第二十四章『歩みを止めなければ』1

「だーかーらー、《猟奇博士》が人形に道化師を突き飛ばさせたんだって」

「その他には地下に誰もいなかったんですか?」

「俺と楓姉ちゃんと特高野郎だけだったって! 何回言わせんのさ」

 椅子の上で胡坐あぐらをかいた市谷が机を揺すって射扇いおうぎにぶうたれる。

「こればっかりは現場にいた者の言葉を信じてもらうしかないですよ」

 と坂下が付け加える。しかしそう言いながらも、彼自身は『〈地下炉〉事件』とでも呼ぶべき一連の出来事に不可解な点が残っているのを感じていた。


 東部市中央駅の北側で保護した老人の行方だ。

〈軍団〉に探索と再保護を命じていたものの、結局どこを探しても見つからなかったという。

 いくら〈軍団〉とはいえ、広い帝都で姿を隠した者を探し当てるのには限度もある。

 とはいえ、事件に関わっていた者を見逃すのは探偵にとって失態である。

 そして不可解なのは老人の行方だけではない。

 保護に関してはもっと奇妙な結果を残していた。

 一時いっときは老人を保護したはずの軍団員が、その老人のことをまったく覚えていなかったのだ。彼らは「誰か」を保護する命令を受けたのはしっかりと把握していたのに、その保護対象が「誰」なのかを完全に忘れていたのである。

 まさかそのようなことがあるだろうか。

 怪しんでみたところで、坂下には彼らが嘘をついているようには見えなかった。

 それで得をすることなどひとつもないのだ。

 追加調査をするかどうか。坂下は坂上にうかがいを立ててみたが、《軍団卿》の司令塔となる彼女は、案の定というべきか、済んだ事件の関係者保護を認めなかった。

 いまは坂下が個人的に動いているが、老人の行方はようとしてつかめない。

 まるで彼に至る〈扉〉が閉ざされてしまったかのように。


「地下でのことはわかりました。それでは南海みなみ楓がイノダコーヒー東部市駅店に入った時のことについて、もう一度詳しく聞かせてください」

「ぇえっと、ですから、その、誰とも入っていなかったんです」

 横柄な態度の市谷とは対照的に、楓はすっかり縮こまっていた。

「本当に、本当なんですね?」

 射扇は念を押して、最初に楓から取った調書に目をやる。

 日進にっしんが書いていたものだ。荒い筆跡で『イノダコーヒーにて時間つぶす。個人間のやり取り。助言時計塔東部市駅煤煙慣用句暖冬戦前』と内容が羅列されており、彼女が誰かに会っていたという痕跡が確かに残っていた。

 射扇も最初の取り調べの中でその話を聞いたのをしっかり記憶している。

 しかしである、この取り調べ直前に部下をってイノダコーヒーの女給に改めて確認を取らせてみたところ、『やっぱりあの時は女性のお客様が一人でお目見えされたようでした』と訂正したという。

 彼女の連れ添い人を見た者は誰もいないのだ。

「その後はなぜ路地裏に入ったのですか?」

「あれは……、なんででしょう」

 調書には『道案内に従う』とある。

「『道案内に従う』とありますが、それを覚えていないのですか?」

「……はい」

 しつこく聞かれた楓も間違いがないか先日の記憶をたどる。

 だが、いくらたどったところで、喫茶に入ったのは自分だけであったとの記憶しかないのである。そもそも見知らぬ人を誘って、あるいは初対面の人にいきなり誘われて店に入れるほど社交的な性格でないのは、彼女自身が一番よく知っている。


 ――かといって私が一人で喫茶に入るでしょうか

 平素の楓はそんなふうに時間を潰そうとはしない。東部市駅に出入りする列車や駅前を走る市街鉄道あたりをぼんやり見るのを選ぶだろう。その方がお金を使わないで済む。

 なのに、喫茶に一人で入ったのははっきり記憶しているのだ。そこだけしっかり補強したように、前後の曖昧な部分から浮き出て覚えている。

 確かに喫茶に入った一応の説明はできる。

 帝都に無事着いたという安堵が、緊張で凝り固まっていた気持ちをほぐし、普段と違う行動をとらせたのだろう。つまりあの時は少し浮かれていたのだ、と。

 ――やっぱり一人で入ったのだろう、私は


「一人で入りました。道案内については、すいません……、記憶にありません」


 素直に言う楓の返事に、射扇はふっと息を吐いて、「わかりました」と神妙にうなずく。

 南海楓は東部市中央停車場で誰とも会っていない。

 手がかりが少なすぎて、いまのところはそうだったと追認せざるをえない。

 調書だけを証拠とするのは危険だ。こんなものはいくらでも捏造できてしまう。後からでも確認できる第三者の記録が無いといけない。

 これから先、追認せざるをえないこの状況を覆せるだろうか。

 ――いや、ないな……

 帝都では警察も特高も一つの出来事にかかずらってはいられない。他の事件に飛びこめば、彼女の記憶違いなどあっという間に霞んでしまうだろう。

 日進が記した調書は、そういう捜査官がいたという事実と共に、事件簿の奥でこの先ずっと眠りつづけるのだ。

 ――事実上ここで打ち切りか


 射扇は〈巫機構かんなぎ〉帝都支部が提出してきた記録に目を落とす。

 支部長の銀嶺ぎんれいは〈巫機構〉の方面本部や帝都の入管に確認を取り、南海楓は疑う余地なく初めて帝都に来たという証拠を揃えて特高に提出していた。また坂下探偵も、彼女が〈黄金の幻影の結社〉と一切の関与を持たないと手を尽くして調べあげた。

 本人が「誰か」と会っていたという証言を後から撤回し、まったく記憶していないという部分には不審が残るが、それでも議員の腹芸に比べれば可愛い方だ。

 また、その他の証拠は全て彼女の潔白を示している。

 となってくると、特高としてはもうそれ以上追及する手立てがない。

 一個人の記憶など、その他の証拠が示す力の前では無意味だ。


 楓を被疑者だと疑う急先鋒だった日進も、特別高度警察隊にはもう在籍していない。

 いまの彼は射扇よりも一つ上の階級になっていた。

「あの、射扇さん、例のご遺族の件についてですが」

「楓姉ちゃんまだそんなこと言ってたの?」

 思わず市谷が口を挟む。楓は日進の遺族に会いたいと射扇に申し出ていたのだ。

 市谷はそういう楓の姿勢は嫌いではないが、とても甘くて感傷的なものだとも思ってしまう。帝都の犯罪に馴れてしまった特高や帝都警察、探偵とその関係者にとって、楓の優しさは嫌味にも聞こえてしまう。

「最後に私が関わっていたのは何かのご縁だと思うんです」

「返事は変わりませんよ。捜査官の情報をお教えすることは一切できませんので」

 これまでもそうしてきたように、射扇はきっぱりと断る。

「ならば、せめてこれを射扇さんからご遺族にお渡ししていただくのは……」

 楓は〈I.S.P〉と箔押しされた徽章きしょうを取りだす。いつの間にか握りこんでいたものだ。何かの拍子に日進の衣服から剥がれ落ちたものとみられる。

「それも再三お断りしている通りです。遺族に渡して何になるというのですか。お悔やみを伝えるのならば、それは彼が属していた特高の者がやるべきですし、痛々しい遺品を渡したところで、余計に殉職を連想させてしまうだけです。それに貴方は彼のことを何も知らない。遺族の方とは面識すらないでしょう。貴方はなんらかの義務を感じているようですが、私にはただの感傷にしか見えません。そして、そういう感傷を我々特高にかける必要はまったくありません」

 淀みなく言われた楓は拳を握りしめ、震える唇を強く噛みしめた。


『安っぽい同情だろ、そういう気遣いなんて。かえって迷惑だぜ』


 地下牢で市谷に突き刺された言葉が駆けめぐる。

 これも惻隠そくいんの情にすぎないのか。

 優しさなど無意味なのだろうか。

 押し黙る楓を畳みかけるように射扇が言う。

「本件へのご協力、本当にありがとうございました。全ての取り調べは済みました。これ以上ご迷惑をおかけすることはありません」

 言うべきことはもう無い。そう告げていた。

 射扇と市谷の言葉を反芻はんすうし、楓は落ちこむ。

 ――自分は帝都に向いていないのかも……

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