第95話「思い出の海」
一つ、昔話をしよう。
それは桜花がまだ今のような口調ではなかった時の話だ。たった十数年の事ではあるのだが、まだ高校一年生の翔達にとっては遠く昔の事のように感じる。
今の桜花がどうして丁寧な口調になってしまったのか。
その直接的な理由を翔は知らない。だが、翔と別れてから何かあったのだろうということぐらいは想像がつく。
翔が向かった所はその思い出の象徴とも言える海だった。
当時、幼馴染として四六時中一緒にいた翔と桜花は、よく、家族で海へと遊びに来ていた。二人仲良く手を繋ぎ、海水浴を楽しんだり、浜辺で貝殻を探したり。
どこに行くのも一緒だった。
まだ幼かったとはいえ、きっとその時も既にあったのだろう。恋という感情は。
いつも気付けば傍にいてくれる幼馴染の女の子。惚れない方がおかしかったのかもしれない。
そして、翔は惚れた。今も昔も同じように桜花へと言うことはなかったが、その分秘めた思いは日に日に大きくなっていた。
触れたい、という思春期の思いはなく、もっと一緒に遊びたい、時間を共有したいという思いの方が強かった、と記憶している。
触れたい、と思う間もなくぴったりと密着して遊んでいたからかもしれなかったが。
色々な所へ行った。沢山遊び、思い出を作った。泣いて泣かされ怒られた。いい思い出だった。
しかし、感傷に浸る間もなく翔は今までそんな大切な時間を忘れていた理由を思い出した。
桜花が何かの理由で引っ越すことになったのだ。まだ幼かった翔にはきっと曖昧に濁したような説明をしたのだろう。
その頃には多少の分別はついていた翔は両親が本当のことを言っていない、ということを何となく察していた。とはいえ、深く聞き込むこともしなかった。
だから、本当の理由は分からない。
きっと嘘を言っているに違いない、などと希望的観測をしていた程だった。
しかし、それは嘘でも何でもなく、本当だった。
それに気付いた時にはもう既に手遅れで、桜花の姿はなく、いつも翔の中にあったあの暖かい日常は突如として消えてなくなった。
翔は荒れに荒れて、両親も呆れてしばらく口を聞かなくなるほど泣き喚いた。
そして、翔はこの苦しい思いに終止符を打つため、これまでの楽しかったことも全て記憶に蓋をして忘れていたのだ。
それが今まで翔が桜花を幼馴染として見れなかった本当の理由であり、昔話だ。
「久しぶりの海だな」
「ここは……!」
翔は桜花の手を引きながら嘆息する。
記憶の扉を開くのに途方もない時間がかかったが、今の翔には桜花との懐かしい思い出も全て覚えている。
桜花もこの海がどのような意味をもたらすのかを察したらしい。
「懐かしい思い出だろう?ここで沢山遊んだ」
「海でも遊びましたし、貝殻を拾いもしましたよね」
桜花は覚えていたようで、嬉しそうに思い出を話す。
「翔くんがヤドカリを連れて持ってきた時には思い切り逃げましたけど」
「桜花は昔から生き物が苦手だよな」
「翔くんはそれをわかってやってましたよ」
「悪戯好きな少年だなぁ」
「自分のことですよ」
翔がすっとぼけると桜花がすかさずツッコミを入れる。それからどちらともなく肩を揺らして笑い合った。
「もう入れるかな」
もう6月も後半に差し掛かり、そろそろ海開きがされる頃だろうか。
「入りますか?」
「なら、ちょっとだけ」
桜花も珍しく止めることはしなかったので、翔は靴下を脱ぎ、海に足首まで浸かった。ひんやりとした海の水が気持ちいい。
手招きすると桜花も少し躊躇いがちに入ってきた。
「冷たいですね」
「これぐらいの方が気持ちいいよ」
翔はこれから盛大に告白しようとしているせいか、体温の上昇が激しく、海水温がちょうど良かったのだが、桜花には少し冷たすぎるようだった。
「ごめんなさい」
「うん?」
唐突に謝られて、翔は動揺を隠せなかった。今から告白しようとしていたことがバレて断られてしまったのかと勘違いしそうになった。
「翔くんの意志を確かめる前にあのように公言してしまって……」
「いや、それは別に気にしてないよ」
「そうなのですか?てっきりその事でこうして学校を抜けて海へ来て……怒られるとばかり……」
今の翔はきっと呆けた顔をしていることだろう。そのぐらいのことで翔が怒るはずがないのにそれを気にして、何とかしようと頑張っている桜花がいじらしい。
「でも、そうしないと翔くんはわかってくれなさそうだったので……」
「う……」
確かにそうだったので何も言い返せない。好いてくれればいいな、と思ったことは幾度となくあるが、本当に好かれているとは思っていなかったのだ。
控えめに顔を上げて、奇しくも下から見上げられるような形となってしまった。
その瞳は何かを期待しているように思えて、翔は意気込みのために深呼吸をした。
「あー、とその……。桜花は僕のことが好きなのか?」
どくん、と心が跳ねる。自分に対する好意を聞くなんて、自意識過剰にもほどがある。
「何度も言いますよ。私は翔くんのことが好きです。幼馴染とか隣の席とか、そういうものは関係がなく、一人の異性、男性として好きです」
面と向かって言われ、自分で聞いたにも関わらず頬が熱くなるのを感じた。全身が痺れてしまったかのように硬直していると、桜花が苦笑した。
「別に今すぐに返事が欲しいとは思っていません。私の覚悟を知って欲しかっただけなので」
口ではそう言うけれども、表情に少し陰りが入ったのを翔は見逃さなかった。
(いつまで僕はこのままでいる気なんだ!)
翔は叱咤激励をかける。
(あの時の辛い思い出をもう一度記憶に戻してしまったのならば、今度はもう離さないように考えろ!)
そして翔は一世一代の大勝負に出た。
「僕はクラスメイトが言ったように何も持ってない人だよ。桜花と比べれば本当に何も無い。釣り合ってないって言われても仕方がないって思うほどだよ」
「それは違います!翔くんには……」
「桜花がそう言ってくれるのは嬉しいよ。桜花が居てくれるだけで毎日が楽しかったし、幸せだった」
「翔くん」
「ずっと前から桜花のことが好きでした。今はその時以上に。だから……」
早くなる鼓動を必死に抑えつけようとしながら翔は言葉を紡ぐ。
「僕と付き合ってくれ」
澄んだ瞳が膜を張ったように、だがそれは決して零れることはなく、ただただ翔だけを映していた。
その瞳を隠すように目を細めて微笑む桜花。
「はい、喜んで」
桜花はそう返事をしたあと、よろけて翔の胸の中へと収まった。図らずも抱き合う形となってしまったふたりは、恥ずかしさと嬉しさの半々で笑いが出る。
海を照らす夕陽が美しい。
その海の中で長い年月をかけ、幼馴染の二人は互いの想いがようやく向かい合い、結ばれた。
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