一章 もう一度この世界で
第2話 0 グランシャリオ家
アロガン・グランシャリオは扉の前で立っていた。
セラド大陸の北、アークトゥルス地方。広大な北の大地の中央に、アロガンの生家たるグランシャリオ家はあった。
酪農と貿易で富を築いたグランシャリオ家は、代々強大な魔力を有し、不毛の地と呼ばれた北の大地でもなお栄えている。その名は世界最大の大陸であるセラド大陸全土に轟いており、魔族十二大家を問えば必ず上位に名を連ねる名門だった。
その大家に相応しい壮麗な屋敷は、現在、ある事情により息をひそめるように静まり返っている。賑やかなのは、アロガンの前に聳える扉の向こう側だけだろう。
その扉を睨みつけ、腕を組み、背筋を伸ばしてアロガンは立っていた。威風堂々たる姿だが、眉間に刻まれた皺は深く、険しい。彫りの深い美麗な顔には、時折漣のような痙攣が走っていた。
原因は、分厚い扉の向こうから聞こえる声にある。
「まだ、いきんではいけません!」
「回復術の準備を!」
「魔法で陣痛を緩和しては……!?」
「している! 魔力中和急げ!」
頑強な扉越しに聞こえてくる怒号は戦場のそれであり、殺気めいたものすら伝わってくる。
アロガンは冷ややかに扉を見据えながら、眉を顰めた。この状況をどう見るべきか。出産。それは分かっている。難産であることも最初から分かっていた。なにしろ、生まれる前から世継ぎの魔力は際立っていたので。
(……もつのか?)
『このままでは母体がもたない』――そう言われ、妊娠わずか三か月で急遽魔封じが施された。封じる相手は胎児だ。妊娠三か月目で魔封じを施された胎児など、長い魔族の歴史からみても例が無く、当時は悪影響を懸念する声が高かった。だが結局は母体の衰弱が激しいということで魔封じを行った。そうしなければ、母体もろとも死ぬしかなかったからだ。
しかし、衰弱が収まったのはわずか半月。それからは衰弱と魔封じが交互に繰り返され、最終的に産み月までに十二回の魔封じが行われた。
(あまりにも前例の無い事態だ。本当に大丈夫なのか? 部屋に入ってもう十時間……無事に産まれてくるのか……?)
家族愛が薄いと評されるアロガンでも、流石に心配になってきた。初めての子供であるから尚更だ。
(魔封じの回数を思うに、子の魔力は私よりも大きい。それに反してアルモニーの魔力は少ない。高い魔力親和度を見込んで娶ったが、失敗だったか……?)
魔族の出産は、他種族とは違う意味でも命がけだ。優秀な後継者を望むのは当主として当然だが、優秀な子供を宿す母親の苦労は並大抵では無い。こう言ってはなんだが、それは「胎内に強大な魔力を有する異物を宿し続ける」という状況なのだ。制御を知らず、絶えず放出される魔力に晒され、衰弱する母体は少なくない。
母体の魔力や、魔力との親和度が高ければ優秀な子を宿してもそれほど脅威では無い。だが、妻であるアルモニーは魔力親和度こそ高いが、魔力そのものは下級魔族レベルしかない。そのため、アルモニーもまた、自然のままでは出産を待たずして衰弱死するだろうと言われていたのだ。
(無事に産まれさえすれば、我が家から『次代の魔王』が選出される可能性が高い)
額にうっすらと浮く冷や汗をそのままに、アロガンはそう思った。
魔王とは、全魔族中最強の存在を指す。その出自を問わず全魔族の中から選ばれる存在であるため、たいていは成人した後に頭角を現すのがほとんどだ。
実際、現魔王は両親とも浮浪者であり、魔王の座に就いたのは十七か八の頃。治世は七百年を超えるから、魔王の中でも傑物といっていいだろう。
だがその魔王とて、これほどの魔封じを受けての生まれではない。普通、母体を助ける為の『魔封じ』は、多くとも二回ぐらいなのだ。
(……おそらく、歴代最強の魔王が生まれるだろう)
そう、無事に産まれさえすれば。
そう思うとゾクゾクする。嬉しい、という気持ちもある。同時に、自分は配下として我が子――いや、新たなる魔王の教育に努めるべきだろう、とも。
なぜなら、『最強の魔王を育成する』のは、全魔族の夢だからだ。
(生まれたらすべての者に、次代の魔王への崇拝と、絶対の忠誠を誓わせなくてはならない)
僅かに感じる高揚と、それを上回る冷静さでアロガンはそう思った。そこには父親としての喜びは皆無だ。そもそも、アロガンは肉親の情が薄い。妻のアルモニーに対しても、礼節は守るが愛情というものを抱いてはいなかった。
妻は、後継者を生む母体。それだけの存在。
今僅かなりとも焦燥を抱いているのも、次代の魔王となるだろう存在が五体満足に生まれるかどうかの瀬戸際だからだ。妻を愛しているからではない。上級魔族の結婚とは、そういうものだ。
(――だが、いささか難産すぎるのではないか?)
大丈夫だろうか。
ちゃんと生まれてくるのだろうか。
時と共にどんどん不安になって、アロガンは視線を彷徨わせた。外にはあまり出さないが、心の中は段々と荒れてきている。
アルモニーが子を無事に生んだなら――貧乏貴族である彼女の実家へ、さらなる支援を行おう。そう心に決めた。
されたことはないが、彼女自身の我儘も聞いてやろう。欲しいものも与えよう。そう決めた。
だから――
(なんとしても、無事に産んでくれ)
珍しくアロガンが祈りにも似た気持ちになった時、
バキン、と。
世界の一部が砕けた。
「!?」
その凄まじさに、アロガンは総毛立った。
恐ろしい程の魔力。
途轍もない怨嗟。
それが突如として発生したのだ。
「な、これは……!?」
「旦那様……!」
アロガンの後ろで待機していた家令や、守護者達が反射的に身構える。
アロガンも咄嗟に身構えていた。
それほどの――おそらく、世界すら滅ぼしかねないほどの――恐ろしい怨嗟だったのだ。
――だが、何故だ。
その怨嗟は扉の向こうから感じられる。
まさか、
「アルモニー!」
一瞬の迷いも無くアロガンは扉を開け放ち、部屋へと飛び込んだ。心臓が冷えた。優秀な魔族を排除する為、刺客が現れたと思ったのだ。
眼前には血に染まった寝台。その上に寝ている妻。
腰を抜かした医師と助産婦、メイド達。
そして、恐ろしい程の怨嗟の塊たる――赤子。
「は……?」
間の抜けた声がアロガンの口から漏れた。
ぽかんと棒立ちになったのは生まれて初めてのことだ。
怨嗟は赤子からだ。
何故だ。
生まれた瞬間からなんで恨んでいるんだ。
生まれたくなかったのか。
それとも――もしや、十二回も魔封じを行ったことに怒っているのか。
(え、私のせい!?)
アロガンは即座に死を覚悟した。
赤ん坊は生まれた時から魔王だ。そう思った。同時に自分はここまでだろうと。なにせ魔封じをしたのは自分だ。浅はかだった。魔王の逆鱗に触れたのだ。
見るがいい、この目の前にある憎しみを。
ああ、しかし、優れた魔王を誕生させれたことだけは誇らしい。もう死んでもいい。――いやこれから殺されるのだろうが。本望だ。
茫然と未来を受諾したアロガンの前で、あまりの事態に腰を抜かした助産婦達を押しのけ、メイドの一人がふらつきながら処置を始めた。
赤ん坊の臍の緒をきることも体を清めることもそのメイドが行った。確か二週間前に子供を出産したばかりのメイドだ。アルモニーの乳姉妹だった気がする。
あの怨嗟の塊によく触れれるな、とぼんやりとした頭で感心した。
白い襁褓にくるみ、寝かせ、母体も清める。
一人でだ。他の連中は役に立たなかった。
それは、二週間前に母となった者の強さだったのかもしれない。あるいは、アルモニーの乳姉妹だったからかも。
衰弱したアルモニーに魔力を分け与えた時には疲労困憊していたが、そのおかげもあってかアルモニーも身を起こせる状態になった。
「赤ん坊は……」
「こち、ら、です」
亡霊のようなアルモニーの声に、メイドは引き攣った声で襁褓にくるんだ赤ん坊を抱こうとして――アロガンがそこにいるのに気付いた。
真っ青になった。
「旦那様……!」
跪こうとするのを、アロガンは無意識に軽く手をあげて制した。
どうせこれから我が子に殺されるのだ。立場を取り繕う必要は無い。
愕然としたままの部下を背後に置き去りに、腰を抜かしたままの医師達を素通りして妻の元へと向かった。
せめて褒めるべきだ。よくやった、と。最期の言葉とすれば上々だろう。
だが、その前に――
「見せてくれ」
子を。
新たなる魔王を。
どこか達観したような静かな表情のアロガンに、違和感を感じたのかアルモニーは僅かに首を傾げる。だが、すぐに赤ん坊へと手を伸ばした。そこに我が子への忌避は無い。
この凄まじい呪詛めいた気配を全無視した動作に、アロガンは初めて妻に敬意を抱いた。自分は良い妻を得ていたらしい。
両親へ手渡すため、メイドは赤ん坊を抱く。真っ青なのは怖いからだろう。だが手つきは丁寧だ。震えているが、それは仕方ない。
そうして、ふと気づく。
赤ん坊は、生まれてから一度も泣いていない。
周囲に憎しみを振りまきながら、一度も声をあげていない。
死産で無いのは、赤い小さな手が棒のように動いていることから分かった。ただ、泣かない。
傑物か。
異端か。
――いや、化け物か。
だが、魔王であるなら、それも相応しい。
皆が赤ん坊を気味悪がっているのを感じながら、アロガンは妻と共に決意をもって生まれた赤ん坊に手を伸ばした。
抱えられた赤ん坊が、どうすれば生まれたばかりでこんな目になるんだと思える荒んだ目でこちらを見た。
そう、目が開いていた。生まれた直後なのに。
それでも、視界などほとんど無いのだろう。視線はあわない。
けれど、
「私の坊や……」
アルモニーがそう言った瞬間、赤ん坊は瞬きした。見間違いでは無い。ハッキリと瞬きしたのだ。
相変わらず視線はあわない。
けれど、何かに気付いた気配がした。
驚くべきことに、たったそれだけで怨嗟が霧散する。まるで、呪うことを忘れてしまったように。――母の声に、我を取り戻したように。
作り物のように動かなかった猿顔がくしゃくしゃになった。
小さな体が蠢く。
「ぁ……ぁああ……」
声。
赤ん坊の。
不思議だ。身を切られるような悲痛さがそこにあった。
――まるで、得られなかった大切な何かを希うような。
「ぁあああああ」
突然動き出した赤ん坊に、メイドが引き攣った顔で硬直した。赤ん坊の動きは、暴れ出したといってもいいものだ。必死に落とさぬように抱き直している。
赤ん坊が腕を振る。
こちらに手を伸ばそうとしているのが、なんとなく理解できた。
落とさないように必死になっているメイドから我が子を受け取る。
重かった。
暖かかった。
何故か胸の奥にも暖かさが沁みる。
弱弱しい妻の手に抱かせ、無意識に落ちないよう支えた。
「あああああああああ」
慟哭にも似た泣き声をあげ、赤子が小さな手を必死に動かそうとしていた。もどかしい動きに、なんとなくその拳の中に指を入れてみる。
きゅ、と握られた。
確かに握られた。
その瞬間、今までアロガンの中にあったありとあらゆるものが崩壊した。
魔王?
――どうでもいい。
魔力?
――どうでもいい。
殺されても生き延びよう。
この子供の為に何度でも蘇ろう。
守る為ならなんでもしよう。
なぜなら、こんなにも望まれている。
泣かれている。
必死に求められている。
アロガンは妻ごと我が子を抱きしめた。妻がびっくりしていたが、それもどうでもいい。いや、どうでもよくない。
胸に覚えた感情は熱く、激しく、何と呼ばれるものなのか分からない。
だが、おそらく言葉にすればこうだろう。
今この時、妻にかけるべき言葉は、これしかない。
「ありがとう」
妻がその瞬間に浮かべた異物を見るような眼差しは、その後ずっとアロガンのベスト妻ショットの一位となった。
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