄目だ。この男、近眼なのだ。見えていない。
それでも何かしたげな僕の態度には気付いたのだろう、ちら、とこちらを向く。
僕はそんな奴に顔を近づけて、軽くキスした。きゃあ、と女の子達の悲鳴が上がる。
こんなことは、今までステージでしたことはない。今のいままで、する気はなかった。
両手がふさがっているケンショーは、少しだけ驚いたように肩をすくめた。だがそれだけだった。少しばかり照れくさそうに笑いかけると、また何事もなかったように、ギターを弾き続ける。
何ごとも無かったように。
慣れているかのように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます