第115話「少し期待してた」


 桜花はぐりぐりと頭を押し付けてくる翔に安心と少しだけ期待していた気持ちの混ざった複雑なため息を吐いた。


 翔は桜花を自分の部屋まで運び、ベッドに座らせると、抱きついてそのまま寝てしまったのだった。


 帰ってきた時から翔の体力はそろそろ限界で、寝てしまうだろう、と予想はしていたのだが、まさかこのタイミングで寝てしまうとは夢にも思わなかった。


「まだ寝てない」

「目を瞑って言われても……」


 翔としては横になっていても、目を瞑っていても、会話が出来れば寝ていないと思っている。


 甘える、といったのはいいものの、何一つどうすればいいのかを分かっていなかった翔は感情の赴くままにある意味で、男になった訳だが、人間の三大欲求には流石に耐えきれなかった。


 食欲、性欲、睡眠欲。


 桜花の温もりが妙に気持ちよくて、心地好くて、いつしか心穏やかになってしまい、気付けば視界は真っ暗になっていた。


 だが、寝てしまっては折角のチャンスが泡となってしまいかねないので、何とか耐えている、というのが現状だった。


 桜花に抱きついて横になっている様子はその先をするつもりがなくとも、同衾していると言わざるを得ない。


 それを知ってか知らずか、桜花はいつもよりもずっと焦った様子で頬を染めて慌てていた。


「どうした?」

「……何もないです」

「何か様子がおかしいけど」

「目を瞑っているのに分かるのですか……」

「うん、まぁ」


 翔は曖昧に誤魔化した。

 何故なら、翔は桜花から伝わってくる鼓動の速さでいつもとは違うということに気がついたからだ。これは目を瞑っていても分かること。


「翔くんがこんなに甘えん坊さんだとは知りませんでした」


 桜花はそう言いながら翔の髪の毛を弄る。

 くすぐったい感情に襲われながらも好きにさせてやった。


「……ダメかな?」

「夕飯の支度もありますし」

「急に現実」

「冗談です。いいのではないですか?素っ気なくされるよりは」

「このまま眠ってしまいたい」


 愛されている、ということを耳から感じながら翔は正直な気持ちをいった。


 桜花は翔がそろそろ完全に寝てしまうのを感じ取ったようで、ふふ、と微笑んだ。


「翔くんの寝顔が身放題です」

「僕の顔で楽しめるのか……?」

「寝ている時の翔くんはあどけない表情をしてますよ」

「……ふん」


 翔は少しも気にならないが、少し癪だったので、桜花との間に顔を埋めて見せないようにした。


「隠れてしまいました」

「巣に帰っただけだ」

「本当ですか?」


 くすくす、と笑いながらつついてくる桜花がからかってくる。

 翔は負けじと朧気な脳内思考で反撃を開始した。


「抱き枕ならぬ、抱き桜花」

「翔くん専用です」


 ノータイムでカウンターをくらった。

 眠いけど寝られない。まだまだ話し続けたい。そんな至福の時間だった。


「翔くんは可愛いですね」

「うっ……何か複雑な気分だ」

「褒めてますよ」

「からかいも入ってるだろ」

「少しだけ」


 褒められることについては悪い気はしない。しかし、男として聞くと「可愛い」というのは果たして褒められているのか、と疑問に駆られる。


 どうせならば「かっこいい」や、「イケメン」と言われたい。後者は無理だろうが。


「湯たんぽがからかってくるよ〜」

「夏には無用の長物ですね」

「ごめん逃げないで」


 今の桜花を物で表すと確実に「湯たんぽ(擬人化)」である。

 だが、季節が悪く、桜花が逃れようとした。必死にホールドしたため、逃げられることは避けれたが、あの一瞬で途轍もない寂しさが渦巻いていた。


 これからも離れることはないはずなのに。

 翔は寂しさを感じていた。


「でも、そろそろ夕飯の支度が……」

「出前を取ろう?」

「そんな贅沢はできません」


 桜花がぴしゃりと言うが、諦める素振りを見せない翔。桜花は翔が目を瞑っていることを再度確認し、額に口付けた。


 湿った、けれども柔らかい何かが額に当てられ、翔は当然の如く戸惑った。

 何をされたかなど確かめなくともわかる。桜花が額にキスをしたのだ。


 そう思った瞬間、今度は口を塞がれた。

 浅く、欧米でなら挨拶程度であろうキス。


「では、私は準備してきますね」


 するりと、抜け出した桜花は急ぎ早に階段を駆け下りていった。


「……反則だ」


 桜花に惨敗した翔はそう呟くしかなかった。


 唇に指を当て、微かに残った感触を確かめる。優しさの中に緊張が感じられたキスだったように思う。


 突然のことに心臓は張り裂けそうな程に鼓動を早く刻み、頭に血が上ってぼんやりとしてくる。


 ラッキースケベで倒れる主人公の気持ちが少しだけわかったような気がした。


 あの一瞬で感じていたはずの寂しさは全く消えてなくなっていて、むしろ心には先程の残滓が残っていて、翔は嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちだった。


 たった一ついえることは、眠気はさっぱりなくなってしまった、ということだけだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る