第二十章『力量の差』2

 自分はどうしたいのか。

 それならば楓の意見は決まっていた。

 普段は自分から意見するのをはばかり、押し黙る楓だが、他人を救える可能性を前にして尻込みするほど臆病でもなければ、気弱でもなかった。


「ちょっとでも見知った日進にっしんさんだから助けたい。その思いがないと言えば嘘になります。それに私のせいで彼がこんな目に遭ったのではないか、という罪悪感もあります。ですが、なんであれ、元は誰であれ、人ならば助けたいという思いが、私には確かにあるのです。最初から人であると知っていたのならば、私は鉄砲を手にしていません」


 そばで聞いていた市谷からすれば、あまりにも現実感に乏しい回答だった。

 要するに楓姉ちゃんの自己満足じゃないかと。

 なにか大きな動機があるわけじゃないんだと。

「特高野郎に限らず〈結社〉はもともと人をかっさらって人形を生み出してんだよ。楓姉ちゃんが言ってるのは、そういう人たちをいちいち全員助けたいってことにつながるんだぜ? そりゃ無茶な相談さ。帝都は横暴で理不尽なんだよ」

 市谷が呆れ気味に言う。帝都の事情を知らぬがゆえに口にできる楓の言葉は、ほとんど誰からも顧みられなかった市谷の過去を何度も刺していた。


 ――楓姉ちゃんは道義的に正しいことをしようとしてるんだろうけどさ

 たとえばこれが社会的立場からくる義務感を覚えた華族や、己の道徳的人間的な正しさを大衆に示そうとする弁護士や議員ならば、市谷はぼろくそにけなしただろう。そういう連中の多くは彼が嫌う偽善の臭いを漂わせているからだ。

 ところが楓の場合には、道義的な正しさがふるわれて当たり前と心から思っている節があって、そのため市谷はあまり強く言えない。


「たとえ誰であっても、人形の元となった人をお助けできるすべがあるのならば、それに託してみたいです。もちろん私は自分の身を護るので精一杯で、助けるなど偉そうに言える実力もありません。ですが――」

 と、楓が坂下の顔を見据える。

「人形を圧倒できる坂下さんならば、人形となった人を救える可能性を切り拓けるのではないか、そう思ったのです」


「自分ができないからって、兄貴にやってもらおうってんだな」

「それは……、はい」

 市谷の指摘もっともである。

 本当は自分がやりたいけれど、力不足でとても難しい。

 だから力のある他人にやってもらおう。

 彼女は厚かましくもそう口にしているのだ。

 ――昔の俺みてぇだな、坂下の兄貴にすがって……

「人形になっちまった時点でもう手遅れなんだって。治す手立てなんてありゃしない。だいいち探偵ってのは事件を解決するのが仕事で、姉ちゃんのそれは医者の仕事だ」


「そうだね」

 ここまで黙って聞いていた坂下がようやく口を開く。

「人形を人間に戻す方法は見つかっていない。いや、誰もそんな方法を探そうなんて考えたこともないんじゃないかな。人形になった時点で死んだも同然なのだから」

 我が意を得たりと市谷がしたり顔でうなずく。

「だけど、過去に人形から人に戻った事例が、たったひとつだけ確認されている」

「え?」

「本当ですか?」

 絶句する市谷の隣で楓が鼻息を荒くした。

「正確には〈結社〉の制御から人形を解放し、人間社会で生活を送れるようになったというものです。あくまで生活ができるだけで、肉体機能を完全に取り戻せたわけではありません。ですが人形であった者が、人間としてほぼ不自由なく暮らせるようになった事例でもあります」

「そ、そんな話、聞いたことねぇよ!」

「ああ、知る者は限られているからね。だから君もどうか口を慎ましやかに」

 秘密を明かしているとは思われぬほど軽い調子で、坂下が口をふさぐしぐさをした。

「では、日進さんを治せる可能性はあるのですね?」

蓋然がいぜん性は限りなくゼロに近いといっていいでしょう。回復した事例とて、治そうと意図して起こったわけではありません。偶発的な出来事がもたらした一例です」

 坂下は楓に理解を示しながらも注意をうながす。

「絶対に彼を元に戻せるとはお約束できません」

 楓は「はい」とうなずく。

 可能性があるのならば、蓋然性が低くても賭けたい。

「い、いいのかよ兄貴、そんな安請け合いしちまってよぉ」

 坂下としても圧倒的な力の差を見極めた上だからこそ請け負えるのであった。

 仮に猟奇式人形〈喜色〉と坂下の実力が伯仲していたならば、立ち回るのに必死で楓の申し出を受ける余力などなかっただろう。


 坂下は改めて猟奇式人形を見つめた。

 ――山城さん、八瀬やせさん……

 かつて救えなかった大切な人たち。

 彼らへのせめてもの手向けになると信じて、坂下は楓の思いを汲んでやりたかった。

 改めて軽く拳を握り、朝の挨拶でもするかのような軽やかさで人形に話しかける。


「君と僕には力量の差がありすぎる」


 右の拳が仮面の正面に打ちこまれる。

 鉛筆が折れるような軽い音が鳴った。


「君の不幸は僕に当たってしまったことか」


 素早く引かれた拳がまた繰り出される。

 仮面の右側、軽い音が鳴るのは同じ。


「それとも猟奇博士の元にいることか」


 三度目も右の拳、仮面の左側。

 打たれる場所だけが変わってまた同じ音。


「その不幸を乗り越えて君が解放されるのか、それは僕にもわからない」


 四度目。

 一方的な攻撃を受け、いよいよ猟奇式がおらぶ。


「ただ、この一撃がその一助となることを願う」


 五度目。

 拳が仮面の上部にめりこむ。


 猟奇式の叫び声は紛れもなく日進のものだった。

 こんな変わり果てた姿になろうとは、あのとき誰に予測できただろう。

『帝都は横暴で理不尽』という市谷の指摘は当を得ている。

 三歩先は蒸気の中、未来を見通せるものなどいない。


 坂下は思い返す。

 射扇と坂下が、いや、特高と探偵が懇意にしているのを快く思わない若い捜査官を。

 彼には何度か突っかかられた記憶がある。

 だからといって苛立ちや敵意を向けた覚えはない。

 探偵として数年でも特高と付き合えば、そういった傾向を持つ隊員には何度か出くわすものだ。対抗意識や反発心があるのは悪いことではない。

 それがひとつの原動力となって、特高を士気の高い組織にしているのは事実だ。

 

 と、諸々を思い浮かべる坂下であるが、さしたる感慨をいだけなかった。

 そうした坂下の態度は、彼が中立を保とうとする時のものと同じだ。


 ――僕は、彼に個人的な感情をいだいてはいなかったようだ


 六度目、拳を打ちこむ場所は一巡して仮面の正面に戻っていた。

 木枝を勢いよく踏み抜いたような気味良い音がして、仮面に入っていた無数のひび割れが全てつながっていく。


 そして、〈喜色〉の仮面が砕け散った。


 それでも坂下は攻撃を止めず、人形の右肩、左肩、足の付け根と連続して攻める。

「おい……、おい! 猟奇式よ、反応せんのか?」

 猟奇式は腕をだらんと垂らしたまま棒立ちになり、いいように殴られている。

 もはや《猟奇博士》の呼びかけに反応さえしない。

 叫びもいつの間にか途絶えていた。


 ――まさか、わたしは失敗してしまうのではないか


 いまさらながら博士は焦りはじめる。


 ――たった一人に、我が計画が覆される?


 頭の中を驚愕きょうがくの二文字が馳駆ちくする。


 ――この《軍団卿》かもはっきりわからぬ若造に?


 せめて計測結果だけでも結社に持ち帰らなければならない。

 博士は驚愕の文字をどうにか隅に押し退けて、必死に知恵を絞る。

「そ、そうだ……、そういえば《軍団卿》は女じゃなかったか……」

 考えがそのまま口に出る。

 彼が床屋で読んだ雑誌に載っていた《軍団卿》神楽坂かぐらざか和巳かずみの点描写真は確かに女だった。

 しかし目の前に立っているのは明らか男ではないか。

「お前は《軍団卿》じゃないだろ……、そうだろ? な、何者なんだ!」


南海みなみさん、彼はもう動けません。足と腕とを完全に砕きましたから」

 猟奇式を指さしてさらりと告げた坂下の足が、いよいよ《猟奇博士》に向く。

「僕が《軍団卿》かどうか、それはこの場ではさしたる問題ではないよ」

 ふふ、と坂下は肩を震わせてほほ笑む。

「そういうのはしかるべき場で語ろう」

「や、やめろ……」

 完全に腰が引けてしまっている《猟奇博士》はその場を一歩も動けず、いやいやと首を振った。にもかかわらず、坂下は周囲に気を配りながら一足ひとあしずつ慎重に進めていく。

 まだなにかを警戒しているようだ。

 坂下は博士の前で声を大にして、

「《無銘道化師》! どこかで見ているのかい? これ以上はもう待たないよ」

 用心しいしいの歩みは、肝心なところで場をひっくり返す相手を警戒してのもの。

「そ、そうだ、まだ道化師がいるぞ。わたしに手を出すな、出すなよ?」

 少しでも引き延ばせるのならばなんでもいいと、博士はでたらめを口にするが、

「道化師なら博士がその人形に命令して突き落とさせたよ」

 と市谷があっさり暴く。

「くそっ! 死んでなお役立たぬ気狂いめ!」

 自分がしたことを棚上げして憤る博士だが、怒りをぶつける相手はもういない。

「こ、こんな羽目になるとは……」

 肩を落とす博士を横目に、道化師を飲みこんだ炎噴き出す穿孔せんこうが勢いよく音を立てた。

 かと思えばそれきり火勢が急速に弱まっていき、周囲を明るくしていた照り返しも火勢の衰えと共に弱まっていく。

「な……? これ以上なにが起こるというのだ……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る