第66話「怖かったです」


 少し急ぎで旅館へと戻った。

 機転を利かせて追ってこられないようにしたが、あそこにいつまでも留まっているわけにもいない。またいつばったり出くわしてしまうか分からないからだ。


 ずっとあの時から握ったままの翔の左手は離さない、という主張が大きく見えていた。


「お帰りなさいませ」

「ただいま帰りました」


 あの短時間で顔を覚えてくれていたのだろう。女将さんが出迎えてくれる。


 その時に「まぁ」と微笑んだのは翔と桜花が手を繋いでいたからだろうが。


 翔がもう充分だろうと思い、手を離そうと力を抜いた。しかし、抜いたのだがその手が離れることは無かった。


 桜花を見ると、絶対に離さない、とばかりに翔の手を掴んでいた。


 愛らしい仕草に微笑みが漏れる。


「とりあえず部屋に戻ってゆっくりしよう」

「連れて行ってください」

「仰せのままに」


 大袈裟に言うと繋がっていない方の手でぺし、と軽く叩かれた。

 女将さんの申し出をやんわりと断り、翔は桜花をエスコートする。


 ただ連れていくだけなのだが、少々気障な台詞を吐いたものだな、と自傷する。


 部屋へと向かう道中に桜花との会話はなかった。


 ぱたん、と部屋の扉が閉まる。


 何度見ても、ここは二人で泊まるには広すぎる。例えの話だが、両親、更にはカルマと蛍の六人で泊まるにしても充分の広さがある。


「父さんの懐は大丈夫かな……?」


 恐らく桜花大好きな梓が有無を言わさず迫ったに違いない。梓は修斗に弱いが、また修斗も梓には弱い。自身も海外へ飛んで行ったのにこちらにも、となると考えたくもないような量のお金が我が家から消え去っていったのは明白だ。


 なぁ?と桜花の方を振り返って固まった。


 何故なら、桜花が静かに涙を流していたからだ。


「お、桜花……?」

「いえ、これは……」


 翔が覗き込むと桜花が目に見えて慌て始めた。涙が流れているとは気付いていなかったらしい。


 翔は少々強引に手を引き、居間に座らせた。


 泣いた理由は一つだろう。

 それは大人数の男に絡まれた事だ。翔の家に来るまでの桜花をほとんど知らない翔は今日のが初めてなのか、そうでは無いのかは分からない。だが、二回目以降だろうとしてもあれに慣れる訳はないし、迫られると恐怖を覚えるのは当然のことだろう。


 扉が閉まり、二人きりだという完全な空間ができたことで安心して涙が出てしまったのだろう。


「やっぱり怖かったんじゃん」

「怖くないです」

「涙出てるぞ」


 指摘すると桜花は自分で目元を確認して、その指が湿っているのを確認した。


「泣いてません」


 はずだったのだが、桜花の意固地がまた出てきてしまったらしい。


「ご冗談を」


 翔は笑いながら桜花の目元に手をやり、涙を拭ってやる。明らかに水の感じがあるし、目元も潤んでいるので泣いているのだが、本人は認めたくないようだ。


「これが証拠だ」

「翔くんは意地悪です」

「うぐっ」


 わざと意地悪くして、桜花に気負わせないようにしたかったのだが、こうして桜花に言われるとダメージが大きい。


「でも、翔くんが励ましてくれようとしてくれているのは分かります」

「そうか、なら良かった」


 どうやら本気で言った訳では無いらしい。

 翔は安堵した。


「あのー、何と言うか。……泣きたい時は泣いた方がいいぞ」

「翔くんって口下手ですよね」

「悪かったな」


 ふふ、と軽く笑った桜花。

 翔はその笑みの中にまだ寂寥感があったことを見逃さなかった。


 桜花は何でもできるが故にどうやら抱え込んでしまうらしい。


 翔は頼って欲しかった。桜花にとって翔はそこまで頼りになる存在ではないのかもしれない。だが、それでも頼って欲しかった。

 ここに居るのは翔だけで、家に桜花が来た時から四六時中隣にいるのは翔だ。


 いい所も悪い所も口には出さないが一緒にいれば分かってくる。


 翔は一気に溢れたこの感情をどうしたらいいのかわからなかった。

 そして、気付いた時には桜花を抱き締めていた。


 桜花は驚き慌てた口調で、


「翔くん?!」


 急に抱き締められ、驚かない方がおかしいだろう。

 直ぐに払い除けられるかもしれない、と思ったが、抵抗の意思は感じられなかった。


「わざとらしく明るく振舞おうとするなよ。僕がどれだけ桜花と一緒にいたと思ってるんだよ」

「……」

「泣きたい時は泣け。僕の前でぐらい素直でいてくれ」

「うん」


 俺様口調は気にしない事にした。口調はあれどもこれも立派な翔の思い。

 口にして心の扉にノックするのが大事なのだ。

 その翔の思いが通じたのかは定かではないが、桜花にちゃんと届いたらしい。


「少し……貸してください」

「あぁ」


 何を、とは言わない。わかりきったことをこの場で聞くほど翔は馬鹿ではない。


「……見ないでくださいね」

「あぁ」


 桜花が翔の背中に手を回した。身体がさらに密着していく。

 啜り泣く声は桜花のものだ。


 いつまでも嘆くことなく一人で抱え込んできた桜花が強引したからというのもあったが、ようやく人に頼ってくれたことに対して翔も桜花の小さな背中を抱き締めた。


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