第四部、菩薩についてさらに語る

 無量慧、憧慧、地慧、勝慧、橙慧、金剛慧、安楽慧、日慧、清浄慧、梵慧、という菩薩がいる。

 常住眼、無量眼、真実眼、不動眼、天眼、無上眼、という眼がある。


 衆生が「私どもは貧乏で暮らしていくことができません。何とぞ憐れみを垂れて私どもを救ってください」と請うても、菩薩は、思い思いにその要請に応じて、ことごとく満足させて、歓喜させるということはない。

 「私が請いもせず、求めもしなかったのに、私を教えさとし、私をやる気にさせて仏の修行をさせる。私は学問をして、衆生を喜ばせたいと考えるようになった。衆生に正覚(諸行無常、一切皆苦、諸法無我)を悟らせて、衆生に涅槃を得させてから、私が妙覚を悟りたいものだ」というものが、菩薩の第一の喜びである。

 魔王が美しい天女の群れを率いてやってきても、「この五欲は道をさまたげ、無上の悟りを得るための障害である」と思い、誘惑されないのは、菩薩の第二の喜びである。

 忍辱(にんにく。ひたすら耐えている人)であり、謙虚で優しく語っているのは、菩薩の第三の喜びである。

 次は精進である。優れた精進、最勝の精進、第一の精進、大いなる精進、微妙の精進、上の精進、無上の精進、無頼の精進、無頼普遍の精進、を修め、「私は衆生のために地獄の苦しみを受けよう。私はあらゆる衆生に代わって一切の苦を受けよう」というのが菩薩の第四の喜びである。

 次は正しさである。正しさを求めるのは、菩薩の第五の喜びである。

 次は善である。菩薩が善を行うのを見て、天も、魔も、さまざまな民族も、恭順して歓待するなら、天も、魔も、貴族も、無上の悟りを得るだろう。これが菩薩の第六の喜びである。

 次は無執着である。無執着は、執着がないから、自分を利し、他人を利する。これが菩薩の第七の喜びである。

 次は尊重である。

 次は善法である。

 次は真実である。


 仏教にはさまざまな無記があるが、華厳経には華厳経の無記が語られる。

 「華厳経」の「無記の法」は以下である。

 世界の始まりはどうだったか。

 世界の終わりはどうなのか。

 世界はどこから来てどこへ行くのか。

 生き物の始まりはどうだったか。

 これが「無記の法」である。

 賢首もこのようなことは気になっている。

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