第290話「バレンタインデー」


 翔は学校から帰宅すると家では桜花が待っていた。今日もまた桜花はどこかへと出ている、とばかりに思っていたので、翔は玄関を開けて「ただいま」と言った後に「おかえりなさい」と返ってきたことに驚きを隠せなかった。


「今日は出ていかなくていいのか?」

「はい。今日が本番ですから」


 本番?と首を傾げるが、それに該当する何かは翔の頭の中には現れてこなかった。

 翔は桜花が手を伸ばしてくるので、それに甘えるように手持ちのカバンを渡して、自分は手洗いうがいをする。

 外から帰ってきたらまずそのふたつは外せない。


 そこで冷たい水に触れたからか、先程の桜花が何やらいつもよりも浮ついているような雰囲気を持っていたことに気付き、不思議に思った。

 妙にそわそわとして頃合を見計らっているような感じがした。


「今日は何の日か分かりますか?」

「今日って何か特別な日だったっけ……?」


 リビングに向かうと桜花が早々に訊ねた。

 翔は即答でそう返してしまうと、桜花が少し傷ついた面持ちでしゅんと俯いてしまったので、慌てて「じょ、冗談だよ!」と取り繕った。


 今日は2月14日。

 何かあったか、と振り返るがぱっとすぐには思い浮かばない。しかし、いつもとは違って学校のほとんどの男子生徒達がいつにも増して女子の方を凝視してある者は歓喜し、ある者は絶望に打ちひしがれていた。


 かく言う翔も蛍から「余り物あげる」と一口サイズのチョコレートを貰ったことを思い出した。その場で直ぐに食べてしまったのでいままですっかり記憶から飛んでいたが、2月14日でチョコレートといえば、恐らくは。


「大事な日だな」

「……本当に分かってます?」

「バレンタインデーだろ?」


 翔は内心で「危なかった」と冷や汗を流しながら桜花に少し得意気な声色で言った。

 最初は訝しげな視線を向けていた桜花であったが、翔の口から「バレンタイン」という言葉が出てきた途端に安心したようにため息を吐いた。


 そして、差し出されたのは綺麗に包装された四角い箱。


 いくら鈍い翔でも、これが一体何であるかぐらいは分かる。


「私からのバレンタインです。……受け取ってくれますか?」

「あぁ、勿論。ありがとう、嬉しいよ」


 心の底からでてきた本当の言葉だった。

 翔は生まれてこの方、一度としてモテ期というものがなく、どれだけ見栄を張ってもその綻びが見えてしまうのか、誰一人として翔に告白をしてくる者やチョコレートをくれる者さえいなかった。


 翔本人としてはモテるために、という行動は早々に諦めていたので、あまり気にしてはいない。自分は女の子にモテるために生きているのでは無いのだ、というある意味では悟りを齢数年で開いていた。


 だからだろうか。翔は自分でも気づかない内に、瞳から溢れ出る涙に気づかなかった。


「な、泣いているのですか……?」

「ごめん、何でもないよ。……ごめん、やっぱり」


 初めは自分で抑え込もうとした翔だったが、やはり一人では限界があるのを感じたのか、桜花に抱きついた。そして、翔は「ありがとう……ありがとう」と声を漏らす。

 桜花は思っていたよりも数段高いリアクションのおかげですっかり面食らい、何も言うことなく見守っていたが、翔が抱きついてきた後には、その背中を優しく撫でていた。


「安心しますか?」

「……うん」

「翔くんは甘えん坊さんですからね」


 翔は何も言わずに少し強く桜花を抱いた。桜花はよしよしと翔の背中を撫でながら続けた。


「ここまで反応は予想してませんでした」

「……ごめん」

「どうして謝るのですか。反応がよくて嬉しいですよ、作った甲斐がありました」

「……何を作ってくれたの?」

「それは開けてご賞味あれ」


 もう終わりだと言うように桜花は翔の背中をぽんぽんと軽く叩き、身体を離れさせた。名残惜しいと思いながらも桜花から貰ったチョコレートも気になる。

 翔はその狭間に悩まされたが、桜花の隣にぴったりと寄り添って、開封すればいいのだ、ということを早々に気付いた翔は早速、そのように行動する。


 翔に寄り添われた桜花は目をぱちくりと瞬かせた後にふっと笑みを零した。


「あ、開けるよ」

「どうぞ」


 翔はそっと開封した。

 そこに現れたのはチョコレートというよりはケーキ、のような、しかしその色は漆黒で美しくココアパウダーが撒かれている。


「ガトーショコラです。甘過ぎるよりは苦味の中に甘みがあるほうがお好みかと思いまして」

「うん、好きだよ」


 桜花が翔のために用意してくれたのはガトーショコラだった。翔は自分の好きなケーキの味というものを桜花に話した覚えはない。だが、現にここには好みがある。

 これは桜花だからこそなり得たことなのだろう。


「この家で作ってなかったよね?」

「そうですね。翔くんに作っているところを知られたくなかったので」

「……じゃあもしかして?」

「そうですよ。私はガトーショコラを完成させるために蛍さんの家に通い詰めていました。蒼羽くんと翔くんは何か変な勘違いをしている、と蛍さんから教えて貰いましたけど、これですっきりしました?」

「あ……そうなんだ。てっきり……僕達は桜花が非行に走ったんじゃないか、なんて思って」

「想像が飛躍しすぎです」


 そう言われて確かにそうだ、と思った。

 翔が自分の思考の短絡さ加減に激しく後悔して顔を自分の手で覆っていると、桜花から「口を開けてください」と言われて大人しくそれに従った。


 すると、苦味のある甘い何かが口許に入ってきた。それは桜花が作ってくれたガトーショコラであった。


 好きでたまに市販のものを買ってくることがあるが、それとは比べ物にならないぐらいに緻密に整えられた味、食感、肌触りすべてが翔の好み、そのままだった。


「……美味しい。すごく美味しい」

「それは良かった。お口にあったようで何よりです」


 桜花がふふふと微笑むので翔はガトーショコラを一欠片つまみ、桜花に差し出した。


「一緒に食べよう?あーん」

「あーん」


 翔は桜花にガトーショコラを食べさせた。このような美味しいものを自分だけが独占して食べるということはしたくなかったのだ。むしろ、誰かと一緒に美味しいね、と言い合いながら食べたかったのだ。


 桜花はそんな翔の思いもお見通しなのかくすっと笑って受け入れた。


 甘々なバレンタインデーであった。



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