第182話「砂糖生成機桜花」


 翔と桜花はしばらくそっぽを向いてわざとらしくツンとしていたものの、同じ空間にいるのでいつまでもその状態でいる訳にも行かない。


 どちらともなく和議を結び、この件は一旦、終了という運びとなった。


「……寝不足です」

「そうは言ってもさっきまで寝てただろうに」

「起こされ方がとても……その……」

「それは色々とごめんなさい」

「いえ、怒っている訳では無いのです。ただ、あんまり無防備な顔は晒したくないなぁ、と」


 晒す、なんて使い方は間違っている。翔は喉元までその言葉が出てきていたのだが、寸前のところで口に出ることなく、心の中に沈む。


「可愛かったからいいと思うけど」

「……翔くんはすぐに可愛い、と言います」

「まぁ事実だし」

「……う〜」


 翔が端的に返すと、桜花は歯噛みして翔の腿をぺちっと叩いた。

 叩いたといっても全然痛みはないのだが。


 桜花が可愛いのは周知の事実である。誰が何と言おうと可愛いのである。

 誰もが認める絶世の美女。


 などと、脳内では簡単につらつらとの言葉が並び、むしろ軽薄とさえ思えるほどだったが、実際に口に出ることはなく、直ぐに虚空へと消えていく。


「僕にはもったいないぐらい。毎回ちゃんと釣り合えてるかが心配だよ」

「翔くん」


 翔が雰囲気と話の流れを変えようとすると、その言葉に引っかかりを覚えた桜花が急に翔の頬を親指と人差し指と中指の腹でむぎゅう、とつまんだ。


「らんれひょう」

「翔くんに勿体ないと思われるほど私は価値が高い人間だとは思っていません。あと、私達の間では釣り合う、釣り合わないは問題にしないという約束でしたよね?」


 翔が黙っていると、むにゅーと強く引っ張られてぐりぐりと頭を回転させられる。

 翔が話せないのは桜花が頬をつまんでいるから、というのもあったので出来れば話すことを許される時には離して欲しかったのだが、もう遅い。


「ごめん」

「分かればいいのです」


 ふっと力を抜き翔を解放する。

 桜花は少し不貞腐れているように見える翔にくすっと微笑みを向けると、そのまま翔の髪の毛をもさもさし始めた。


 いつもの頭を撫でる、という行為ではなく、髪の毛をもさもさするというある種特別な行動に翔は抵抗することなく受け入れながらも驚かずにはいられなかった。


「翔くんの髪の毛はかたいですね」

「……まぁ」

「顔が赤いですけど大丈夫ですか?」


 桜花が訊ねてくるが、その原因を作り出したのは桜花自身であることをしっかりと理解しているのだろうか。

 翔は「熱はない」と小さく呟きにも似た声色で返したが、しっかりと桜花には聞こえていたようで「そうですか」と笑顔で受け答えた後に再びもさもさと髪の毛をいじる。


「寝癖とかは出来ないからありがたいけど、髪型を変えられない、というのは少しだけネック」

「髪型を変えることがあるのですか?」

「いや、今のところないけど」


 桜花は「何ですか、それは」と可笑しそうに笑っていた。


 翔が髪型を変えたいと思っているのは恐らく、桜花が思っているものとは少し異なるものだ。寝癖とかは出来ないから、と言っていた翔だが、その毛量が多くなって行くうちに、地毛なのに、まるでカツラを被っているような髪型になってしまうのだ。


 だからこそ、多少融通が効くようにもう少しだけ髪質は柔らかくなって欲しかった。


「……何をしているのですか」

「ご、ごめん。嫌だったよな」

「いえ、そういう訳ではありませんが」


 柔らかい、といえば桜花の腿を考えられないほどに柔和だった。

 桜花が翔の髪の毛を触るのを自由にさせているので翔はどうしても暇を持て余してしまう。翔は無意識で桜花の腿に触れていた。


「……乗りますか?」

「え、いや、その」

「その方が私も髪の毛を触りやすいですし、頭も撫でやすいです」

「頭に攻撃が集中しているんだけど……?」

「気の所為です」


 桜花がぽんぽんと自身の腿を軽く叩き催促してくる。

 翔はとても迷う。このまま誘惑に負けてしまうのか、それともここは踏ん張って男を見せる時なのか。


 翔は悩んでいると、桜花が更に追い打ちをかけた。


「翔くんも寝顔を私に見せるべきです」

「もしやそれが狙いか」

「そうかもしれませんね」


 言うが早いか、桜花はぐいっと思い切り翔を引っ張った。翔は女の子とはいえ急に力を加えられたので、バランスを崩してそのまま桜花の腿へと着地した。


 低反発クッションのような触り心地がよく、気持ちの良い感触に襲われる。そこに人肌の温い体温とミルクのような甘い匂いが合わさって翔の理性を蝕む。


「よしよし」

「僕は赤ちゃんじゃない」

「分かってますよ〜」


 これは分かってないな、とすぐに分かる「分かってますよ〜」だった。

 しかし、翔の抵抗も終わりを告げていた。どうしても前日にあまり睡眠時間が取れていなかったためか、はたまた桜花が齎す心地よい感触に心身共に癒されてしまっているのか、兎も角も翔の瞼はもう少しで閉じてしまいそうだった。


「……ふわぁ」

「大きな欠伸ですね」

「うるさい。少し眠くなったの!」

「寝てもいいですよ」

「えー、寝たら絶対、僕の寝顔を見るでしょ?」

「見ない、という約束はできませんね」


 やっぱり、と毒づく。

 そもそも、男の寝顔などを見て何が楽しいのか、とは思ったのだが、桜花は翔に早く眠って欲しいらしく、触れる箇所が髪の毛からいつの間にか頭全体に変わっていた。


 床屋で眠たくなる現象と似ているのかは分からないが、頭辺りを刺激されると、とても眠たくなる。


「限界が……」

「まだお昼にもなっていませんが、昼食辺りの時間になりましたら起こしますね」

「まだ……寝ない」

「……」

「何も話さないのはずるい!余計に寝てしまうだろ?」

「それを狙っているのです」


 桜花はあっけからんと言い返した。

 翔は何とか粘る。しかし、桜花もあの手この手を使って翔をどうにか寝させようと画策する。


「翔くん聞こえますか?」

「聞こえるけど……。どうして小声?」

「囁かれると眠たくなるらしいので」

「蛍……」


 この妙点を突いてくるのは蛍しかいないだろう。桜花はあまり、耳辺りを攻めてこようとはしない。もしそれをすると、やり返されてしまうことがわかっているからだろう。


 しかし、それを押してきた、ということは。


「どうですか……?ぐっすりと眠れそうですか?」

「安眠どころか永眠しそうな勢いではある」

「永眠はダメです」


 桜花が少し慌てた様子で取り繕う。

 しかし、それを指摘する余裕が無い。翔の身体はもう既に睡眠の姿勢に入ってしまっている。


「ごめん、10分だけ寝かせてください」

「いつまでてもどうぞ」


 もう耐えられない、と翔の脳は判断し、桜花に寝顔を見られてしまうことを許容した上で、このまま寝かせてくれ、と頼む。

 桜花は快諾し、翔はぐっすりと夢の旅へと旅立った。

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