4/7 退屈な仕事

4.退屈な仕事



 結局、葉子が次に就いたのはやはり退屈な仕事だった。中学校の非常勤講師。それを選び取るのにも数カ月かかった。弟は姉が再び音楽の仕事に就けることを喜んだ。ただし、葉子にとっては素直に喜べないものがある。


 たいていの大学では、学校の教職員になるためのコースが用意されている。「学校の先生になる」ということは、就職に失敗した時のための非常線のようなものだった。もし、プロの音楽家としての道に精通出来なくても、学校の教師になれば食べるのに困ることはない。多くの学生たちはそんな風に考える。それは葉子も同じだった。


 ただし、葉子の場合は教師陣の覚えもめでたかったせいか、すんなりと大学講師の職を得ることが出来た。才能があってもコネがない、コンクールでの受賞経験がない、そういった理由で大学に残れない学生は大勢いる。葉子の場合も、単に幸運が味方したと言って良かった。


 中学校での非常勤講師の仕事は、一言で言えば単純労働のようなものだった。生徒たちに音楽を教えることは大学の講師時代と同じでも、そのレベルは格段に違っていた。何よりも、中学校の生徒たちの多くはプロの音楽家になることを目指していない。時にはとんでもない質問が飛んでくることもある。


「先生、ドレミファソラシドはどうして『ド』から始まるの?」


「先生、五線譜ってなんで線が5本なの?」


「先生、モーツァルトとバッハはどっちがすごいの?」


 単純労働というのは、得てして時に困難なこともある。そんな質問をされると、葉子はどんな風に答えれば良いのか分からなくなる。ただなんとなく、おざなりな答え方はしてはいけないような気がしていた。


 だから、


「今度までに調べておくね」


 と言って回答を保留する。それでも、生徒たちはなんとなく納得してくれる。大学の学生たちと違うのは、音楽の技術を上達させたいのではなく、先生にとにかく何かを答えてほしい、そんな欲求に基づいて質問を発している、というところだった。


 あるいは、


「そう決まっているのよ」


 とだけ答えても、問題はなかったのかもしれない。ただ、その時には「この先生は使えない先生」という烙印を押されただろう。いくら糊口をしのぐための仕事とは言っても、それは葉子には納得出来なかった。自分では意識していなくても、「かつては音楽家を目指していた」というプライドが葉子にはあるのかもしれなかった。


 弟は未だに、「姉はきっと音楽家として成功する」と考えているらしかった。その道は葉子にとってはあまりにも遠いものであるような気がした。


(今から音楽家ですって? いくら年齢は関係ない時代だからって……)


 結局のところ、葉子は音楽に触れていさえすれば良かったのだ。大学時代に「自動人形」と呼ばれることがあったのも、そのためだ。葉子にとっては、芸術家や音楽家というのはごく普通の仕事の一つに過ぎなかった。演奏家になることと学校の講師になることとは、彼女にとっては大差のないものだった。オリジナリティーなどなくても良い。ただ、葉子は音楽に触れていたかった。


 郊外にある彼女の家(今は自分だけの家)まで帰ってくるには、市営の公園の中を通って来なくてはならない。その道は、雨や雪が降るとぬかるんだ。それが葉子をますます気づまりな思いにさせる。「仕事には満足していると言っても、今のわたしはどこか呪われているような感じがする」――時々そう思うことがあった。


 トーベ・ヤンソンの童話には、フィリフヨンカという女が出てくる。フィリフヨンカは音楽家であるスナフキンに憧れて、ハーモニカを吹いてみようとする。それはもちろん、素人の演奏だ。自分は、どこかこのフィリフヨンカに似ているようなところがあると、葉子は思った。誰もが隠し持っている才能が、自分の場合にはたまたま表に出てきてしまっただけなのだ。

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