人面獣レバレバ
在都夢
人面獣レバレバ
一
俺があいつを『レバレバ』と呼ぶのは特別な何かがあるわけでもない。単にあいつが『レバレバ』を口癖としているからである。語尾に付けたりもするし、文頭にくる時もある。何の脈絡もなく付け加えたりする。『レバレバ』しか言わなくて会話にならない時だってあった。まあ別に『ポチ』だの『タマ』だのそれっぽい名前を付けても良かったんだが、それだとあまりにも普通すぎるし、面白くない。俺の感性が他人から見てどのようなものなのか全く知らないし、興味もないので、どうせなら特別変な名前にしてやろうと思ったのだ。『レバ』でもしっくりくるかもしれないが、俺はあいつの口癖通りの『レバ』を二つ重ねた方を採用し、そうしてあいつは『レバレバ』となった。
二
それなりに勉強して入ったそれなりの高校で、二年間を過ごし、ドキドキワクワクの学校生活が始まらないことをとうに理解していた俺は今日ものろのろとペダルを踏んでいた。
夕方になったってのにまだ蒸し暑く、白シャツにべったりと肌が張り付く。風が吹いたが、熱風だったので全く涼しくない。
十五分かけて学校から家に帰ってきて、自転車を庭に止めていると、玄関前に黄色い塊があるのを見つけた。その黄色いものに注意を向けてみると、カッパを着た人間であることが分かった。うずくまってこんなに暑いのにフードをかぶっている。
人の家の玄関だってのにまるで邪魔をするように背中を向けていやがる。俺はイライラしながら、雨は降っていないのにカッパなんか着てやがる変質者に声をかけた。
「警察呼ぶぞ」
黄色いカッパを着た人間がゆっくりと振り向いた。大きくて丸い澄んだ瞳、長く濡れたような黒髪はカッパからはみ出している。非常に整った顔立ちをしているが、口だけが半開きになっていて、間抜けに見えた。
少女は俺を見つめた。俺も少女を見つめた。
俺はしばらくそこで固まった。変質者だと決めつけて声をかけたのに、おおよそ現実で見たことないようなとんでもない美人がそこにいたからである。少女は瞬きもしないで俺のことをずっと見つめてくる。
いたたまれなくなって俺はついに声を出した。
「えーっと何か用」
声が裏返ってしまってかなり恥ずかしい。少女はそれでも黙って俺のことを見つめた。焦点があっていないような目で俺を捉えてくる。緩み切っている口元に俺は確信した。やっぱりただの変質者じゃないか。もしかして薬でもやっているのか。近頃は俺の母親ぐらいの人間でも手を出したりするそうだし。
俺は結構動揺しながらも、うずくまって顔を向けた姿勢のまま動かない少女をどうにかしようとした。
肩を叩いて、これからあなたの体を触りますよと合図をして、少女の脇に手を入れた。よっこらせと立ち上がらせる。
俺は少女の背中を押した。流されるようにして少女は俺の家の敷地外に出る。
その間もずっと口を開けっ放しだった。
「警察は、いや、病院に行ったほうがいいんじゃないのか?」俺はそう言って、少女を道路に残した。変質者だったが美人だった。でも、ずっと家の前いられたら嫌だな。
俺はズボンのポケットから家の鍵を取り出し、ドアを開けた。防犯意識があってよかったぜ。妹は部活だし、両親は仕事でいない。七時くらいまではずっと俺一人だ。ガチャッとドアが閉まる音を背に受け、俺はスクールバッグをそこら辺に投げ捨てて、ソファーに寝転がった。
「レバレバ」
俺は背筋が冷えるのを感じた。
自分のものではない、かといって家族のものでもない声だ。
寝転がっている俺を見下ろしているのは、追い出したはずの少女だった。
入ってきてやがった。
俺は情けないことに、いやちっとも情けなくないはずだが、この少女に恐怖を感じていた。体が逃げることを忘れたように動かない。何をするつもりだ。黄色いカッパの下にはナイフを仕込んでいて、俺を殺すつもりなのか。
今気づいたが少女は靴を履いていなかった。裸足だった。泥がフローリングについてしまっている。誰が掃除すると思っているんだよ。
「レバレバ」
少女はまた言った。何語だよ。
「な、何もするなよ。警察呼ぶからな」
俺の言葉は、脅し文句にしては説得力がなかった。
「レバレバ」
「だからなんだよそれ」
「レバレバ」
少女はあのまん丸な瞳を近づけてくる。
半開きの口からテラテラとしたものが見えた。
ぬめりを帯びたそれは舌だった。
だが異様に長い。俺が小学生の時から使っている竹製の定規より長い。具体的に言うと三十センチ以上はある。少女は舌を伸ばしたまま言った。
「レバレバ」
舌ベロは何かを探しているようになまめかしく動いた。やがて見つけたっ、とでも言うように俺の耳たぶにまとわりついた。
「レ、レバレバ......」
俺はもう勘弁してくれと言う思いを込めて言った。
「レバレバ」
少女が返した。
一度も瞬きしてなかったのに、まぶたがゆっくりと一回だけ閉じた。この言葉は何かの符号なのか。手応えあり。俺は言った。
「レバレバ」
少女は体を傾けて、俺の口を覗いた。
「レバレバ」
「レバレバ」
「レバレバ」少女の舌がスルスルと口の中に戻っていく。
少女は俺から目線を外して、「レバレバ」とつぶやきながら、リビングをうろつきまわった。茶色い足跡が残っていく。
「馬鹿っうろつくな」
俺は思わず少女の肩をつかんで静止させた。
「レバレ......」
「そこ座ってろよ」
俺は少女をソファーに座らせると、急いで雑巾を持ってきて少女の足を拭いた。指と指の間まできっちり拭いていく。少女はされるがままだった。
「いいか、うろつくなよ」と俺が言った一秒後に少女はうろつき始めたがもう諦めて、汚された床を掃除していく。
なんだって俺がこんなことしなきゃいけないんだ。面倒なことが起こったときにいつも思う。自分が違う世界に迷い込んでしまったんじゃないかって。大げさかもしれないが本当に思うのだ。俺の世界は過ごしやすくて快適であるべきである。
少女は洗面台の前に立っていた。今度は何をするつもりだ。
鏡の前に置いてある歯磨き粉を手に取った。少女はそれを未知の生物でも眺めるようにして、くるくると弄んだ。口半開きの阿呆面から長い長い舌が伸びてきて、歯磨き粉の表面を擦った。味見でもしているようである。
しばらく舐めていると、キャップの方に舌が回り、それを外した。歯磨き粉のチューブを握り締め、ぶづづと中身を絞り出して、食った。
一瞬のことだったので俺は止めることができなかった。全体として半分以上残っていた歯磨き粉が全てなくなってしまった。
完全にいかれてやがる。ひきつった笑いが出た。
少女の舌べろは変化しているようだった。蛇のように細くなっている。粘土でこよりでも作るように伸びていく。歯磨き粉のチューブの入り口を通り、中に残ったカスを書き出して口の中に運んでいく。
俺はポケットの中にある端末に手を伸ばしかけて、思い直した。このままこの少女を警察、もしくは病院、あるいは元の家族のもとに返していいものだろうか。
退屈極まりない日々に彩りがもたらされるかもしれない。かなりの不思議ちゃんで人間の範疇からもいささか外れているこの少女を手放しても良いものか。何かが変わるかもと期待が湧いてくる。何より顔がタイプだった。それが俺の中で決め手となった。
俺は少女を自分の部屋に連れ込んだ。
少女はいたって従順であり、何も抵抗しなかった。警戒心ゼロだ。と言うよりも何も考えていないように思える。犬か猫だってもう少し動きに喜怒哀楽が混ざってくるだろう。
少女はぼーっと突っ立ったまま、ゆるりと顔を左右に動かしている。
俺は触られて嫌なもの、ゲームとか、漫画とかを部屋の端っこに片付けた。さっきの歯磨き粉みたいにベラベラ舐められても困る。
俺は椅子に体を預けて、少女に質問を投げかける。
「なんで俺んちの前にいたんだ?」
「レバレバ」
「それしか言えないのか?」
「レバレバ」
「レバレバってなんて意味なんだ?」
「レバレバ」
「むむ、む、ひょっとしてからかってんのか?」
「レバレバ」
俺はこいつとのコミニケーションを諦めた。アニメに出てくる地球外生命体的なやつだって、少なくとも交流の意思を見せるだろう。
こいつは俺に「レバレバ」と言っている間、落ち着きなくあたりを見渡して、ペタペタと俺のベッドを触ったりしている。ぼむっぼむって具合に俺のベッドを拳で叩いた。叩いていると、かぶっている黄色いフードが取れて、髪がふわりとあふれた。最初の見立て通りにやはり長くて、腰ぐらいまでは伸びているだろう。
とても良い。黒い髪であると言うことがとても良い。
俺は少女が「レバレバ」としか言わない頭のネジが外れた阿呆であることをいいことに、その艶やかな黒髪へ自分の指をからませた。さらりと指の隙間から髪が落ちていく。
うへへ、前から触ってみたかったんだよな。こんなことを言うと犯罪者っぽい。しかし実際に犯罪起こす気はさらさらないし、言ってしまうなら少女だって不法侵入をしているのだ。だから俺の今している行為になんら違法性はなく、司法取引のようなものなのだ。
黒髪は、上品で甘い匂いがした。俺は髪に顔を埋めた。髪は俺の皮膚にほどよく馴染み、溶けてしまうようだった。女子の髪とは、これほど柔らかいものなのか。俺は戦慄した。もっと、良く知らなければならない。俺は、少女の髪を弄び、口に含んだり、自分のと比べてみたりした。
ガチャリ。
一階から聞こえた。俺は身を硬くした。まだ帰ってくるような時間じゃないのに。
ドタドタとうるさい足音は妹のものだ。
練習が早めに終わったのか。タイミングの悪いことだ。俺の心臓が勢いよく脈打つ。
どうやってこいつを隠す。
クローゼットに押し込むか、いや無理そうだ。俺のクローゼットはいろいろ詰め込みすぎていて、閉まらなくなってしまっている。今から片付けようにも時間がない。それなら勉強机の下はどうだ。無理っぽいなぁ。ビビットな色合いの黄色のカッパは激しく目立つ。
足音は階段まで来ていた。
妹は帰ってくると、ほぼ百パーセント俺の部屋に入ってくる。
これはまずいぞ。いっそのこと女友達で通すか。......それにはやはりこのイカレ女は向いていない。夏なのにキテレツな格好をしているし、あの妙な口癖でも吐かれようもんなら、どうなることか想像がつかない。
「レバレバ」
少女は鳴いた。ええい、この際ベッドに押し込んで......。
焦る俺の横で少女は引き出しを開けた。
少女は机の横に備え付けられている引き出しに、手品でも使ったかのようにすっぽりと入った。体操選手もびっくりなぐらいに体が曲がっている。
俺が引き出しを閉めたのとほぼ同時に妹が俺の部屋に侵入してきた。
「ただいま」
「あ、ああ、あ、おかえり。もういい加減に一々、おかえりとか言わなくてもいいんじゃないか」
「えーでも挨拶って重要じゃん」
妹、真琴は口を尖らせた。
「わかったわかった。俺はこれから勉強するんだ。気が散るから早く出てくれよ」
「嘘でしょそれ」
「嘘じゃない。俺だって勉強したい気分になったんだ」
俺は内心の動揺を悟られないように言った。
「ふーん」
真琴はしたり顔をして俺の部屋を覗き込んだ。
「何か見られたくないものも隠してんのかな」
「俺にやましいことなどない」
俺は堂々として、自らドアの前から立ち退いた。
「まぁ何でもいいけどね。......サキュバス性活肉の家」
「......」
真琴は去った。あいつ、いつ見つけたんだ。俺は妹の探索能力に恐れ慄いた。だがひとまず犯罪者扱いされないことはほっとしても良いだろう。
俺は引き出しを開けて、少女をこずいた。妹が来るのを察して隠れるなんて意外に気の利く奴だな。
少女は複雑に絡み合った手足を一人で器用に外して、引き出しから出てきた。
「レバレバ」
レバレバという言葉が何を指しているか全然わからないが、感謝の念を込めて俺は、
「レバレバ」
少女は可愛らしく小首を傾げた。
「レバレバ」
三
レバレバと名付けた少女は生まれたての赤ちゃんみたいに何にでも興味を示した。
ティッシュ、乾電池、消しゴム、ボールペン、ハンカチ、端末の充電ケーブル、テレビの画面、鏡、カーテン、ベッドの隙間、お笑い芸人、キーボードを叩く音、俺の脱ぎ散らかした服、とにかく色々だ。
レバレバは文字通りそれらを味わった。
口の中に入れて飲み込めるようなら、飲み込んだ。
俺も最初のうちは止めていたが、何を食べても大丈夫らしいということに気づいてからは止めなくなった。面白かったということもある。
もちろんちゃんとした食事も与えている。つってもコンビニ弁当だが。
箸の使い方すらわからないようで、俺の買ってきた牛肉弁当を手掴みで食い始めた時は流石に引いた。
未開の原始人染みた行動とホモサピエンスっぽくない身体能力(長い舌とか異常な柔軟性とかだ)の繰り返しに俺はレバレバを人間ではないと決着させた。
というわけで俺はレバレバを人間的にしてやろうと、人間界の常識を教え込んでいるわけだ。
「見てろよ、箸はこう使うんだ」
俺はレバレバから割り箸を奪いとって、かちゃかちゃ動かし、手本を見せた。
レバレバは俺から割り箸を返されると、同じように箸を動かした。だが弁当にそれが届く前に弾けて、カランと音を鳴らした。
俺は丸テーブルに転がった箸を拾って再びレバレバの手に持たせた。
「仕方ない奴だな」
レバレバの手を上から握って、正しく操作してやる。焼きサバを半分に切り分け、白飯と一緒に口の中に運ぶ。それをレバレバは雛鳥が親鳥から餌をもらうように迎え入れた。
もぐもぐしているレバレバに俺は言った。
「ほら、今度は自分でやってみろよ」
「レバレバ」
おぼつかない手つきで箸を動かし、挟むというよりは、突き刺すような感じで焼きサバを食べた。
俺はその様子を見て奇妙な満足感を得ていた。
俺が教えてやったのだ。ほぼほぼ人間の形をした生物に人間の常識を教えてやったのだ。
へ、へ、へ。
俺は薄く笑って、「いいぞその調子」
レバレバはおかずの配分など考えずに食べた。そのせいで、白飯がだいぶ残ってしまった。奴は同じように箸を突き刺す動きで白飯を食べようとしたので、ボロボロと米が丸テーブルにこぼれていく。
俺は米粒を回収するとレバレバへ差し出した。ベロりと長い舌が伸びて俺の指についている米粒を舐めとっていく。
スプーンだったら大丈夫だったのだろうか。俺はそんなことを考えながら、奴のしなやかな指から割り箸を取る。
レバレバはすぐに自分の口を開けた。
どうやら俺が箸を持つと食べさせてくれるってことを学習したらしい。
「こぼすなよ」
ま、こいつにとっては無理な注文だがな。
俺はレバレバの歯によって噛み砕かれた米たちが喉を通っていくのを眺めた。色白で透き通るような肌をしている。俺はうっとりとため息をついた。美人は三日で飽きるっていうが、一週間経ったってのに、俺は全然飽きないぞ。
四
レバレバの食事の後は奴と遊ぶ。別に怪しい意味じゃない。親が子供の遊びに付き合うようなものだ。実際のところ俺も結構楽しんでいるのだ。
学校で使っているノートの後ろのページをちぎって、ペンと一緒に渡した。
食べ物じゃないと教えたので、もうペンは口の中に入れない。
レバレバはガジガジと線を引いていく。ミミズがのたうち回ったような絵が現在進行形で描き込まれていくが、俺はニコニコ顔だった(おそらく気持ち悪いと思う)。
「なんちゅーこと言うんすか、奥さん」
レバレバは時折、支離滅裂であるがちゃんとした言葉を話すようになっていた。今のはテレビで見た芸人か何かの真似だろう。最初に話した時は驚いたものだ。こいつ、レバレバ以外話せるのかって。
「俺は別に何も言ってないよ」
律儀に言い返すと、レバレバは「こぼすなよ」と言って俺にペンを渡した。心なしか期待するような目でこちらを見ている。
なんか描けってことか。
俺はデフォルメされた猫の絵を描いた。そんなにはうまくないが、こいつみたいに壊滅的ではないだろう。
俺はレバレバにペンを返した。レバレバは俺の絵の隣に猫らしきものを描いた。
ミミズがのたうち回ったのよりはだいぶ進歩しただろう。俺は拍手して褒めてやった。
「凄いじゃんっうまいぞ」
「レバいぞレバいぞ」
レバレバは俺の真似をして拍手した。
「ご飯できたわよ」と声が聞こえた。時間切れのようだ。
「そんじゃまたな」
俺はレバレバを引き出しの中に行くように促した。
我が家は四人家族である。父、母、俺、妹。
目立ったところもない普通の家族。
母親は皿を出しながら言った。
「電話でもしてたの?」
しまったな。注意はするようにしていたのだけど。俺は気が緩んでいたようだ。
「そうだよ。少し話してたんだ」
妹が口を挟んできた。「楽しそうだったねえ」
ニヤニヤと笑いながらこっちを見てくる。
は。何が言いたいんだ。
「彼女でもできたんかなー」
「うるせ」
「へっへっへ」
真琴は気味の悪い声を出した。
俺は食卓について、麦茶を煽った。父親は余計なことを話さない性質で、俺もそういうところがあったから、我が家でうるさいのは母親と真琴だけとなる。女二人はべちゃくちゃと喋っている。
俺はふと漏らしていた。
「歯磨き粉って、食って大丈夫なのかな?」
「何言ってるの急に」
母親が不思議そうに聞いた。
「いや純粋に気になっただけ」
「さぁ? 別に死にはしないでしょ」
そんなもんかねぇ。
空になった歯磨き粉は新しく買ってきて偽装してある。俺はさっさと飯を食って、自分の分の食器を洗うと風呂に入った。我が家では風呂の順番は決まっていない。早い者勝ちだ。俺は急かされるように、シャワーで体を温めて五分くらいで風呂を出た。
二階に上がろうとすると、「冷蔵庫にアイスがあるよ」と母親が言った。俺はアイスをひっ掴むと自分の部屋に戻った。エアコンがほどよく効いてひんやりとしている。
引き出しの一番下をこつこつと叩く。取っ手を引っ張るとレバレバが出てきた。
「レバレバ」
いつもの鳴き声。
俺はこいつの様子が気になってしょうがない。家族に人間を監禁していると思われたくないのもそうだが、なんというか見ていて反応が面白いのだ。俺はソフトクリームのカップを外した。
「ほらあーんしろ」
レバレバの舌がちらちらとソフトクリームの先端を舐めた。
食べ物なら何でも食うし、食べ物じゃなくても食うのだが、ソフトクリームを気に入っているように思えた。粘着質に螺旋に沿って舐めまわしている。
俺は答えるわけもないのに尋ねた。
「おいしいか?」
レバレバは舐めるのに夢中になって全然聞いていない。そんなもんだよな。
ちなみに格好は最初に会ったときの黄色いカッパのままだ。どうやらこいつは下着を履いていない。肌に直接カッパを着ている。だが俺はこいつとそういう関係になるつもりはない(どういう関係だ)。
俺はだれかれ構わず手を出さない紳士だからである。
レバレバは一切の排泄をしない。汗も出さない。
わけのわからない体質だがそれにはずいぶんと助かっている。引き出しの中に糞を漏らされても困るし、トイレに行きたくなるたびに外に出すのはリスクがある。
今だってドアをいきなり開けられたらバレてしまう。 鍵をつけられたらなと思うが、露骨な隠し事アピールをするのは避けたい。
レバレバはクリーム部分を舐め取り終わると、コーンに取り掛かった。カリカリカリカリ......。長い舌を巻き付けながら、歯で削り取っていく。そのうちに、俺の指に舌が触れた。何だ? 勘違いしやがって。湿った感触がこそばゆい。
チュパチュパレロリンって感じ。
放っておくといつまでも哺乳瓶を吸う赤ちゃんみたいに、俺の指を吸っていそうだったので、俺はレバレバに言った。
「もうやめろって」
レバレバは俺の指に巻きつけていた舌を離した。舌が動き、俺の鼻をひと舐めすると、するすると口の中に戻っていった。
しかしまぁ、舐めるの大好きだな、こいつ。
「超おいしいね。味のする雪に体全体で飛び込んだような感じがするよ」
レバレバは流暢にしゃべった。
五
レバレバが一応意味の通るようなことを話せるようになって一週間が経ち、俺は奴との会話を楽しんだ。
「君は頭が良いのかい?」
「なんでそう思う」
おかしなことを言う奴だなと思いながら俺は聞き返した。
「だって君はこの世界の全てを知っているじゃないか」
「世界?」
「うん。君はこの私たちが暮らしている場所にあるもの全て知っているだろう。例えば、この箱は凹凸を押せば、音が聞こえ知識が学べる(テレビだ)。例えばこの棒は、他のものに押し当てると線が引ける(ペンだ)。例えばこれには体は何も被っていない私のようなものが載っている(俺の本だ)。君はこれらが何であるか理解して使用することができる。それはつまり頭が良いと言うことだ」
あー。長々どうもって感じだが......。
「俺は別に頭が良くないし、間違ってるよ。それにお前はただ何にも知らないだけだ。こんなこと誰にだってわかる」
「誰にだってわかるのかい」
「いや、わからないかもしれない」
赤ちゃんとかな。
「君は嘘をついたのかい」
「いや嘘はついてない」
「しかし、なぜ、嘘をついていないのに、わからないと言ったんだい」
「わからないかもしれないと言ったのはお前がいるからだ」
レバレバは黒い瞳をキョロキョロと左右に動かした。
「私以外に誰がいるんだ」
うん?
ひょっとしてと思って俺は言った。
「お前、この世界には俺とお前以外いるし、それに世界っていうのはもっと広いぞ。ここは俺の住んでる家で、家の中にある部屋だ」
つーか、世界、狭すぎるだろ。
レバレバはわかってる風のグルメレポーターみたいに何度かうなずいて、「なるほど」と言った。
本当かよ。
俺はレバレバに社会常識とか教科書に書いてあるようなことを教えた。幼稚園生相手だったのが、小学生相手に変わったくらいなので勉強を教えることはさして難しくなかった。それにレバレバは飲み込みが早く、三日間で小学校教育課程をクリアした。まるで小学生時代、ポケモンと遊戯王ばかりしていた俺を馬鹿にするようなスピードだった。しかも、それどころか、奴は四日目には、高校生並みの知識を身につけていやがった。これは間違いなく俺を馬鹿にしているに違いなかった。
「ああ、君。これではいけない。それは問題作成者の罠に引っかかっている。別の考え方をしなければならないんだ」
とレバレバが俺の宿題を覗き込んで言うのは、誠に俺を苛立たせた。こちとらもうすぐ三年だぞコラ。受験生だぞコラ。
「あーもう、やる気なくなっちまったなあ」
俺が言うとレバレバは、
「それはいけない。もう受験は始まっているんだ。ここからが大事だよ」
と言った。
んなことはお前に言われなくたってわかってるよ。俺はそう言おうと思ったが、奴の長い髪が俺の首筋に垂れかかっているので、言わないことにした。
「なんでお前そんな頭良いんだよ」俺は一通り終わったので訊いた。
「知識があるからだろうね」
うるせーよ。身も蓋もないことを言うんじゃない。人間が全員お前みたいに、詰め込めば詰め込むだけ入る4次元ポケットみたいな脳みそ持ってるんじゃないんだぞ。俺は悔しいので、レバレバに言う。
「カステラ食べるか」
「食べる」
俺が教えてやらなかったので、レバレバはカステラの下に張り付いている紙まで見事に食べた。知識がないとこういうことになるのだ。だが、許せ。日本人なら大抵食べてるはずだ。多分。
「超おいしい」
レバレバは馬鹿丸出しで言った。
六
いらないと言ったのに、無理やり塾に入らされ、クタクタになって帰ったある日のことだった。
俺はおかしなものを見つけた。
男は髪をニワトリみたいに逆立たせ、頭頂部以外を全て剃ってしまっていた。いわゆるモヒカンとでもいうのか。黒いレザーのジャケットはなぜか袖がなく、男はそれを肌の上から羽織っていた。あちこちに鉄の鋲が打ち付けてあって、肩には一際長いものが生えていた。眉もなく、サングラスをかけている。
男は食卓について、くつろいでいた。
俺は世紀末野郎の顔を見て、変態だと結論付けた。
というかそれは俺の父親だった。
「ヘイメ〜ン。おきゃえり〜。ご飯あっためといたからあ、食べちぇ〜」
父親は気色悪い声で言った。
俺は今、車に轢かれでもして、生死を彷徨っている最中なのか? これ?
「どうしたんだよ......」
ヘニャヘニャと膝から力が抜けるような感じがした。
「メ〜ン? どうしちゃあ? ウチはいつでみょ、絶好ちょーだっち?」
ウチ、じゃねえよ......。
あの無口で厳格な俺の父親はどこの次元に消えた?
誰かこの状況を説明してくれ。
「みゃみゃみゃ! お風呂わちた! ウチが一番なーり!」
父親が風呂場に突撃していったので、俺は母親を探した。
母親はトイレで泣いていた。結婚して子供まで産んだ相手がこうも、おかしくなってしまったから当然だろう。とても話を聞けそうになかったので、俺は真琴を呼び出した。
「どうしたんだよ、あれ?」
「知らんし。あたしが帰った時には、あんな感じになってたから」
真琴はわりあい平然としていた。
「どうにかなんねーかな」
「さあ。病院でも連れてけば」
「酷いなお前」
「それしかなくない?」
釈然としないが、それしかないのだろう。精神性の何たらとか、診断されるかもしれない。
「つーか、お前。ずっと放置してたのかよ」
俺は真琴に訊ねた。
「うん、キモいし」
「......そりゃそうだけど、家族だろ」
「でもキモいし」
哀れなりと俺は思った。
父親のことをレバレバに話してみると、奴は「そういうこともあるかもしれないね」といたって普通の返答をした。
「でもストレスなんかで、いきなりあんな風になるか?」
「社会心理的ストレスは脳の萎縮といった形態変化を引き起こす可能性があるよ」
レバレバは舌を伸ばし、俺の足指を舐めた。あまりの早技だったので、避けることができなかった。
「汗の味からでもストレスを感じているかどうかわかる。君は今ストレスを感じているね」
「お前のせいでな」
俺はレバレバの唾液を拭き取った。そういえばこいつは汗をかかなかったな。ずっと一緒に過ごしていたから、すっかり忘れていた。
「お前って宇宙人なのか?」
「私はレバレバだよ」
「だから、それって宇宙人じゃないのかよ」
「違うよレバレバだよ」
「はあ......もう良い」
レバレバをくつくつと笑った。
からかってやがる。だが......悪い気はしなかった。美人だしな。奴が嬉しそうだと、俺も嬉しくなってくる。
「お腹が空いたな」
レバレバは俺を見た。
「まだ飯の時間じゃないぞ」
「そうだが、君は小腹が空いた時に、何か摘んだことがないのかい? 腹の音が鳴ってからでは遅いんだよ」
「卑しい奴だな。犬だって待つことはできるぞ」
そうは言いつつも、ほとんど俺の心は飯をやる方に傾いていた。
ニヤついている俺に気づいているだろうレバレバは、
「食べたいなあ」
と甘えるように言った。
「しょうがないな」
俺は呆れた風に言い残すと、一階に食べ物を取りにいった。ニヤニヤが抑えられなかった。早足で部屋に戻った。
レバレバはベッドに座り、脚をぶらぶらさせて俺を待ち構えていた。
「歯磨き粉とシュークリーム、どっち食う?」
俺が言うとレバレバは、
「両方」
と言い、二つとも俺の手から奪った。
俺は奴の食事を眺めた。シュークリームも歯磨き粉も同じような食べ方をした。端の方を押し潰し、ブチュリと出た中身を一気に吸った。奴は俺が差し出す食べ物全てを実に美味しそうに食べてくれる。俺は何となく、奴の髪の毛を触りながら、「レバレバ......」と呟いた。レバレバは振り返り、ウインクをして言った。
「レバレバ」
その日の夜はレバレバを引き出しにしまわなかった。
俺は布団の中でレバレバを後ろから抱きしめていた。別に何もしていない。ただ抱きしめているだけ。
レバレバは俺の手の甲を、指の腹で撫でていた。
少しこそばゆかった。
俺は奴に好き放題させている代わりに、抱きしめる力を強めた。
子供の頃、一緒に寝ていた熊の感触がした。柔いところとか......ただ、こいつは温かいし、甘い匂いがする。
そのうちに俺は耐えようのない眠気がやってきて、瞳を閉じた。
七
翌朝、レバレバは俺の布団から消えていた。引き出しに自分で戻ったのだろうな。
俺は朝飯を食べようと思い、一階に降りると、誰かにみぞおちを殴られたかのような衝撃を感じた。
変態が二人に増えていた。
俺の母親はなぜかレスラーがつけるようなマスクをして、グラビア並みの露出度で縄跳びをしていた。
リズムよく縄がフローリングを叩く音が聞こえた。二重跳びだった。シュッシュッと細く息を吐いて、汗の飛沫をあげていた。
台所の方で世紀末スタイルの父親が俺に向かって言った。
「おはょ! がっきょ、遅刻するにょ」口角を思いっきり上げた良い笑顔だった。
俺は卒倒しそうになった。
「何してるんだよ」
俺は母親に訊ねた。
「練習してる」
と母親は短く答えた。そこに構わないでくれといったような響きが込められているのを感じて、俺は怒鳴りつけたくなった。
「何の練習だよ」
「試合だ」
「だから何の」
「気が散るから話しかけるな」
母親は縄跳びを止めて、スクワットを始めた。父親は「喧嘩しちゃやーにょ」と言っている。悪夢の現実化。俺までおかしくなりそうだった。
そういえば真琴は。
あいつまでおかしくなってたら、俺は正気を保てなくなってしまうだろう。
俺は急いで階段を上り、ドアを開けた。
「真琴っ」
真琴は既に起きていて、めんどくさそうに言った。
「うるさいよ、何」
「おふくろまでおかしくなった」
「ああ、うん。それで」
「それでって......おい」
俺は真琴をぶん殴ろうと思ったが、布団からはみ出ている黒いものを見つけ、目を見開いた。「何でこいつの部屋にいる......レバレバ」
「レバ......なぜと問われれば、私は昨日、彼女によってこの部屋に連れてこられたからだよ」
レバレバは布団から這い出てきた。
「そーそー。あたし。兄貴さぁ、物隠すの下手だよね。だいぶ前からレバちゃん見つけたよ」真琴は俺のことを鼻で笑った。
口の中がひどく乾く。
気づいていたのか。俺がレバレバを飼っていたこと。
「どうして俺に話さなかったんだよ」
「聞かれなかったからね」
レバレバは落ち着いた様子で言った。その様子がまた俺の心をざわつかせた。
俺のレバレバが......。
「てめえ真琴っ! 勝手にレバレバ盗るんじゃねえ! 俺が最初に見つけたんだぞ」
「へへへ。何それ? 小学生みたいな言い方じゃん」
目の前が真っ赤になった。畜生。その通りだ。
真琴は嬉しそうに言う。
「何? 嫉妬してんの。あたしの方が仲良いもんね」
「ちげえっ! 俺だ! 俺の方がレバレバと絆を結んでる!」
真琴は「絆って馬鹿か」と言い、声音をまるで、幼児相手に話すように変えた。
「兄貴、レバちゃんがどうして頭良くなったのか、知らないでしょ?」
「知ってるよ。俺が教えてやったんだ」
「ハハ」
真琴は俺を嘲笑った。
「レバちゃんやってよ」
「良いのかい? 彼に見せても」
「良い! あたしが許す!」
真琴が言うとレバレバは俺の顔を見た。奴の眉は八の字に下げられていた。やめろ、そんな顔するな。俺に申し訳なく思うんだったら、今すぐやめろって。
レバレバはやめなかった。
レバレバは長い舌を出した。舌は真琴の右耳に入っていった。スルスルと。これではもう片方の耳の穴まで届いてしまうだろう。だが真琴もレバレバも何も言わなかった。それが当然であるかのように。
レバレバの舌は掃除機のコードでも伸ばすようにどこまでも伸びる。それは俺も知っていることだ。
突然真琴の体がびくりと跳ねた。レバレバの舌が波打つたびに体を反応させる。目を充血させているが、口の端は弧を描いている。
「いいいいい」
真琴は風が鳴るように低く唸った。
やがて舌が耳から引き抜かれると、真琴はへたり込んだ。俺に向かって何か言おうとしたようだが、緩み切った口元は笑みを浮かべるばかりで、意味のある言葉を発さなかった。
「私が説明しよう」
舌を戻し、レバレバが言った。
「まず、前提として、私は脳みそを吸うことで、知識を得ることができる」
俺は唖然とした。奴はマジのエイリアンじゃないか。
レバレバは続けた。
「彼女は君が留守の時に私を見つけ、私から脳みそを吸われたんだ。それまでは本能的に動くだけの私だったが、ある程度の理性と知識をそこで得たんだ。彼女はそれからも私に自ら脳みそを吸われにくるようになった。知識を吸われるのが病みつきになってしまったんだろうね。それと同時に彼女は自分の両親まで連れてくるようになった」
「親父か......」
「そうだ。未発達の脳みそを吸うだけでは、駄目だったようで、発達しきった脳みそを吸うことで私は完成したんだ。その時につい、勢い余って知識の全てを吸ってしまったから、代わりのものを戻しておいたよ。それが君の父親がおかしくなった原因だ」
なんてこった。俺はとんでもないものを飼っていたかもしれない。
「嘘をついていたのか?」
「そうじゃないよ。本当に君の父親がストレスでおかしくなっている可能性があったから、断言しなかったんだ」
ふざけたことを言っているが、それが本気であるということを俺は知っている。
ぼうっとしていた真琴が囁くように言った。
「コノセカイハクサッテイルカクメイヲオコサナケレバカツカレータベタイ」
真琴もおかしくなった。俺は頭を抱えた。
「何とかならねぇのかよ」
「無理だよ。知識は私の中で混ざり合い、元の形に戻すことはできない」
レバレバはそう告げた。
なりふり構わず当たり散らしてやりたいが、悪いのは真琴でレバレバじゃない。怒っても意味がない......だが、真琴も何やかんやで俺の妹なのだ。兄が許さなくてどうする。
「ソコノオマエハカレーヲツクレワレハソノウエニカツヲノセル」
真琴はまだ中学生だったのに。今や意味不明なことを言っている姿を見ると、俺は胸が締め付けられるようだった。
俺は決めた。
「……俺の脳みそも吸ってくれ」
「駄目だ。君は私の仲間だから」
レバレバはすぐにそう言った。
俺は奴が家の前に現れた時のことを思い出した。
「それ、会った時に、レバレバって言ったから?」
「うん」
レバレバは俺を澄んだ丸い瞳で見つめていた。
真琴はレバレバに、レバレバと言わなかったんだ......。
俺はしばらく笑い続けた。
おかしくなってしまった家族だったが、意外とやっていけるもんだ。初めはなんとかしようと、医者に連れて行ったりしたが、脳みそのつるつる具合に逆に驚かれるほどだった。まあ、諦めてしまえば楽なものだった。
三人分の脳みそを吸い切って、賢くなりすぎたレバレバに勉強を教えてもらったら、なんと身の程知らずの大学にまで合格してしまった。いや、合格はしたので、身の程は知っているだろう。どちらにせよ俺のようなボンクラまで合格させるなんて恐ろしい限りだ。
レバレバはおかしくなった両親の代わりに俺の世話をしてくれた。元々隠れて飼っていた奴に、逆に世話されるなんて変な感じだったが、上手く噛み合った。多分俺は、心の底では誰かに甘えたかったんだな。
元の日常は完全に破壊されたが、俺は今日もレバレバと仲良く暮らしている。
人面獣レバレバ 在都夢 @kakukakuze
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