3/7 再び実家にて

3.再び実家にて



 実家のあるS市に帰ってくると、そこは東京とは何もかもが違っていた。まず驚いたのは、エスカレーターのスピードが遅いことだ。


(いくら田舎とは言え、こんな違いがあるなんて)


 と、葉子は思った。この街に帰ってきたのは、母の葬儀以来数年ぶりのことだ。S市の時間は、まるでその時から停止するようだった。もっと言えば、高校の卒業時点から、この街は変わっていなかった。「東京とは何もかもが違う」――あらためてそんなことを思う。


 父の葬儀を済ませると、葉子は一旦は東京に帰った。実家については、空き家の管理業者にその管理を任せるつもりだった。東京での仕事は順調だったし、それを捨てて帰郷する理由はどこにもなかった。


 葉子が実家に帰ることにしたのは、弟がその家に住んでほしいと懇願したからだ。自分たちが子供のころに過ごした家を、そのまま放ってはおけない、と弟は言う。さらに、家を取り壊して土地を売り払うことなどもってのほかだと、弟は考えていた。しかし、今の彼には家庭があり、実家に引っ越すという選択肢はない。ならば、姉の葉子に「自分たちの家」に住んでほしかった。


「どうせ人に教えるだけの仕事なんでしょう?」


 と、弟は言う。弟は父や母とは違って、姉に芸術家になってほしかった。「きちんと作曲も出来るのが芸術家だ」と、弟はかたくなに信じていた。「人に音楽を教えるだけでは、芸術家にはなれない」――それが弟の考えだった。ただ人に音楽を教えるだけなら、東京にいてもS市にいても変わらない。同じことが出来るはず、というのが彼の言い分だった。


(その通りに違いない)


 と、葉子は思う。在学中の期待感は何だったのだろう、と思うほど、彼女の仕事は平凡なことの繰り返しだった。学生たちを前にして講義をする、演奏の指導を行う、彼らの就職先や演奏技術についての相談に乗る。言ってみれば、葉子のしていたのは「退屈な仕事」だった。その退屈さにも葉子は満足していたのだが……


 S市に帰ってきた当初、葉子を襲ったのは強烈な違和感だった。もちろん、東京と地方都市では何もかもが違っている。話す言葉も違う。「自分もこの街で生まれたはずなのに」――東京に長くいすぎたことが、彼女の感覚を変えてしまったのかもしれなかった。


 そして、土地には土地の霊というものがある。そこに住んでいる者たちの生活、生き方、話し方、人との接し方、それらがすべてあわさって、土地の霊というものが出来上がる。それは、ある時はよそ者を寄せ付けないし、ある時は包容力を持ってよそ者を包み込む。


(今のわたしは、この街にとっては部外者なのだろう)


 そう、葉子は結論した。


 家の中にいても、何かが違っていた。それは「淋しい」というのとは違う。むしろ、何らかの力で家の中が満たされている感じだ。ありていに言えば、葉子は自分が幽霊屋敷に住んでいるかのような気分になる。しかし、不思議と父や母の霊魂の存在は感じられない。そのことを葉子は不思議に思う。


 強いて例えるなら、家の中に座敷童が住んでいる、といった感覚だろうか。その名付けようのない感覚に、時として葉子はとまどってしまうことがある。箪笥や本、人形たちが命を持っているのだろうか……そんな風にオカルティックな考え方もしてみた。しかし、そうした安易な結論は葉子を満足させない。「家」は、葉子を拒絶しているのではなかったから。


 仕事は簡単には見つからなかった。まず第一に、S市には芸術系の大学や音楽学校がない。仕事を求めるのであれば、中学校や小学校の講師、あるいは音楽教室の講師などが妥当だったろう。それにしても、音楽の講師という求人は少なく、葉子はS市の環状線に乗ったまま、一日中ぼんやりと仕事のことを考え続けていたこともある。


 当面は貯金と失業保険だけでなんとかなっても、いつまでも無職というわけにはいかなかった。

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