星のたびびと

星野響

星のたびびと

 私は、誰だろう。

 どうして、こんな場所で寝ているのだろう。

 一陣の風が私の髪と服を揺らし、通り過ぎていく。

 手のひらの感触と服に積もった滑らかな砂が、自分が横たわっている場所が砂漠であることを教えてくれる。

 視界には、手が届きそうなほど暗闇にくっきりときらめく星空があった。不思議なことに、どの星もちっとも瞬くことはなく、どれだけ眺めていても決まった場所から動くことはない。

 私はそっと体を起こした。自分が目を覚ました場所は、見渡す限り続く砂の大地の中でもひときわ高い砂丘の上だったようだ。月の光に照らされて青白く染まった砂が私の上から流れ落ち、砂の斜面に消えた。

 座り込んだ姿勢のまま、砂丘から砂を掴み取ってみる。捕まえたと思っても、指の間からほとんどが滝のようにすり抜けていった。

 わずかに手の中に残った砂粒はしゃりしゃりと気持ちが悪かった。手と手をぶつけあわせて砂粒を払い、立ち上がる。

 視界が高くなると満天の星が私を包み込む感覚に陥る。この星空が私の知っている星空のように時とともに穏やかに移ろうのなら、どんなに綺麗だろうと考える。

 そして、延々と続く砂漠にぽつんとそびえ立つ構造物を見つけた。崩れかけた塔のようなそれは、隙間をなくした螺旋階段みたくねじれにねじれた胴から時折空に向けて青い光を放っていた。

 もしかしたら、あの塔が空の動きを止めているのではないか。あそこにたどり着けば、この場所の正体もわかるのではないか。

 私は服についた砂を払い落とし、フードを被り、塔に向けて歩きだした。


 足元で砂の斜面が崩れ落ち、よろめいた。

 奇妙なことにも、空気は乾燥しているはずなのに喉が渇くことはなかった。だから私は我を忘れて、ただ脚を前へ前へと動かしていたのだ。だが、踏んだそばからざーざーと崩れていく砂を掻き分けてきた両脚は言葉通り棒のようになっていた。

 それなのに、あの塔にはいっこうに近づいた気配がしない。歩いたぶんだけ、塔のほうも遠ざかっていく気さえした。

 歩き始めてからどれだけの時がたったのかは定かでない。なにせ頭上を覆う空はいつまでも様相を変えないのだから。

 私は今にも堕ちてきそうな星空に気圧されて、その場にへたりこんだ。

 この旅は、いつまで続くのだろう。今私は、一生歩きつづけるのか、それとも一生このまま腰を地につけたままでいるのかという、二者択一を迫られているようだ。

 その時だった。こちらを観察するような気配を感じて、私はあたりを見回した。

 思えばこの砂漠で自分以外の生物を見たことは一度もなかった。私は不安と期待が入り混じった視線で砂丘の上をなぞっていった。

 何かが、動いた。砂と空の境界線を、誰かが立っている。

 私は、今にも空に溶け出しそうなその人影の姿を見て、自分の目を疑った。

 はちみつ色のマントも、顔が伺えないほど目深にかぶったフードも、長く垂れ下がり時折風に吹き流されるマフラーの柄も、背丈でさえも、自分と違う点はひとつとしてない。

 幻影だ。私はいよいよ頭もおかしくなったか、と目をこする。だが、手をどけたその視界にも自分の分身としか思えないその影は残っている。

 試しに、片手を上げてみた。少し遅れて人影も同じ方の手を上げた。人影の腕の背後に隠されていた小さな星が、私から見えるようになった。代わりに、腕が移動した先にあった別の星が隠れ、見えなくなる。お辞儀をしてみた。人影も、さっきと同じような間を開けてお辞儀を返す。

 面白くなった私はポケットから金色の懐中時計を取り出し、指の間で動かした。すると人影もポケットを探り出し、何かを取り出して私の方に向けた。きらきらと月の光を反射するそれは私のものとよく似た同色の懐中時計だった。でも、よく見ると、そこには首から提げるための鎖がついていない。一方で私の時計には吊るしておくのに十分な鎖がしっかりとついていた。

 私は、ようやく気づいた。あの人影は、私の疲弊した心が創り出した幻影なんかじゃない。このだだっ広い砂漠でさすらう、私と同じ人間なんだと。

 相手も同じことに気づいたのだろうか。懐中時計をもとの場所にしまい込み、おもむろに歩みを進めはじめた。

 その人物が向かう、その先には、あの塔があった。

 私たちは、同じ目的を持って旅をする人間同士だった。

 同じ場所で、同じ景色を見たい。そう感じた人が他にもいて、今、自分の視力が届くまさにその範囲を歩いている。実感したとき、私はこみ上げてくるものをこみ上げてくるのに任せ、私と同じ背を追った。


 いつから、私はこの単調な砂の大地でただ歩みを進めるのを楽しいと感じているのだろう。日は昇らず、星々も月も動きを止め、私と『彼』以外に生物の気配もないこの世界に、楽しさを求めても無駄だと思っていたのに。

となりを歩く『彼』が何かを言うことはない。別に体のどこかが触れ合っているわけでもない。私たちは付かず離れずの距離を保ったまま、それぞれの脚を動かす。そんな『彼』と私の間を隔てる空気に、なぜか私は温かい物を感じるのだ。

よく、楽しい時間に限って飛ぶように過ぎていくと言われる。大抵は名残惜しさとか、不満を伴って感じられるものだ。でもそれは本当に本当で、逆にありがたいこともあるんだと知った。今、ひとりで必死に砂をかき分けても一向に近づかなかった塔は手が届きそうなほどの巨大さで、目の前にあった。私は、こちらを拒み、押しつぶそうとする威容に、静かに息をのんだ。

『彼』もまた、すぐそこに迫った塔の姿を、同じように畏れているのだろうか。それとも、まだ見ぬ冒険に決意を新たにしているのか。風のない砂漠でフードの奥にしまい込まれた表情を伺うことはできない。だから私はフードの下から口元をのぞかせて彼に笑いかけた。

彼は少しだけ驚いたように口を開け、それから片方の口角を上げた。それはちょっとニヒルで、どことなく優しさをはらんでいた。

塔を固く閉ざした扉は、もう目と鼻の先だった。


 あと少し、あと少し。私は少し先を行く背中を見据えながら、自分を奮い立たせ、夢にまで見た塔を、高みに向けて登っていく。見下ろせば、眼下には私たちが踏破してきた長い長い螺旋階段の吹き抜けが大きく闇を開けている。しかし、怖くはない。なぜなら、自分はひとりじゃないから。言葉を交わすことはなくても、解った。

 次の瞬間、私たちは、あの塔の一番てっぺんに立っていた。ただただあるき続けた者だけが眺められる風景が、そこにはあった。

 青白い砂漠。真っ黒な宇宙に、盛大にこぼされた星たち。神様の気まぐれのようにひとつだけ大きく、吸い込まれそうな丸い月。初めてこの世界を、真に美しいものだと感じた。碧く浮かび上がる地平線には、地上と空との境界線という意味しかないのかもしれないけど、あそこには砂の世界とはまた別な何かがあるのかも、と思わずにはいられなかった。

 二人、黙って、見惚れていた。

 時折、私たちの足元にはめ込まれた青い結晶体からは真っ青な光の柱が立ち上がり、空に向かって一直線に昇っていく。これが砂の大地にうずくまりながら目にした、空の動きを止めているかもしれない光の正体だろう。近くには直径が大の男ほどもある墨色の球体が佇んでいる。ちょうど結晶体が収まったくぼみにはめ込めそうだ。

 私たちは、三六〇度見渡す限りの風景を飽きるまで眺めてから、フードに隠れた互いの顔を見合わせ、頷く。鉄か何かで出来ているのであろう球体に両腕をつき、全身の力を振り絞り、二人がかりで押す。初めは壁を押しているみたいにびくともしなかった鉄球も、私たちが押し方を変えたり体当たりをかましたりしているうちに、やがて根負けしたように徐々に動き出した。二人でもこんなに重いのに、もし私たちが出会うことなく、片方だけがこの場所に行き着いたとしても、このパズル最後の一ピースははめることができなかったのかもしれない。

 球体が塔の中心にたどり着いたとき、がこんという手応えが確かに手のひらから全身に伝わり、空に向けて断続的に吐き出されていた光の連鎖が、ぴたりと止まった。

 そして、凍りついていた世界が、再び動き出す。

 あれだけ意固地に自分の居場所を定めていた星たちが早送りになって目まぐるしく移ろい、月が沈み、太陽が昇り、どこからともなく雲がやってきて砂漠に恵みの雨を降らし、ついでに私たちの服をびしょ濡れにしてどこかへ去っていった。砂漠に、緑が芽吹いていく。みるみるうちにオアシスができあがり、草原が広がり、移ろい、木の苗が育ち、立派な森を形作っていく。鳥たちが飛び立ち、青空に踊りだす。鹿が私たちをしばらく眺めてから踵を返して木々の間に消えた。


 私は何気なく隣に目をやった。

 そして、私とよく似た身体が月に照らし出された砂漠の色を帯び、消えかかっているのに気がついた。慌てて自分の手を視界にかざす。自分もまた、消えかかっていることを悟った。私の手の平は、彼のものと同じように、色素が薄まり、向こう側の森林が薄っすらと見通せるほどに透けていた。

 もう私たちは、この世界から見た『過去のもの』だった。役目を終えた私たちは、あるべき場所へとかえされる。未練は、ないと思う。私が目にしたのは、この世界のほんの一部にすぎないけれど、この長くも短かった旅に思い残すものはなかった。たぶん、最後のこの瞬間まで、『彼』が傍にいてくれたから。

 身体の質量がゼロになり、私たちのかかともつまさきも、地面から離れる。

 ホワイトアウトする視界で、最後に私が見たのは、フードからはみ出した『彼』の、素直な笑みをたたえた唇だった。

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