センパイ

五月雨ムユ

センパイ

 4月も終わりに差し掛かり、桜の木もすっかり青々とした葉を茂らせ、新入生もようやく入学時の喧騒から我に返り始めたこの時期の学校内に、僕の居場所はない。

 様々な部活が新入生を確保しようと必死になっていたことさえ最早過去のこととなり、今や新入生を含む誰しもが、校内で自分の居場所を確保して安住する術をすっかりと身に着けていた。

 そんな風に誰しもが安定を手に入れていく時期だからこそ、特に部活に打ち込んでいる訳でも、勉強に精を出している訳でもない僕のような人間にとって、この時期の学校は最高に居心地が悪いのだ。

 まるで何かに所属することが、何か心の拠り所となるものを見つけることが、それこそが青春を過ごすための大前提であると言わんばかりの、そんな風潮が、雰囲気が僕は嫌いだ。

 でもだからと言って、そんな風潮に何か表立って反抗するような勇気が、やる気が僕にあるのかと問われれば僕はそれにノーと言わざるを得ない。

 まあとどのつまり、僕の感じている「居心地の悪さ」なんて所詮そんな程度の代物なのだ。

 でも、だからだろうか。

 夕日の差し込むあの部室で彼女と出会い、差し出されたその手を取った時、あんなにも心がたかぶったのは。

 彼女なら、こんな退屈で平凡な僕の日常を変えてくれるんじゃないかと、そんなことを思ったのは。

 

 ──これは僕と、僕の日常を大きく揺るがした小野寺千歌という1人のセンパイとの物語である──。

 

 *

 

 その日、僕が文芸部室に足を運んだのはまったくの偶然というか、ほんのくだらない思い付きからだった。

 校内の安定の雰囲気に居心地の悪さを感じていた僕は、新学期になってからずっと、放課後は図書室で時間を潰すのが日課になっていた。

 なんとなく、ここなら校内の安定の空気が流れ込んでこないような気がして、そしてもしかしたら自分の居場所みたいなものをここに構築できるんじゃないかとか、そんなことを──果たしてどこまで本気で考えていたかは別として──考えながら、図書室中の本を読み漁っていた。

 しかしそんな浅い考えで始めた日課がしっかりと定着するわけもなく、僕は1か月も経たずに、図書室の本のラインナップに飽きてしまっていた。

 いくら本がたくさんあろうとも、所詮はいち高等学校の図書室。置いてある本のジャンルには限界があるし、教師の望んだ本しかその棚に並ぶことは許されていない。

 元々本を読むのは好きなので、それでもまあ楽しめるかな、と考えていたのだが、存外そんなことはなく。むしろ読書好きが裏目に出て、こんな読むことを強制してくるような本ではなく、もっと純粋に面白い本はないものかと、段々そう思うようになってしまっていた。

 そこで僕はその日の放課後、ふと「文芸部の部室になら、読書好きの文芸部員たちが選んだ面白い本があるんじゃないか」と、そんなことを思い付き、部室棟の1番端はしにある文芸部室にまでわざわざ足を運んだのだった。

 コンコン、と控えめにノックをして、ゆっくりとドアを開けると、古びたドアはキィと不愉快な音を立てて開いた。


「失礼しまーす……あのぉ、少し本を貸してもらえないかなぁ、と……」


 さて、この文芸部にはどんな読書好きが、はたまたどんな素晴らしい本が眠っているのだろうか。

 最初は単なる思い付きだったそれが、ここに来るまでに自分でも気づかないうちにだいぶ大きな期待にまで進化を遂げていたらしく、僕の心臓はバクバクと期待に打ち震えていた。

 しかし。


「おー、どーした、少年」

「……えっと」


 だがしかし。

 中にいたのは、三つ編み眼鏡のいかにもな雰囲気の本好きの少女……ではなく、ゆるふわ可愛い癒し系文芸少女……でもなく、彼女の制服のシャツは緩く着崩され、スカートは限界まで短く折られていて、腰にはパーカーが巻かれ、短くまとめた髪は染めているらしく夕日に照らされてキラキラと光っているようで。

 つまり、そこにいたのは、なんというか……


「……不良?」

「おいおい、初対面で失礼なやつだな」


 思わず口をついた言葉にあからさまに苦笑いをされたが、しかし、それが僕の正直な彼女の第一印象だった。


「えっと……あれ。あの、ここって文芸部室であってます……よね?」

「おう、合ってるよ」

「えっと……」


 なんで文芸部室に不良が。

 そう言いかけて、その言葉をそっと飲み込む。

 さすがにそれは口に出しちゃいけないってことくらいは僕にだってわかる。

 だが。


「なんで文芸部室にあたしみたいな不良少女がいるんだ、ってか?」


 そんな僕の内心を見透かしたように、彼女はニヤリと笑う。


「…………ええ、まあ、そんな感じです」


 流石にここまでキレイに言い当てられてしまったら、どうにも立つ瀬がない。

 僕は観念して正直に返事をした。


「今は、その……」


 ちらりと上履きの学年色を見ると、僕より1つ上の高校3年生だった。


「先輩だけですか? 部室にいるの」

「ああ、そうだよ。この部屋の中に、他に誰かいるように見えるのかい?」

「いえ、そういう訳ではなく……その、他の部員の方はどこに?」

「さあ? そもそもあたし、ここの部員じゃないし」

「え?」


 じゃあなおのことなぜ。


「あたしはこの部屋に誰もいなかったのと、なんとなく居心地よさそうだったから使わせてもらってるだけの不法侵入者だよ」


 そう言って先輩はまたニヤっと笑う。

 なんちゅうテキトーな。


「で、そっちは? 何か用があって来たんだろ?」

「ああ、はい。実は、本を借りに来たんですけど」

「本?」

「ええ。図書館の本に飽きちゃって。それで、ここなら何か面白い本があるかなぁって思って」

「へぇ、なるほどねぇ。本ならそこの棚に腐るほどあるから、ご自由にどーぞ? つっても、あたし別に文芸部員じゃねーから、そんなこと言える立場じゃねーけど」

「知らんけどって……いいんですかね、勝手にそんな」

「でも、今正規の文芸部員はいないわけだし、仕方なくねーか?」

 

 確かにそれはそうだが……とはいえ、さすがにこんな部室を「なんとなく」の理由で占有している人の言葉に従って勝手に本を借りていくのは気が引ける。


「……じゃあここで部員の方が来るまで、本を選びながら待っててもいいですか?」

 とりあえずそんな妥協案を提案してみる。


「おーう、ご自由に~」

「じゃあ、失礼します」

 

 まさかこの人だって、ずっとここを占有し続けている訳でもないだろうし。

 そう考えつつ、文芸部室の壁を覆いつくすほど大きな、ぎっしりと詰まった本棚に手を伸ばす。


「おお、すげぇ」


 さすが文芸部。いいセンスの部員がいるのか、はたまた顧問のセンスがいいのかはわからないが、図書室とは違って様々なジャンルの、1冊1冊の個性が爆発している本がそこには取り揃えられていた。

 やっぱり本棚はこうでなくっちゃ。

 すっかり彼女のことも忘れて、鼻歌を歌いだしそうな気持ちで1冊1冊手に取ってニヤニヤしていると、背後から


「なあなあ、やっぱそれって面白いもんなのか?」と声をかけられた。

「ええ。まだ読んでないからなんとも言えませんけど、でも、タイトルだけ見ても、どれも無個性で均一な図書室の本とは違って面白そうですよ」

「ふーん、そーゆーもんか。あたしずっとここにいるけど、1冊も読んだことないからさ」

「へぇ、そうなんですか……って、え? 先輩って、ここにいつからたむろしてるんですか?」

「んー、冬くらいから?」


 あっさりと凄いことを言われる。

 なるほど、どうりで文芸部員がいないわけだ。


「……それって多分、部員がいないから先輩がここにたむろしてるんじゃなくて、先輩がここにたむろしてるから部員が来ないんだと思いますけど」

「かもね」


 かもねって。

 しかし彼女は別段悪びれる様子もなく、「まあ、来たらどくつもりではいるんだけどサ」と言ってけらけらと笑ってみせる。


「まあせっかくだしここで気の済むまで本、読んでけばいいんじゃない?」

「え、ここで、ですか……?」

「ンだよ、不満か? 別にいいじゃんか。わざわざ何冊も持ってどっか行くのも、返しに来るのも面倒だろ?」

「まあ……それはそうですけど」

「それにさ、これも何かの縁だし、あたしの話し相手になってくれよ。ここのところ暇しててさ」


 確かに先輩の言うことも一理ある。

 ここで読めるのならそれに越したことはないが……。

 と、僕が断りそうに見えたのだろうか。彼女は、

「いーじゃねーかよ。本読む邪魔はしねーからさ。な?」と言いながら僕の肩を掴んでグラグラと前後に揺らす。


「……ま、まあ、それなら。いつか部員の人が来るまでってことで」


 果たしてそんな日は来るんだろうかとどこかで思いつつも、まあ別段悪い話でもあるまいしと首を縦に振ると、ようやく前後運動から解放される。


「おーう、じゃあよろしくな。えーっと……」

「高2の坂本、坂本幸田さかもとこうたです。よろしくお願いします」

「そうかそうか、自己紹介もしてなかったな」


 ニヤっと笑い、「高3の小野寺千歌おのでらせんかだ」と、彼女は右手を差し出してきた。


「よろしくな、坂本」

「こちらこそよろしくお願いします、小野寺センパイ」


 一体なにがどうよろしくなのかはサッパリわからなかったが、僕は同じ様に笑顔でそんなセンパイの手を握り返す。

 その時のセンパイの笑顔を、僕は生涯忘れることができないだろう。

 なぜだろう。この時なんとなく、退屈な日常が少し変わっていくような、そんな気がして僕の胸は高鳴っていた。

 こうして、僕と小野寺センパイの文芸部室での不思議な日常が始まったのだった。


 *


 それからというもの、放課後になると文芸部室に行くことが僕の新しい日課になった。

 部室棟の一番端の古ぼけた扉を開ければ、そこには文芸部員でもないのに完全に部屋を私物化してくつろいでいるセンパイが1人。まあ、僕だって部員ではないので、最早もはやセンパイのそれをどうこう言う権利はないのだが。


「どうも、こんにちは」


 ドアを開けて部室に入ると、そこにはすでに小野寺センパイの姿があった。

 ぼんやりと椅子に座ってスマホをいじりながら、ちらりとこちらに目をやって、

「おー、遅かったな」と言って手をひらひらとさせる。


「ええ、少しクラスの掃除があったので」

「そーじ? へえ、真面目クンじゃんか」

「真面目っていうか、普通ですよ。そういうセンパイは随分と早いですね」

「まーね。あたしはここが好きだからさ」

「勝手に占領しておきながら言う台詞じゃないですけどね」

「それはそーだね」


 相変わらずのセンパイに苦笑いを浮かべながら、荷物を下ろして椅子の背に上着をかけ、さてと本棚に向かう。

 今日はどれを読もうか?

 右から順番にタイトルをなぞっていくと、すぐに興味の湧いた本が見つかる。

 やはりここはいい。

 図書室ではこうはいかない。あそこでは興味のある本にたどり着くまで相当な時間がかかってしまう。

 ウキウキする気持ちを抑えつつ席に戻ると、小野寺センパイがこちらを見てニヤリと笑った。


「なんですか?」

「いーや? 坂本ってマジで本が好きなんだなぁって思ってサ」

「……変ですか?」

「いや? 変じゃねーけど、随分楽しそうに本選ぶなぁって」


 僕、そんなに挙動不審だろうか。

 はてと首を傾げ、まあでも考えても仕方ないかと割り切り、僕はたった今発掘してきた本に意識を集中させた。


 *


 意外なことに、放課後に部室に行くようになったとはいえ、しかしそれによって僕の生活がガラッと変わるなんてことはなかった。

 僕が本を読んでいる間、センパイはなにをするでもなく、ただスマホをいじったり、時折うつらうつらしたりして過ごしていたし、僕の方も最初はそんなセンパイのことをどこか気にしてしまい微妙に本に集中できなかったが、段々とセンパイの話にテキトーに付き合いながら、本を読み進めることができるようになっていった。


「でさー、友達があたしのこと『不良』って言ってきたのよ。さかもとー、これどう思う?」

「どうもこうも、正論なんじゃないですかね」

「ひっでーな、まったく。あたしのどこが不良なんだよー?」

「勝手に部室占領してるとことかですかね?」

「それは……仕方ないじゃん」

「仕方ないってなんですか。センパイが自分でしたことでしょうに」

「だって……そこに空き部室があったんだもん」

「そんな登山家の言う『そこに山があったから』みたいなこと言ってもダメですからね?」

「意地悪」


 口ではそう言いつつも、センパイは楽しそうにけらけら笑う。

 一方の僕も、なんだかんだ言いつつ、このゆるい空間が気に入っていた。

 センパイとのおしゃべりは、本を読みながら言葉を返す緩さと、それでいて話していて楽しい気持ちになれるような、そんな不思議な2つの感触を持ち合わせていた。


「そうそう、坂本」


 そんなある日、センパイがふとこんなことを言い出だした。


「あたしも何か読んでみたいんだけど、なんかおススメってある?」

「読んでみたいって……何をですか? 情勢をですか?」

「何って、本に決まってるじゃん」

「なんと……!!」


 あれほど僕の読書に興味を示さなかったセンパイの口から、「本を読みたいからおススメは?」なんて言葉が出るとは?!

 驚きが顔に出ていたのだろう。センパイはむすっと怒ったような表情で「あー、今なんか失礼なこと考えてるだろー?」と言った。


「まあ実際結構失礼なこと考えてましたけど」

「もはや隠すことさえしないのな」

 

 呆れ顔の小野寺センパイ。


「あたしも最初は全然興味なかったんだけどさ。さすがに毎日、目の前で楽しそうに本読んでるの見せられたら少しは興味も湧くってもんさ」

「おお……センパイ、成長しましたね」

「あんたはあたしを何だと思ってるのさ」

「不良?」

「まだ言うか」


 ……とかなんとか言いつつ、僕は早速小野寺センパイにどんな本を紹介したものかと、脳内緊急議会を招集して議論を始めていた。

 やはりここは初心者であるセンパイには、妥当に名作と呼ばれている作品から行くか? いや、敢えてコアな作品を与えて洗脳するという手も……

 いやいや、ライトノベルから入るという手もあるぞ??

 いやいやいや、ここは敢えて敢えての古典作品から入るという手もあるのではないか??

 だとしてもジャンルは何がいい?

 恋愛もの?

 冒険もの?

 ミステリー系?

 ホラー?

 ギャグ? 

 いやいやいやいや……ここは敢えて……

 以下、我ながらドン引くくらい白熱した泥沼の脳内議論がしばらく続いたので割愛するが、しかし、あれこれ悩んだ末に、僕はなんとかその日のうちに小野寺センパイにイチオシの恋愛小説を勧めることができたのだった。


「へぇ、これねぇ?」


 偶然にもというか、流石というか、僕のイチオシの本は文芸部の棚の中にもあったので、それを手に取ってしげしげと眺めるセンパイ。


「まあ、坂本のおススメだ。面白くないってことはないだろうし、家帰ったら読んでみるよ」

「是非是非! 絶対面白いですから!!」

「わーったわーった。ただ、しばらく本なんて読んでねぇから、明日すぐに読み終わるなんてことはないから、そこんとこよろしくな?」

「わかってますよ」

「あんたなら明日すぐに『感想聞かせてください!』とか言いそうだからさ」

「うっ……確かに」


 言われてみれば。

 センパイに釘を刺されていなかったら危なかったかもしれない。


「ンな顔すんなって。ちゃんと読むには読むからさ」

「はァ」

「それはそうと……もう結構いい時間だな」


 センパイに言われて時計に目をやると、確かに結構いい時間になっていた。最終下校時刻まで少ししかない。


「おい、坂本。とっとと荷物まとめろ。先公が見回りに来る前に帰るぞ」

「へいへい」


 言われた通りさっさと荷物をまとめて部室を出ると、後から小野寺センパイが部室の鍵を閉める。

 ……今更だけど、なんであんたが鍵まで持ってるんだよ。おかしいだろ。


「ほれ、行くぞ」

「ああ、はい」


 などと考えてぼーっとしていたら、センパイにどんと背中を叩かれてしまう。


「しっかし、あんたも随分慣れてきたな」

「文芸部室の不法占領に、ですか?」

「言い方に悪意を感じるけど、まあそうだな」

「だって事実じゃないですか。……そりゃあ、まあ、なんだかんだで居心地がよくなっちゃって」

「ンだよ。最初にあたしが『なんとなく居心地がよさそうだったから』って言った時には笑ってたくせに」


 ……ありましたね、そんなこと。

 確かにこうなってしまうと、一概にセンパイの発言を笑う訳にもいかない。


「で、実際のところ、なんでなんだ?」

「はい?」

「だから、あんたが部室に入り浸ろうと思った訳よ。自分で言うのもあれだけど、こんな不良じみたセンパイがいる得体の知れない部室にさ、毎日通うなんて、普通じゃねーしさ」


 文芸部員も逃げ出しちまうくらいだしサ、と笑う小野寺センパイ。


「なんで、なんでしょうね……?」


 改まってそう言われると、どう答えていいかわからなってしまう。


「……上手く、言葉にできないです」

「あっそ。まあいいや。言葉にできたら教えてよ」

「はい」


 そんな会話を交わしているうちに校門にたどり着く。

 彼女とは帰り道が逆なので、そこで「また明日部室で」と挨拶を交わして、僕はセンパイと別れて帰路に就いた。


 *


 それからしばらく経ち、少しずつ汗ばむようになってきた頃、ちょっとした事件が起きた。

 小野寺センパイは、僕に本のおススメを聞くようになってからというもの、僕の紹介する本を次々と読破していき、その魅力に段々と魅入られているようだった。

 当の僕はというと、文芸部室で今まで読めていなかったような類の本に出会えたことに加え、今までの日常とは違う、小野寺センパイのいる少し不思議な毎日に刺激されて、今まで考えもしなったとあることに手を出し始めていたのだった。

 その“とあること”というのは……。

 

 *


「いやあ、坂本、今日もあっちいなぁ」

「ええ、そうですね。最近めっきり暑くなってきましたよね」


 梅雨も明け、徐々に夏の足音が聞こえるようになってもなお、僕たちの放課後の日課は続いていた。

 ちなみに文芸部員が姿を現す気配は、未だにゼロである。

 幸運なことに、こんなボロボロの部室ではあるが、なんと小型のクーラーが1台装備されていたので僕たちは──部室内に限ればだが──外がどんな地獄だろうとも快適空間を演出することができていた。

 だが、適温だと思っていたのは僕だけだったらしく、小野寺センパイはというと、

「おーい、クーラーの温度さ、もう30度ばかし下げねぇか?」などとふざけた提案をしてくる始末だった。


「ダメですよ。もはやそれ、氷点下になりますよ? 風邪ひくとかそんなレベルじゃ済みませんよ」

「ケチ」

「いや、ケチとかそういう問題じゃないでしょ?!」


 小野寺センパイはぶーぶーと文句を言いながら、ワイシャツの胸元を大きくはだけさせて下敷きで微々たる風を起こしていた。


「……」


 なんとなく文字列から目が離れ、彼女の胸元に視線が吸い寄せられてしまう。


「……ンだよ、坂本。じろじろ見てんじゃねーよ」


 と、そう言ってにやりと笑うセンパイ。

 ……バレてた。


「おいおい~、あたしはあんたをそんなスケベな後輩に育てた覚えはねぇんだがなぁ?」

「ぼ、僕だってセンパイに育てられた覚えはないですよ?」

「じっくり見てくれちゃって、よく言うよ~。ほら、いつもみたいに本読まなきゃ~」

「……っ」


 ……なんでこの人はこんなにも生き生きしているんだろうか。

 その活力をもっと別のことに活かせばいいのに。

 とかなんとか、盗み見ていた自分を棚に上げて考えてみる。

 センパイはというと、相変わらずあちぃあちぃとぼやきながら下敷きであおいでいた。


「……センパイこそ、読書しないんですか? 僕が先週おススメしたやつ、まだ読み終わってませんよね?」

「無茶言うなよー。こんなに暑くっちゃあ、本なんか読めたもんじゃねぇよ~」

「気温と読書は関係ないと思いますけどね」

「あたしには関係大アリなの~」

「はいはい、そうですか」


 面倒くさくなってきたのでテキトーに相槌を打ちつつ、本の内容に集中する。

 どのくらいそうしていただろうか。

 気が付くとセンパイの暑い暑いとぼやく声が聞こえなくなっていたので、はてと顔を上げると、小野寺センパイは机に突っ伏してすーすーと可愛らしい寝息を立てていた。


「まったく……暑がったり、からかったり、しゃべったり、寝たり、忙しい人だな……」


 時計を見ると結構いい時間で、最終下校時刻までそう余裕もなかった。

 「今日はここまでか」と小さく呟いて、僕は読んでいた本を鞄にしまい、小野寺センパイの肩を叩く。


「センパイ、起きてください。もう時間ですよ?」

「うーん……あと……30度……」

「寝言でもまだ言いますか、それ?!」


 やれやれとため息をついて今度は少し強めに肩を叩くと、小野寺センパイは「あたし寝てた?!」とびっくりするくらいの大声を出しながら、がばっと起き上がった。


「あ、おはよう、坂本」

「おはようございます。センパイは寝てても起きててもうるさいんですね」

「どーゆー意味?!」

「なんでもないです。さあ、もういい時間ですよ。さっさと荷物まとめて……って程の荷物もお互いなさそうですけど、見回りの先生が来る前に部室からおさらばしましょう」

「あー、はいはい。悪ィな、完全に寝ちまってた」


 あー、今日全然本読んでねぇじゃんと呟くセンパイを尻目に、僕はエアコンのスイッチを切ったりカーテンを閉めたりと、ここ数か月ですっかり慣れてしまった部室の撤収シークエンスを手際よくこなしていく。


「じゃあ、帰りますか」

「ああ、そうだな……って、うわっ!?」


 と、振り向いた瞬間、まだ寝起きで少しフラついていたのだろうか。バランスを崩した小野寺センパイが、ぐらっとこちらに倒れ掛かってきた。


「っと……」


 すんでのところで彼女の肩に手をかけて支え、なんとか共倒れになることは回避するも、手に持っていた僕のバッグは手から滑り落ち、口を閉めてなかったために中身が床に散乱してしまう。


「ああ、悪ィ……」

「まったく……寝起きですぐ立ち上がるからですよ」

「すまんすまん……って、これ、なんだ?」


 そう言って小野寺センパイはふと、床に散らばった僕のバッグの中身の、とある1つ、そう、まさに僕が1番センパイに気付かれたくなかったものをピンポイントで指差す。


「何だ、この原稿用紙」

「あ、えと、それは」


 止めに入る間もなく、センパイは床に散らばった原稿用紙を1つ1つ拾い上げ、じっくりとそこに書いてあることに目を通し始める。


「お、小野寺センパイ!? そ、それはですね……」


 慌てて必死に良い言い訳を探すも、時すでに遅し。

 センパイは原稿用紙から顔を上げ、今までで1番のニヤけ顔を披露しながら、

「ははーん。坂本、お前、小説書いてたのか~?」と、これまた今までで1番楽しそうな声を出す。


「っ……?! は、はい?! そ、それが僕のだという、しょ、証拠でも?!」

「とぼけんなよ~。あたしだって数か月の間だけとはいえ、あんたの本の好みに

付き合ってきたんだぜ? ちょっとしか読んでねぇから確かなことは言えねぇけどよ、この内容、あんたが大好きなやつにドンピシャなんだがねぇ~?」

「そ、それだけのことで?!」

「いや、というか真面目な話、そんだけ動揺してたらもうそれはほとんど自白みたいなもんだろうよ。それに、あんたの鞄から出てきたもんだしな」

「……っ」


 見られた!!

 見つかった!!

 少し前から興味本位で書き始めた小説を!!

 しかも、この世で一番バレたくなかった人に!!

 自分でもみるみる顔が赤くなっていくのが分かった。


「まあまあ、そう照れんなよ~? そりゃあ坂本は本好きなわけだし? 色んな本読んでたら、そのうちに書きたくなるってのはわからなくはないしさ?」

「……笑いますよね、こんな」

「別に書くこと自体を笑ったりはしねぇよ。そりゃ、あんたがあたしに隠れて書いてたって事実は滅茶苦茶面白いから、遠慮なくげらげら笑わせてもらうけどさ」


 徐々にセンパイの方も気まずく感じてきたのか、段々と話すペースが早くなっていく。


「えー……結局笑うんじゃないすか」


 小野寺センパイが変なところで妙に必死になっているのが面白くて、つい小さく笑ってしまった。


「まーな。でも、繰り返しになるけど、別に書いてたことを笑ったりはしねーよ。そーゆーの、あたしにはできねーし、素直にすげーと思うからさ」

「センパイ……」


 なんだ、何だかんだ言っていいセンパイじゃないか。

 ……などと一瞬考えてしまった自分が間違っていたと、次の瞬間に僕は思い知ることになる。


「そうだ、せっかくだし読ませてくれよ、それ」

「はい?!」


 ニヤリと頬を歪ませるセンパイから咄嗟に原稿用紙を奪い返し、「嫌ですけど?!」と、自分でもびっくりするくらいの声でNOという意思表示をする。


「えー、なんでだよー。ここまできたらいいじゃんか、別に減るもんじゃないし」

「いやいやいや、絶対拒否ですよ?! 勘弁してくださいよ……」

「なんでそこまでかたくなに拒否すんだよー」

「恥ずかしいからです!!!!」


 えー、つまんねー理由だなぁと、さっきとは打って変わって文句だらだらなセンパイ。

 これだけは、これだけは絶対にダメだ。

 見られたら死んでしまう。


「あ、あの……マジでこれだけは勘弁してください」

「ンだよー、つまんねーなぁ」

「まだホント書き始めたばっかなんで……あの、せめて見せられるくらいのレベルになったら、その時は見せますんで……」

「見せられるレベルになるって、具体的にはいつくらいになりそうなんだよ?」

「えーっと……書籍化したら、とか?」

「いや、本屋で買ったほうが早いじゃねぇか!!」


 次の瞬間、僕はセンパイにバシィンと強めにぶっ叩かれたのだった。

 ……暴力反対。


 *


 それからというもの、小野寺センパイは日に一度は僕の小説の進捗を聞いてくるようになった。


「でー、そういえば坂本センセ。原稿の方はどんな感じですかぁ?」

「センパイは僕のなんなんですか。編集者かなんかですか……」

「いんやぁ? いち読者……じゃなくて、ファン、かな?」

「ファンって……センパイ、僕の書いた小説、読んだことないでしょうに」

「いやー? あんたがぶちまけた時、少しだけ読んだけど~?」

「……」


 これ見よがしにニヤニヤと楽しそうに笑う小野寺センパイ。

 そんなセンパイを尻目に、僕は努めて真顔を保って目の前の本に没頭しようと意識を落ち着かせる。

 まったく……毎日よく飽きもせずに同じ質問をする。

 そんなことを考えて、でもそんなやりとりに律義に毎日付き合っている僕も僕かと思ってしまい、はぁと小さくため息をつく。

 だが、人間とは不思議なもので。

 それが小野寺センパイの狙いだったのかはわからないが、毎日毎日小説の進捗を聞かれているうちに、最初にセンパイに小説を書いていることがバレてしまった時の恥ずかしさは段々と薄れていってしまい、とうとうある日、センパイの「最初は誰だって下手なんだからさ、まずは見せなきゃどうしようもないんじゃない?」という珍しくマトモな台詞をキッカケに、僕はセンパイに書きかけの原稿の一部を見せてしまった。

 あれは、一時いっときの気の迷いだったのだろうか。

 後から考えてると、どうもそうでもない気もするのだが……。

 それはともかく。

 その日以来、僕は少しずつではあったが、書きあがった個所からセンパイに原稿を見せるのが新しい日課の一つになった。


「あれから少しまた書いてみたんで、読んでみてください」


 そう言って原稿を渡すと、センパイは目を輝かせてそれを受け取り、そしてとても今までのセンパイとは似ても似つかないくらいじっくりと真剣に読んでくれるのだった。

 その「誰かに読んでもらえる」という事実が、そしてなにより小野寺センパイが感想を言ってくれることが、僕はとても嬉しかった。

 なるほど、これは自分1人で書いているだけではわからなかったことだったろう。


「ねえ、坂本。ここ、なんか全然訳分かんないんだけど、どーゆーことよ?」

「えっと、そこは主人公が苦悩しながらもヒロインを引き留める……みたいな感じですね」

「あー、そーゆーことね。具体的にどんな動きしてるかわかりにくいから、その辺の描写加えてみたら?」

「なるほど、確かにそうですね」


 意外なことに、小野寺センパイのアドバイスは時に辛辣ではあったものの、とてもわかりやすく、そしていつも的を射ていた。

 この間まで本を読むことすらしていなかったのに、本当に驚きだ。まあ、逆にそれ故にかもしれないが。


「なあなあ、坂本」

「はい?」

「これってさ、エンディング考えてあんの?」


 夏休みが目前に迫ったある日、ふとセンパイが思いついたようにそんなことを聞いてきた。


「まあ……一応は」

「ふーん」

「最初は割と行き当たりばったりで進めてたんですけど、センパイに見てもらえるようになって、なんか明確に完結させて〆ないと、せっかく良いアドバイス貰えてるのに申し訳ないなって思いまして。しっかりこの先の展開も構成し直したんですよ」

「おー、義理堅いじゃん」


 そう言ってにこりと微笑む小野寺センパイ。


「義理ってほどのものじゃないですけどね」

「まあね。それにしても、なんだかあたし達、随分と文芸部っぽいことしてんねー」

「……確かに、そうですね」


 言われてみれば。

 好きな本を読んで、おススメの本を紹介して、小説を書いて、それを添削する。

 なんだ、本物の文芸部員よりもよっぽど文芸部してるじゃないか、僕たち。


「あたしら、部員ですらない、不法占領員なのにな」

「なんですか、不法占領員っていうその不思議な役職は……」


 そんなことを言っているうちに最終下校時刻が迫ってきたので、いつものように荷物をまとめて撤収準備をする。


「そーいや、もう少しで夏休みだけど、坂本はなんか予定とかあんの?」

「予定ですか……特にはないですね。強いて言えば、毎年家族でちょっとした旅行に行くので、多分今年もそれに付いて行くくらいですかね。そういうセンパイはどっか行くんですか?」

「残念ながら、あたしも坂本と同じで特に予定はないかなー」


 あっけらかんとそう言うセンパイ。

 「残念ながら」っていうのは、僕と同じくなのが残念なんですかね。

 それとも予定がないのが残念なんですかね。どっちですかね。

 前者だったら割と凹むんですが。

 そんなことを思いながら、「じゃあ夏休みもこうして集まります?」と提案してみる。


「うーん、そーだな。まあどうせ家にいても暇だし、坂本の原稿の進み具合を逐一確認するのも面白そうだしね」

「マジの編集者じゃないですか、それ……」

「冗談だってー。でもまあ、せっかくだし集まるか?」

「ええ、そうですね」


 そんな訳で、僕たちの夏休みの活動が決定したのだった。

 センパイが同意してくれた時になんとなく、休み中も小野寺センパイに会えることが嬉しくて、僕は小さくガッツポーズをとった。

 一方のセンパイの方も、なんだかまんざらでもなさそうな顔をして、赤く染まった部室を眺めていたのだった。

 

 *

 

 そうこうしているうちに夏も深まり、学校は夏休み期間に突入した。

 それでも僕たちは学校が開いている限り、毎日のように部室に集まってうだうだと1日中過ごしていたので、学校が休みになったという実感は薄く、むしろ休み前よりも小野寺センパイと共に過ごす時間は伸びていた。

 そして、7月も終わりに差し掛かった頃から、僕は小説をこそこそと家で書くのを止め、堂々と文芸部室で書くようになっていた。

 その間センパイは僕の勧めた本を読んだり、以前のようにぐだぐだと過ごしたりしていた。しかし、これは僕の気のせいかもしれないが、小野寺センパイは以前よりも、本に集中している時間が長くなっているようだった。

 一方の僕はというと、8月に入るとますます小説を書いている時間が長くなり、いつしか自分の読書そっちのけで執筆に挑んでいたのだから、相当に執筆熱に浮かされていたのだろう。一種の作家病というやつだろうか。

 うだるような暑さの中わざわざ学校まで出向いて、いくらクーラーがあるとはいえ古びた部室で1日過ごすなんて、冷静に考えたら狂気以外の何物でもなかったが、しかし、それでも僕が通い続けたのは、本や執筆に対する熱意以上に、そこに小野寺センパイがいたことが大きいだろう。


 そうしていつしか、僕は小野寺センパイに、書いたものに対して感想をくれることの嬉しさ以上の感情を抱いていた。

 彼女と過ごす時間は、何をするでもない無言の時間も含め、そんな時間はとても心地のいいもので、僕はその生ぬるさにどっぷりと浸かってしまっていた。

 だから、お盆休みには学校がしばらく閉鎖になり、センパイと部室に集まれないと気づいた時には、結構落ち込んだものだった。

 小野寺センパイはと言えば、意外にも「まあ仕方ないっしょ」と、割と淡白に受け入れていたので、まさか僕だけ「イヤだイヤだ」と子供のようにダダをこねるわけにもいかず、「まあ、そうっすよねー」と、できるだけ内心を悟られまいと努めて冷静にそう返すしかなかった。

 そして、色々と不満を内心にため込みつつ日々を過ごしているうちに、あっという間にお盆休みに突入した。


 *


 お盆も中盤に差し掛かり、最初は1週間強も部室に行かないなんて正気を保っていられるだろうか、なんて考えていた僕も少し冷静になり、まあどうせすぐ会えるさ、くらいにはポジティブなことを考えられるようになっていた。

 だがこれは完全に予想外だったのだが、1日何もせずに家にいるということ自体、部室に行く日課になれてしまっている僕にとっては結構な苦痛だった。

 色々思案に暮れた挙句、この間までそうしていたように、家で黙々と小説の続きを書くことにした。

 この期間にどっさり書いて、お盆明けに小野寺センパイを驚かしてやろう。

 そんなことを考えながら、僕は朝起きてから夜寝るまで、延々と原稿用紙にペンを走らせ続けていた。


「……少し、コンビニでも行くか」


 ふと時計を見ると、夜の10時を回っていた。

 少し集中力が切れてきたので、ここらで一度休憩するかぁと大きく伸びをして、スマホと財布だけを持って家を出る。

 夏真っ盛りとはいえ、夜10時ともなれば少しは暑さも和らぎ、むしろ夜風が若干肌寒いくらいだった。

 ポケットに手を突っ込み、街灯にぼんやりとオレンジ色に照らされた夜道を歩いていく。

 帰ったら続きを少し書いて寝るかとか、この後の展開はどう組み立てたものかとか、そんなことをぼんやりと考えているうちにコンビニに到着し、特に何も考えずに缶コーヒーを買って店を出る。


「ふぅ……」


 浅く息を吐いて、薄暗い帰り道を歩いていく。


「……ん?」


 ふと、少し先に、誰かがぼんやりと街灯に照らされて、道に寝ころんでいるらしいのが見えた。

 はて、酔っぱらいだろうか。

 絡まれたら面倒くさいなぁ、でも倒れてたりしたら無視もできないよなぁ。

 そんなことを考えながら、その人影に近づいていく。


「あのー、大丈夫ですかー……ん?」


 ふと、その人影に見覚えがあることに気付く。

 もしやと思い、駆け足で人影に近づき、その体を揺り起こして顔を確認する。


「っ……?!」

 

 そこに倒れ伏していたのは、紛れもなく小野寺センパイだった。


「せ、センパイ?!」

 

 一体何事かと若干動転しつつ、倒れている彼女を抱き起そうとすると、手にドロッとした生暖かい液体の感触を感じる。

 驚いてセンパイの身体に目を走らせると、お腹から下腹部にかけて、服に大きなどす黒いシミができていた。


「こ、これって、血?!」

 

 さらによく見ると、右足はふくらはぎが大きくえぐれており、そこから明らかに出てはいけない量の血が流れ出ていた。

 僕が絶句している間に、腹部のシミは見る見る大きくなっていき、やがて服の上からでもわかるほど濃いシミになり、血が地面に滴り始めた。

「な、何があったんだ?! け、怪我とかいうレベルじゃないぞ、これ」

 医療系の知識など皆無な僕でも分かる。これはかなり深刻な怪我だ。

 目の前の光景にパニックになりかけながら、ひとまず救急車を呼ぼうとスマホを取り出すが、こういう時に限って救急の番号がぱっと出てこない。

 199? 119? いや、118だったか??

 震える手でスマホを落としそうになりながらも懸命に画面をタップするが、指についた血がべたついてしまって上手くボタンが押せない。

 と、センパイが小さく「さ、かもと……か?」と呟くのが耳に入ってきた。

 

「センパイ?! 小野寺センパイ?!」


 小野寺センパイが薄く目を開けたので、スマホを置いてセンパイの身体を揺すって呼びかける。


「センパイ!」

「おう……こんなところで、奇遇、だな……」

「だ、大丈夫ですか?! 一体何が、何があったんですか?!」

「ははは……少し、トチっちまってな」


 そう言ってセンパイは自嘲気味に笑うと、口の端からつーっと一筋血が流れ出た。


「何を……?! いや、それより救急車、今、救急車呼びますんで!」


 自分が何をしようとしていたか思い出し、慌ててスマホに手を伸ばす。

 と、その手をセンパイはがしっと掴んで「そんな必要はないよ」と呟く。


「いや、必要ないって……そんな怪我で!」

「こんくらい、少し休めば大丈夫。久々に痛かったから、少し気ィ失ってただけ」


 そう言って腹部をぎゅっと抑える小野寺センパイ。

 苦しそうに口を一文字に結んだその姿はとても大丈夫には見えなかったが、しかし「大丈夫」と告げるセンパイの言葉には不思議な迫力のようなものがあり、僕はそれ以上動くことができなかった。


「センパイ……その、一体何があったんですか」


 いや、と首を振って言葉を続ける。


「何をしていたんですか、こんなところで。そんなになってまで」


 なぜそんなことを言ったのか、その理由は自分でもわからなかった。

 でも、なんとなくだが、小野寺センパイは何かに巻き込まれてこうなったのではなく、何かをしていてこうなったのだという気がした。


「まあ……色々ね。あたしにしかできないこと、あたしがやらなきゃいけないことを、ね……」


 困った様にこちらを見る小野寺センパイ。

 おもむろに腹部から手を離すと、どうしてか、どす黒いシミがいくらか薄くなり、出血も止まっていた。


「センパイにしか、できないこと……?」

「ああ。なぜだか知んないけど、あたしにしかできないことなんだってさ。だから、あたしがやんなきゃいけないんだ」

 

 そう言って、今度は大きく抉れた右足に手を伸ばすセンパイ。

 どこか遠くを見るようなその視線に、僕は思わず「センパイは」と口を開く。


「センパイは、何かと戦ってるんですか」

「……なんで、そう思うんだ?」

「いえ、なんとなく、ですけど……」

「……そうか」


 すると、小野寺センパイは「まあな」と一言小さく呟く。

 一体彼女は何者で、何故、そして何と戦っているのか。

 疑問は尽きなかったが、しかし、センパイの佇まいがそれを許さなかった。


「……それが間違った選択だと、わかってはいたんだよ。それはあたしにしかできないことなのかもしれないけど、でも、何も必ずしもあたしがやらなきゃいけないことじゃあないんだから、逃げるって選択も、あたしの人生にはあったはずなんだ」

「……でも、センパイは逃げなかったんですね」


 センパイはふうと息を吐いて、星の見えない空を見上げる。


「間違った選択だとわかっていても、それがあたしの選択だったから、進むしかなかったんだよ。たとえどんなに怖くても、不安でも、孤独に押しつぶされそうになっても、それでも、そんな『間違った選択』をした人たちの世界でなら生きていけると、そう思ったから」

「……」


 そう話す小野寺センパイに、なんと声をかければいいか、僕にはわからなかった。

 彼女に一体何が起こってるのか、何をしているのか、僕には具体的なことはなにもわからないし、おそらく聞いても答えてはくれまい。

 そんな僕如きが、センパイにかける言葉など持ち合わせているはずもない。

 ただ、黙って頷きながらセンパイの言葉に耳を傾けるしかなかった。


「これで、よし、と」


 見ると、右足の怪我もあらかた治ったようで、センパイはそれでも少し痛むのか顔をしかめながら立ち上がり、そして僕に向かって「悪いな、驚かして」と言って困った様に笑った。


「じゃあ、あたし行くわ」

「行くって、どこに、ですか」

「それを聞くなよ」


 野暮だぜ、と小さく呟くセンパイ。


「あたしにしかできないことをしに、だよ。坂本、あんたは気にしなくていい」

「そんな……でも、僕は」

「これは、あたしの戦いなんだ。世界中の誰も、たとえそれがあんたであっても、あたしを止める権利なんかないんだよ」

「……」


 そう言われてしまうと、僕は再び口を閉ざすしかない。

 だが、小野寺センパイはそんな僕には目もくれず、何かを手元で操作しているようで、何かの起動音だけが僕の耳に入ってきた。


「でも、坂本」


 すると、センパイは一瞬こちらを振り返り、僕に告げる。


「心配してくれてありがとう。嬉しかった」

「センパイ……」

「また、部室で、な」


 その言葉に、僕はハッと顔を上げたが、しかし、すでにそこに小野寺センパイの姿はなく、まるで今見たことの全てが夢だったと言わんばかりの、奇妙な現実味だけが後には残っていた。

『また、部室で』

 その言葉は、僕たちが帰りに、校門でいつも交わしていた言葉だった。


「……センパイは、いつも勝手すぎですよ」


 その場に残された僕は、小さくそう漏らすしかなかった。

 地面にできていたどす黒い血だまりは、いつの間にかまるで初めからそんなものなかったかのように綺麗さっぱり消え去り、街灯に照らされてなんらいつもと変わらない様相を呈していた。


 *


 その後お盆が終わるまでの数日間、僕は小説の執筆はもちろんのこと、その他の何も手につかず、ただ1日中ぼーっとして過ごしていた。

 その間ずっと、具体的なことは何も考えてはいなかったが、ただ漠然と小野寺センパイのことを考えていたような気がする。もっとも、いかんせん心ここにあらずな状態だったので、本当にセンパイのことを考えていたのかと言われればなんとも言えないのだが。

 そんな状態で数日間を過ごし、ようやく我に返ったのは、お盆休み明け、うだるような暑さのもと学校に向かっている途中だった。

 お盆休みが終わったからと当たり前のように、そしてかねてからの予定通り学校に向かって家を出た僕だったが、しかしここではたとセンパイのことを思い浮かべる。

 今日、小野寺センパイは部室に来るのだろうか。

 そう考えつつ、鞄の中に手を突っ込むと指先に原稿用紙の束の感触。

 こんな状況でもしっかりと原稿を鞄に入れるという自分の変な真面目さが妙に可笑しくて1人で軽く笑ってしまう。

 

「……暑いな」


 嫌になるほど蒼く透き通った空を見上げると、心を逆撫でるような蝉の声がいつもよりいやに大きく聞こえた。


 *


 文芸部室の前に立ち、ドアノブを回すと、意外なことに鍵がかかっていた。


「ああ、そうか、センパイまだ来てないのか……」


 そういえば鍵はセンパイが(違法に)管理していたんだったっけ。

 今まで僕の方が小野寺センパイより先に部室に着くなんてことはなかったから、すっかり忘れていた。

 いつだって、彼女は僕がドアを開けるとそこにいたのだ。

 とはいえ、この暑さの中ドアの前でセンパイを待つのは二重の意味で心臓に悪いので、諦めて職員室かそこらに行って、鍵を借りてくるとしよう。

「……センパイ、来ないのかな」

 ふとぼやいた自分の言葉ではっとして、思わずその場にしゃがみ込んでしまう。

「……はぁ……」

 僕は、センパイに会えなくなることを恐れていた。


 *


 予想通り職員室に行って先生にテキトーなことを言ったら部室の鍵を借りることができた。

 その際に顧問の先生らしき人に色々と言われた気がするが、全てテキトーに聞き流していたので、内容は全く覚えていない。

 まあ、おそらく職員室に鍵を借りに行くなんてことは、この先一生ないだろうし、問題ないだろう。

 正規の文芸部員には悪いことをしたような、いやでも来ない方が悪いような、どっちつかずな気持をシーソーのようにグラグラさせながら部室に戻り、部室を開けて早速クーラーのスイッチを入れる。

 約1週間ぶりの部室は、なんだか随分変わってしまったような感じがした。

 いや、おそらく変わったのはこの景色ではなく、僕自身の方なのだろう。


「はァ……」


 椅子を出して座り、持ってきた原稿を机の上に並べて、センパイはまだだろうかと時計に目をやる。

 何回時計に目をやっただろうか。

 多分実際にはそんなに時間は経っていないのだろうが、体感では1日も2日も待ったくらいの気持ちになった時、部室のドアが勢いよく開いて汗だくの小野寺センパイが現れた。


「セン……パイ……!」

「悪ィ! 遅れた!」


 勢いよく荷物をぶん投げて、暑い暑いとクーラーに直接当りに行くセンパイ。


「その……今日はどうしたんですか?」


 意を決してそう聞くと、センパイは胸元をぱたぱたと仰ぎながらニヤリと笑ったかと思うと、「寝坊!」とあっけらかんと言い切る。


「ね、寝坊ですか……?」

「ああ、寝坊だ!」

「寝坊っていうのは……あの、二度寝しちゃったとか、そういういわゆる“寝坊”ですか?」

「そうだな、そういう寝坊だ」

「……」


 なんだか、全身の力が抜けていく気がした。

 いやいや、でもきっと、昨日の夜遅く、あの日のように小野寺センパイは戦っていたのかもしれない。

 と、僕のそんな考えを見透かしたように、センパイは「昨晩TVで面白そうな映画やっててさー、ついつい夜中まで見ちゃって」とこれまた楽しそうに呟いた。


「……そうですか」

「うん、おかげで眠くってさー」

「……睡眠って大事ですもんね」

「だなー」


 今度こそ全身の力ががくっと抜けた。

 なんだよ、色々考えちゃった僕がバカみたいじゃないか。

 はあと小さくため息をついて、でもセンパイが来てくれたことに安堵してため息をもう1つ。

 一方、口から空気を排出するのに忙しい僕をよそに、センパイはようやく少し熱を冷ましたらしく、椅子に座って鞄から1冊の本を取り出して「これ、ありがとう」と言って僕に差し出してきた。


「これ、面白かったよ」

「はい?」

「だーかーらー、あんたがお盆休み前におススメしてくれた本さ、面白かったって言ってるの。そんで、もう読み終わっちまったから、次のおススメを教えてくれよ」

「ああ、はい。今回の本、面白かったならよかったです」

「すっげー面白かったよ。相変わらず坂本のおススメに外れはねーなー」


 そう言ってご機嫌な様子の小野寺センパイ。

 僕の方も、そう言ってもらえると悪い気はしない。

 相変わらずこの人は、妙に人をおだてるのが上手い。


「いえいえ、全然そんな」

「謙遜すんなってー。あんたくらいだよ、あたしのことわかってくれてるのはさ」


 おそらく何の意図もなかったのだろうが、ふと口をついたその言葉に、僕は反射的に「全然そんなことないですよ」と大きめな声で反応してしまう。


「全然、そんな……僕は、あの晩センパイに何があったのかすら、全然知らないんですから」

「……坂本」

「……教えてください、小野寺センパイ。あの晩、何があったのか」


 ここまで来たら今更後には引き返せまい。

 意を決してそう尋ねるが、しかしセンパイに「答えねぇぞ、あたしは」と一蹴されてしまう。

 

「センパイ! でも、僕は!」

「答えられねぇんだ、あたしにはさ。……まあ、答えられても、答えねぇけどよ」

「小野寺センパイ……」

「だから、察してくれよ。あんたなら、あたしのこと、なんとなくわかるだろ?

気味悪がって誰も近寄らなかった文芸部室に、本を借りるなんて理由で近づく

ような変わり者のあんたならさ。あたしみたいな、誰からも好かれてないような

やつのこと、わかるはずだろ?」

「……わかりませんよ、何も。あの日センパイに出会ったのだって、偶然でしかないんですから。あの日、センパイが何と戦っていたのか、なんで戦っていたのか、いくら考えても分かる訳がないじゃないですか……」


 あんな非現実的な光景を見せられて、何かを察してくれって方が無茶だ。

 この世は小説とは違って、呆れるほどの現実感に満ち溢れているのだから。

 そんな現実の世界の住人の僕には、小野寺センパイは高嶺の花もいいところなのだから。

 すると、センパイは机の上に持っていた本を置いて、静かに口を開いた。


「……人は誰しも"特別"って存在に憧れるもんなんだよ」

「……特別、ですか」

「ああ。人とは違う、もしくは人より秀でた何かが、自分だけがこなせる役割が、そんな何かが欲しいと考えちまう弱い生き物なんだ。けど、実際そうなってしまったら、人は特別ってものに呪われちまうんだ。特別であり続けるために、特別であるが故に、って、そんなことばっか考えちまって、結局与えられた役割さえ満足にこなせなくなる」

「……それは、小野寺センパイ自身のことですか」

「さあな。そうかもしれないし、違うかもしれないな」


 そう言って、肩をすくめるセンパイ。


「確か『今悩んでなんとかなるもの以外は、悩むだけ無駄だ。やりたいことがあるならやればいいし、できないなら努力すればいい。そこに悩むなんて無駄なプロセスを挟むだけ時間の無駄だ』って、この間坂本に借りた本にあった台詞だったよな? でも、現実は中々そうも上手くいかねぇよな」

「そう、ですね」


 あの晩、センパイは確かに言っていた。

『間違った選択だとわかっていても、それがあたしの選択だったから、進むしかなかったんだ』と。

 もし、センパイの言うように、本当にそんな風に割り切れたら、どれだけ楽だろうか。

 割り切って、切り捨てて、前だけを見る。

 そんな器用な生き方が、果たして僕にはできるだろうか?


「あの日あの場所で、違う選択をしていたらどうなっていたのかなって、そんなことを、前はよく1人の部室で考えていたのさ」

「違う選択を、していたら……」

「それは憧れだったり、後悔だったり、懺悔だったりもしたんだけどさ、でも、それで望んでいた『今』が手に入れられたかって考えたら、そう上手くいくものでもないかなって、そう考えて割り切ってたんだけどね。……どうも、あんたと出会ってからそうもいかなくて。色々ごちゃごちゃ考えてたら、あの晩みたいに下手こいちまってさ」


 まったく、らしくないよなぁと自嘲気味に笑うセンパイ。


「でも、今でもあたしは、あの日あの時の行動の全てが正解だったなんて思わないけど、それ以上にあたしが選んだ行動の全てが間違っていたとも思わないんだ。……ねえ、坂本」

「……はい」

「今はこんなあたしだけど、でも、坂本だけはまた今日みたいに、この部室であたしのこと待っててくれる?」


 センパイの言っていることの全てが理解できたわけじゃない。

 まだまだ全然謎だらけとすら言える。

 相変わらずそんな彼女にかけるべき言葉も、僕は1つとして見つけられていない。

 だが、不思議とその問いに関しては、僕は迷うことなく頷くことができた。


「もちろんですよ。そんなの、当たり前じゃないですか」


 そうだ、たとえ小野寺センパイがどんな状況に置かれようとも、彼女自身が自分の選択をどう思おうと、この場所は僕とセンパイ、2人で一緒に築いてきた大切な空間だ。

 だったら、僕はセンパイが語ってくれるまで何も聞かず、ただいつものように部室でセンパイのことを待とう。

 たとえあの晩のようにセンパイが傷だらけになったとしても、センパイが僕のことを忘れてしまっても、この場所だけはセンパイの帰るべき場所であり続けよう。

 そんな想いを、僕は心の中で噛みしめた。


「ありがとうな、坂本。あんたなら、そう言ってくれると信じてた」


 そう言って、センパイは僕の手に部室の鍵を握らせた。


「これからは、坂本が先に部室を開けて待っててくれ。そうすればいつでも帰ってこれるから」

「わかりました」


 センパイがそう言うならば、僕はそれに従おう。


「ありがとな」


 にっこりと笑うセンパイの今までで一番の明るい笑顔に、僕はふと、かつて答えられなかった疑問の答えを見つける。


「……わかりました、僕の理由」

「ん?」

「いつか、センパイが聞いてきたじゃないですか。『どうして坂本は、こんなあたしみたいなのがいる部室に入り浸ろうと思ったのか』って。その答えですよ」


 そう、あの時は上手く言葉にできなかったが、しかし、今ならわかる。

 それは──


「センパイが、この部室にいてくれたからです」


 あの時、夕日の差し込む部室でセンパイに差し出された手を取った時、何かが変わる気がしたのだ。

 退屈な日常が、順風満帆な日々が。

 そして思ったのだ。

 この人は、そんな日常の空気に抵抗しているのだと。

 現状に文句ばかり言って、実際に反抗する勇気なんかこれっぽっちも持ち合わせていない僕なんかと違って。

 だからあの時、僕に向かって差し出されたセンパイの手は、そんな軟弱者の僕に対して「こちら側へ来ないか」と、そう呼びかけているように思えたのだ。


「……そうか。あたしがいたから、か」

「ええ、そうです。小野寺センパイがいたから、僕は……」

「……」


 だから、僕はいつしか小野寺センパイのことを──。

 そう言いかけて、僕は口をつぐんだ。


「……『僕は……』なんだよ?」

「……いえ、やっぱりやめときます」


 そう言って照れ隠しに笑うと、センパイは少し寂しそうに「ヘタレ」と小さく呟いて、ニヤリと頬を緩ませる。


「そんじゃま、よろしくな。坂本?」

「ええ、よろしく頼まれました。了解です」


 初めて部室に来たあの日のように、僕はまた、センパイの何がよろしくなのかイマイチわからない要請に、笑顔で頷くのだった。



「そうそう、センパイ。この休みにも小説の続き書いてきたんで、読んでくださいよ」


 翌日。

 昨日はすっかり小野寺センパイの話のペースに飲まれ、小説の原稿のことなど忘れて帰ってしまったので、改めて僕はそう言ってセンパイに原稿の束を渡す。

 原稿の厚さは昨日の半分。

 それは、冷静に考えてこんな量を渡されてもセンパイは困るだろうと思ったのに加えて、なんとなく先を引き延ばした方が、小野寺センパイが確実にまた部室に来てくれる気がしたからだった。


「おー、また随分書いたなぁ。今回は面白いのかなぁ? それともツッコミどころ満載なのかなぁ?」


 相変わらずのニヤけ面でそう言いつつも、しっかりと原稿を受け取るセンパイ。


「しっかし、前回のラストも微妙なところだったし、続き書くの、結構大変だったんじゃねーの?」

「ええ、まあ、そうですね」

「なんだよ、その微妙な返事は。あー、さては自信ないな~?」

「まあ、そんな感じです」


 とは答えたものの、正直な話、あの晩の出来事が衝撃的過ぎて、お盆休みの前半に自分が何を書いたかなんてまるで覚えていなかった。

 まあ、ツッコまれたら、その時に原稿を見れば思い出すだろう。


「おーけーおーけー、見ておくよ。あんがとさん」

「いえ、こちらこそ毎回読ませちゃって、すいません」

「いいのいいの、気にすんなー? あたしだって何だかんだ言いながら続き、楽しみにしてるんだからさ」

「ありがとうございます」


 そうして、僕たちの日々は再びお盆休み前へと回帰する。

 センパイは僕の書いた原稿を読んでチェックを入れたり、勧めた本を読んだり、はたまた以前のようにぐだぐだと時間をつぶし、僕の方も原稿を書き進めたり、本を読んだりと、以前と同じゆるい時間がここには流れていた。

 ぱっと見では依然と何ら変わらない部室。

 しかし、僕や彼女のこの世界の日常は変わらないままに、僕の眼に映る世界だけは、確実に変化してしまっていた。

 やがて夏休みが開け、放課後に部室に集まる日々が戻ってきてもそれは変わらず、いつしか僕はセンパイのことを以前にも増して目で追いかけるようになっていた。

 小野寺センパイはそれからも時々何かと戦っているらしく、センパイ自身は何も言わないものの、その手足には小さくも無数の傷跡が見られることが多かった。

 そんな傷を目で追う度、センパイ「どこ見てンだよ」と言って恥ずかしそうに、それでもどこか楽しそうに僕を叩いたが、やがて秋になり、制服のワイシャツも半袖から長袖に衣替えし、スカートの長さも多少長くなるにつれて、そんな傷跡が僕の目に入る機会も減っていった。

 でも、だからといってセンパイの戦いが終わったわけではないのだろう。

 冬が近くなり、暖房の稼働音が部室に低く響くようになっても、センパイはまだ戦い続けているらしく、時々、読んでいる本を枕にして疲れて眠ってしまうこともあった。


「センパイ、もう時間ですよ。起きてください」


 下校時刻が迫ったので、そう言って揺り起こすと、センパイは「ありがとう、坂本」と言って、妙に低いテンションで答える。


「どうしたんですか、そんな普通なテンションなんて。センパイらしくもない」

「あたしだって、寝起きはこんな感じだよ」

「前は寝ぼけて、『もっとエアコンの温度下げろー』とか言ってボケてたじゃないですか」

「そんなの、ぜーんぜん覚えてないなー」


 眠そうに欠伸をかみ殺し、ぐーっと伸びをするセンパイ。


「はいはい、そーですか」


 テキトーに返事を返しつつ、荷物をまとめて学校を後にする。


「そういえば、小説の方はどう?」


 ふと、校門でいつものように別れようとすると、センパイが振り返ってそう言った。


「ええと、どう、というのは?」

「進捗っていうか、終わりは見えてきた?」

「ああ、そういうことですか。うーん……大体年内、まあクリスマスくらいにはなんとかなるかなって感じですかね」

「そっかそっか、クリスマスかー」

「……なんですか?」

「いや、別に? そういえば、クリスマスついでに話しちゃうんだけどさ、冬休みってどうする?」

「あー、そうですねぇ」


 確かに、気が付けば冬休みまでそれほど日も残っていない。


「まあ、夏休みと同じ感じでいいんじゃないですか? センパイもどうせ暇でしょうし」

「失礼だなー。あたしだって色々忙しいんだぜー?」

「色々って?」

「んー? 気になるぅ?」


 そう言ってニヤつくセンパイ。


「いえ、特に」

「ええ……」


 が、わざとつれなく答えると、センパイはガッカリしたように「まあ暇なんだけどね」と言葉を続けた。


「ほら、やっぱり」

「そこはクリスマスの予定くらい聞いてくれてもよかったんじゃないかなぁ、って、あたしそう思うんだけど?」

「どうせ暇でしょうしね」

「……そういうことじゃないんだけどなぁ」

「はい?」

「いいや、なんでもない。じゃあね、また明日、部室で」


 笑顔で手を振るセンパイに手を振り返し、僕も「ええ、また明日」と返す。

 そうして、またいつもの日常を繰り返しているうちにあっという間に冬休みになり、僕たちは1日の大半を部室で過ごす生活にシフトした。

 小説の方はというと、自分でも予想外なくらいに計画通りに進み、センパイに宣言した通り、クリスマスには最終話をお披露目できそうだった。

 この頃になると僕もセンパイのアドバイスをかなり自分のものにしてきていて、それほど書き直しなどをせずともそこそこのクオリティのものが書けるようになっていたことも、計画通りに進むようになった理由の1つかもしれない。

 そんなこんなで、クリスマス数日前にセンパイに原稿を渡した僕は、「次最終回ですから、覚悟しといてくださいね!」とドヤ顔で言い切るくらいには自信をつけていた。

 さて、何だかんだで半年以上に及んだこの作品にケリをつける時だ。

 自分なりに練り上げてきたこの物語のエンディング、どんな風に仕上げてやろうか、センパイをどんな風に驚かしてやろうかと、そんなことを考えながら、僕は毎日毎日凍える空の下部室までおもむき、ガリガリと原稿用紙にペンを走らせ続けていた。

 そして、いよいよ自分なりに納得のいくクオリティの最終話が書き上がったのは、ぴったり予定通り、12月24日の朝だった。

 完成したての原稿用紙の束を持って、僕は雪がちらつく通学路を走り、部室を目指した。

 この原稿を小野寺センパイに見せて、そして読んでもらうのだ。

 僕は寝不足の頭でそのことだけを考えながら、部室へと急いだ。


 しかし、この日を境に、小野寺センパイは部室に一切顔を出さなくなった。


 *


 それから一体どのくらい経ったのだろうか。

 その後僕は高校3年生となり、そして人並みに受験をして、大学に進学した。

 書き上がった小説の結末がどうだったか、今ではすっかり記憶の彼方になってしまった。あの雪の日以降、僕が再び小説を書くことはなかった。

 年が明けてから3学期いっぱいまでは、放課後になると僕は部室に足を運び、そこで読書をしたり、ぼんやりとスマホをいじったり机に顔を突っ伏して寝ていたりしたが、それも進級と共にしなくなってしまった。

 あの日、小野寺センパイに一体何があったのだろうか。

 そんな疑問は、分かりすぎるほどに明確な答えを持っていたので、敢えて考えることはほとんどなかった。

 どちらにせよ、高3になって受験に集中するようになってからは、僕の中のセンパイはもはや校内におらず、すでに過去のものとなってしまっていた。


──あの日あの場所で、違う選択をしていたらどうなっていたのだろう──。

 

 それでもふと、あの日のセンパイの言葉が蘇ることがある。

 僕は果たして、センパイにとってのなんだったんだろうか。

 文芸部室で過ごしたあの日々は、果たしてどんな意味を持っていたのだろうか。

 残念ながら僕は小説の登場人物ではないから、この疑問に答えを出すことなど、おそらく一生かかっても不可能なのだろう。

 それでも、僕は僕を非日常に誘ってくれた小野寺千歌という1人のセンパイの存在を心に留めて生きていこう。

 

──センパイのいない、この世界を──。

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センパイ 五月雨ムユ @SamidareMuyu

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