第十六章『並走する者たち』4

 一帯は治安が悪い地域ではあるが無法地帯ではない。

 家の中をじろじろのぞき込んだり、華美な格好で立ち入ったり、ちょっかいをかけたり、要は不用意に刺激しなければ危害は加えられない。それさえ守れば向こうもこちらに興味を示さず安全である。


 北東に伸びる筋に入ってしばらく進むと、薄い蒸気の向こうから浮浪者がびっこを引くようにして二人に近づいてくる。

 坂上の事務所に人形発見の報告を持ち込んだ《撃手げきしゅ》の男だ。

 むろんその格好も歩き方もすべて場所に応じた偽装である。

「一班および四班、《操手そうしゅ》乙級の指示通り包囲を維持しています。五班も到着済、現場への部外者の出入りの制限を行う予定です」

 男が坂下に報告する。

 符丁を用いる必要はすでになくなっていた。

「人形は二区画先かな?」

「いえ、到着までの間に一区画先まで縮まっています」

 坂下は新しい煙草を取り出して咥えた。

 路地に放り投げられた古い煙草は後で住人が拾って再利用するだろう。

 帝都では煙草を路地に捨てるのもある種の寄付になる。

「包囲の一班と四班で迎撃準備を。指揮は僕が執る。追われているという人は?」

「人形から離れて先行、間もなく姿が見えるころかと」

「《無銘道化師》が出る可能性もある。最大限の警戒を。以上」


 了解、と男が取って返すのを見送り、坂下と小鳥遊は少し遅れて路地を曲がる。

「どうすれば、いいで、しょうか? ご指示、を」

「二の手で対応できる準備を。具体的には〈結社〉による不意打ちに対しての備えをお願いしたい。緊急時に全ての班が離脱できるよう全体の統括を」

 坂下は自分が事態に対処している間、小鳥遊にすべての司令塔になってもらうつもりであった。彼女も心得たもので内容を反芻し受諾する。

「離脱の、伝達は、何をもって、行いますか?」

「《無銘道化師》、あるいは他の幹部の出現。または僕が倒されたら」

「それぞれの蓋然性がいぜんせい、は?」

「何も起きないが八、道化師ら幹部が二、その他は小数点以下」

「了解。市谷さんを、お願いします」

「全力を尽くす。それと君は道化師が出ても立ち向かわないように」

 少しだけ小首を傾げたものの、すぐにうなずいて小鳥遊は足を止める。そうしてくるりと背を向け、ぐっと身を屈めたかと思えば、次の瞬間には思いきり地面を蹴り、瞬く間に蒸気のかなたへと没してしまった。


 坂下はまっすぐ歩き続ける。

 ほどなくして白くかすむ蒸気の中に、黒い小さな影が上下しているのが見えてきた。

 上下しているのは上半身だけで、腰から下は齢のためか足と地面がほとんど離れていなかった。上半身だけ前のめりになって進む姿は、鳥が歩むたびに首を突き出す仕草に似ていた。走るのが限界に達しつつあるらしい。


 逃げる男の荒れる息遣い。

 むき出しの砂礫されきが踏みしめられる音。

 上がりきらないかかとが土をこする音。

 その全てを坂下はしっかりとらえていた。

 だから彼の耳には逃げる男の後方から響いてくる、


 かちきんかちきんかちきん……


 という忙しない歯車のような、人形の駆動音も聞こえていた。


 小さかった影が次第に大きくなり、蒸気と塵埃じんあいでできた幕の向こうから、薄汚れたつなぎを着たお年寄りの姿が鮮明に浮かびあがってくる。胸の小さな勲章がひどく場違いだ。

 彼は坂下を認めるやいなや足を止めた。

「あ、あんたは……?」

「ご安心を、探偵です」

 坂下はすれ違いざまにそう言って、老人の来た方に進んでいく。

 唐突に現れた青年が危害を加えませんと説明して納得してもらうよりも、目の前で追手を撃退したほうが手間も時間も省ける。


 かちきんかちきんかちきん……


 音が騒がしさを増した直後、影が横一列で駆けてくる。

 三体。

網渡あみわたり》の報告通りだ。


 坂下は指の先ほどの丸っこい小さな石を二つ拾い上げ、一つを右にいる人形の足元に向かって投擲とうてきした。

 石は人形が地面に足を着ける寸前の地面に落ちる。

 駆ける人形はすでに足を下ろしにかかっていたのでこれを回避する術もなく、転がってきた石を踏んづけて、ほんの少しばかり姿勢を崩してしまう。


 直後であった。


 乾いた破裂音が何重にも路地裏に鳴り響いたのは。

 反響が止むころ、すでに首から上がなくなった人形が静かに倒れこんでいく。


 いったい何が起こったのか。


 老人の目には探偵が石を投げて、それを踏んだ追跡者が倒れたようにしか見えなかった。

 あたりには倒れた人形を除いて変化が一切ない。

 あふれた蒸気が周囲を包む、ありふれた路地裏の光景が広がっているばかりである。


 坂下は続けざまに左側の人形の胴めがけて石を投げこむ。

 人形は身体をひねって飛来物を苦もなくかわすが、そのため横に並んでいた人形より一歩分だけずれてしまう。

 そして、これまた次の瞬間には爆竹が連続して破裂するような音が響いて、直後には人形が身をひねった姿勢のまま、左足を軸にくるりと回って倒れこむ。

 むろんすでに機能の全てを失い、首から下だけになっている。

 じいっと目を凝らしていた老人は、今度は破裂音が鳴ると同時に、土がかすかに弾けるのを見た。しかし目に見える現象はそれだけで、何が起こったのかわからない。


 あっという間に最後の一体となった人形であるが、それでも目標物に向かってひた走る。

 他の二体がやられる間にも走っていたので、もう坂下の目前にまで迫っていた。

 最後の人形は肩から指先までぴんとまっすぐに伸ばして、翼のように両手を広げた。

 坂下はこれまでに相対した経験から相手の次の行動を読む。

 速度を生かした手刀を首筋に撃ちこむ体勢。

 まともに命中すれば、しばらく呼吸が困難になるだろう重い一撃だ。

 坂下は煙草を放り捨てて拳を構えた。


 そして、二人の身体が重なる。


 は、と老人が息を呑んだ後にはもう決着がついていた。

 追うものと迎え撃つものとの接触は確かにあったはずなのだが、老いた瞳では瞬間を捉えきれなかった。彼には二人がぶつかった結果――追跡者は背中から一回転して勢いよく地面に倒れこんでぴくぴくと震え、長身の探偵は突き出した腕と足を元に戻してこれを見下ろしている――しか見えていない。


 何が起こったのか。

 追跡者は探偵の読み通り、手刀を喉に命中させようとしていた。

 これに対し探偵は、右腕を鎌のように、右足を膝が頂点になるようにそれぞれ曲げて、後は迫ってくる相手に向けてほんの少しだけ勢いをつけて当てただけだ。

 人形が攻撃してくると判断した時点で、探偵はいかに効果的な一撃を与えるかを考えていた。

 相手がわざわざあたりに来てくれるのだから命中するかどうかは捨ててよかった。

 両者とも命中するのを前提にしてしまえば、後はもう力に勝る方が打ちつだけだ。

 その他にはなにも必要ない。

 そして、力も耐久性も、探偵が抜群に上回っていた。

 それだけのことである。


 坂下は静かに人形の次の動きをうかがう。

 人形の手刀が命中したはずの彼は、苦しむどころか痛みすら感じていない素振りである。そこにはこれまでに無数の人形をほふってきた風格すら漂っている。

 わずか一分足らずで三体の人形を片付けてしまった坂下も、数時間前に《無銘道化師》が指揮する人形にてこずった坂下も、寸分違わぬ同一人物である。

 相手をした人形もまた、個体としては別物だが同型である。

 道化師がいるだけで人形は機敏で手強い相手になる。

 だからこそ彼は道化師の出現を最大限に警戒していた。


 しばらくしても人形は起き上がってこない。

 が、坂下はすぐに動ける姿勢を崩さない。


 ――道化師が絡んでいるのならば、これだけで終わるだろうか。二段目、三段目の攻勢か、あからさまな罠を張ってくるはずだ


 あの接着剤を全身に溢れさせて飛びかかってくるのではないか。

 人形そのものが盛大に爆発するのではないか。

 別方向から人形を飛びこませるのではないか。

 ……様々な妨害の可能性を警戒するも、第二陣が投入される様子はなかった。


 やがて、人形の顔が仮面ごと膨らみ、ぼふん、と破裂する。


 なおしばらく待つも、何も起こらない。


 あるいはそうやって対応を緩めさせる手口かもしれない。

 坂下は警戒態勢を解かずに振り向いた。


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