第二十章『力量の差』1
砕けた壁の向こうから飛び込んできたそいつは、勢いを損なわぬまま一気に猟奇式人形に近づいて、これをやすやすと殴り倒してしまう。
「な、何が起こったというのです!」
《猟奇博士》は我が目を疑った。
あまりに想定外の出来事である。
彼の計算では、彼の予測では、彼の見立てでは、いかなる者であろうと猟奇式人形を殴り倒すなどありえなかった。たとえそれがどのような不意打ちであったとしても、だ。
強烈な自負から来る楽観が、彼に万が一の事態を想定させなかった。
ゆえにこのような不慮も認めたくはなかったのである。
――番狂わせをもたらす道化師はすでに舞台を降りたはずだ! なのに、こんなことが起こるのだとすれば……、だとすれば……、それはっ!
《無銘道化師》が呼んだという碩学級探偵。
犯罪者にとっての天敵。
好敵手という物好きもいる。
が、《猟奇博士》の場合にはまったく当てはまらない。
「まま、まさかお前が碩学級探偵の《軍団卿》だというのですか!」
怒号は怯えを含んでいた。
絶対の自信があったとしても、本物を前にしては驚きと不安を隠しきれない。
「さぁ、どうだろうね」
「兄貴っ!」
闇夜に灯火、市谷は黄色い声をあげた。
一方の博士は赤い顔をしている。
「どうだろうね、じゃなぁぁい! お前自身のことですよ! お前が《軍団卿》かどうかを聞いているのです!」
「そうだとも言えるかもしれないし、そうでないとも言えるかもしれない」
のらりくらりとした坂下の態度に、博士はますます顔を赤くして
「馬鹿にするな! このわたしを誰だと思っている!」
「〈黄金の幻影の結社〉最下位の《猟奇博士》でしょう」
炎噴く地下に
「っっ! 猟奇式ぃいぃぃぃっ! この若造を最優先で殺せっ!」
最大限に強い語調で下される命令に、〈喜色〉がびくんと反応して機敏に動きだす。
「兄貴! そいつの攻撃は――」
市谷が言いきる前に坂下と猟奇式人形が衝突した。
石の床を砕くほどの腕力が坂下に向かってふるわれる。
打ち所を誤れば死へ一直線の重い拳だ。
「猟奇式か。猟奇博士による特別改造型、いわゆる〝謹製〟かな」
呑気に言う坂下が猟奇式人形の拳を難なく片手で受け止めていた。
伝播した力が坂下の足元の床を砕くが、彼自身はまるで痛みを感じていないようだ。
坂下が受け止めた腕をぐいと押し返すと、かえって人形が体ごと押し戻される有様だった。
「ぉ、ぉ、ぉぉお、おおおお――」
なぜ目の前の敵を押し潰せないのか。そんな焦りが含まれているようにも聞こえる呻きをあげて、猟奇式人形が力をこめて飛びかかった。
「さすがは〝謹製〟、通常の人形と比べると力が段違いだ――」
坂下が三発目を受け止めて腰を据えると、猟奇式人形の腕が固定されたようにぴたりと動かなくなった。もとい、少しも動かせなくなった。
「が、僕を狙い続けた《機関卿》には遠く及ばないな」
一体どれほどの力がぶつかり合って均衡を保っているのだろう。
〈喜色〉の声がくぐもりを越えて、力強さを感じさせるものになる。
しかしその相手はなお平然と、
「君は何かを言いたいようだけど、それは後回しにさせてもらおう」と振り返り、
「遅くなってすまなかったね。地下通路で時間を取られてしまってね」
がっぷり四つに組みあったまま坂下が穏やかに語りかける。声には力みや重みといったものがほとんどこめられておらず、
「兄貴なら来てくれると信じてたぜ!」
「
相手の腕を受け止めながら器用に頭を下げる。
「や、その――」
現在の状態にそぐわぬ平然とした態度に楓は呆気にとられた。
人間離れした強大な腕力を真正面から平然と受け止める坂下の、好青年な外見からは想像もつかないすさまじい
しかも蒸し暑い地下にあって、彼は汗の一滴もかいていない。
この青年探偵にとって人形との取っ組み合いは運動ですらないのだろう。
まさか
――格が、違いすぎる
癖でついつい彼我の能力を比較してしまい呆然とする楓に、坂下は人懐っこい笑みを浮かべる。笑みにはやはり、どことなくくたびれが見え隠れしていた。しかし人形を相手取ったことによるものでないのは明らかだ。
「まずはここから出ましょうか」
「出られると思っているのか! 貴様らはこの――」
博士が喋り終わる前に坂下が動いていた。
相手の拳を受けとめていた腕を、坂下が操舵輪を回すようにぐるりと左にひねった。
すると人形が大きく傾いて右側頭部から倒れこみそうになるほど姿勢を崩す。
手足をじたばたさせて転ぶまいと抵抗する〈喜色〉であったが坂下はそれに構わず、長い脚から繰り出される一撃をがら空きになった腹部に放っていた。
猟奇式人形が軽く浮き上がって後方に吹き飛び、尻から落下する。
続けざまに坂下は一気に距離を詰めて人形の前に立ち、すかさず屈んで腹部に拳を入れて、立ち上がりながら大きく振り上げ、無理やりに相手を立たせてしまう。
それは最初から戦いの体をなしていなかった。
喧嘩でもなければ、争いでもない。
大人が子供をひねるがごとき暴力の嵐。
――バカな……、我が猟奇式人形が手も足も出ない、だと?
顎の輪郭に沿って、冷や汗がだくだくとしたたり落ちる。
――そもそもこの男はなんなのだ。これが《軍団卿》なのか?
圧倒される我が人形を前に、《猟奇博士》ただただ驚くしかできなかった。
「待ってください、坂下さん」
「どうしました?」
一方的な攻撃は楓の呼びかけによって中断された。
応じる坂下はいつもの穏やかな声で、かえって無気味さが際立つ。
「その、人形は
人形が元は人間なのは坂下も知っているだろう。
だが、自分が一方的に痛めつけている人形の正体までは知らないのではないのだろうか。
「確か
「そ、そうです、その、た、倒す以外に方法はないのでしょうか? 人形にされた方を元に戻す方法と言いますか……」
「自分が殺されそうになったってのに、まだそんなこと言えんのかよ……、楓姉ちゃんの頭につける薬がほしいよ」
「ぅ、ですが――」市谷の指摘に楓はめげずに言う。
「私はどうしても、そのぅ――倒す以外の方法があるのではないかと、考えてしまうんです」
坂下はほほ笑みをさっと消した。真剣な顔つきは場に相応しいが、普段の柔和な印象ががらりと変わるので、まるで別人のようである。
「助けたいのは南海さんが顔を知っている相手だからですか? それとも――」
坂下は一瞬だけ言い淀んだが、すぐに、
「――それとも、人形の正体が人間であると知ったからですか?」
ちょっと聞いただけでは「それとも」で
楓は坂下が問うている意図を正確に推し量ろうと努める。
――日進さんであると知っているから? 人であると知っているから?
顔見知りが人形になったから情が湧いているのか。
だとすれば申し出は一時的な感傷にすぎない。
しかし彼が訴えた「たすけてくれ」「いたい」といった、心の底から絞り出すような思念は看過できない。
――それに思念は「お前のせいだ」とも叫んでいた……
何かあると自分のせいにしがちな楓であるが、面と向かって責められたことはほとんどない。そんな彼女が嘘をつけぬ思念から自分のせいにされる。
原因がわからないにしても、ほとんど名指しされて動揺しないわけがなかった。
――私のせいと言われて罪悪感を覚えたのは本当。その罪悪感から逃れたるために助けようと? ……おそらく坂下さんは私がどうしたいのかを問うているはず
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