第十六章『並走する者たち』3
やがて二人は東部市駅の裏手に足を踏み入れた。
「寂れて、います」
東部市の玄関口としての機能も開発も南側に集中した結果、北側は未開発のまま取り残されていた。むろん一帯は放棄された土地ではない。
「東部市駅は大手通に面する南側ばかりが発展してきたからね。こっちには用のある人間しか足を運ばない。市が開発するという話はあるけれど……」
東部市の行政をつかさどる東部市運営委員会が、駅の北口開設と開発計画を発表したのはずいぶん前になる。
しかし計画は進んでいない。
地権者との交渉や買収が難航しているからだ。
北区画一帯の地権者たちは、『蒸気大戦』の休戦後間もなく行われた中央市の再開発にあたって、市に土地を提供する見返りに東部市へ移ってきた人たちである。
彼らは移転後に中央市の地価が跳ねあがったのを悔しく思っていて、次は同じ轍を踏むまいと、現在の中央市の地価を買収費に上乗せしろと要求したり、もっと良い代替地を提示せよ求めたりしている。その陰には入れ知恵する裏社会の人間、わけても土地転がしを生業にする者がいると目されている。
帝都の事情はたいがいが乱麻のごとく絡み合っているものだ。
一方で計画前進を求める経済界の声は年々強くなっており、早くて年明けには政治的な決断が下されるだろうというのが情報通の見立てだ。
狭い路地を行く青年と少女には無関係のことであるが。
やや開けた場所に出ると坂下は速度を緩めて歩きだす。
小鳥遊も自然な形で歩調を合わせる。
広場には街灯がいくらか点いているが妙に薄暗い。
隅には廃棄された残飯や廃材などが積まれており、浮浪者や定住先を持たない労働者、戸籍を捨てざるを得なかった者など、すねに傷持つ者にとって快適な住環境が形成されていた。
ここならば救貧院や浮浪者臨時収容所の世話になることもないだろう。
そういった場所が南部市や西部市にいくつもあるのを小鳥遊は知っていたが、それが東部市、ましてや駅すぐ近くの一等地にあるとは思ってもみず、それだけに視線をさまよわせるようにしてあたりを観察する。
と、その視線がある方で定まる。
広場にはいくらかの木賃宿や安食堂が建っていた。
いずれも
小鳥遊の視線はそうした低層の建物群を圧迫するかのようにして背後に
まず目に付くのは、断頭台のような刃を何枚も持つ巨大な換気扇だ。
壁面に十数基設置されて、罪人を求めるかのようにゆっくりと回っている。
向こうからは灯りが漏れているが、小鳥遊たちが立っている側が建物の陰にあたるためか、まるで昼のような明るさであった。そのせいで眼下の広場が薄暗いのだ。
換気扇からは当然のようにおびただしい量の煤煙や悪臭が流れ込んできていた。
「あれ、は……?」
「東部市の駅舎を裏から見ているんだよ」
玄関口としての威厳と華やかさを備えた東部市中央駅も、訪問者の目に映らない裏は簡素な仕上げとなっているのだ。小鳥遊はまずそのことに驚き、続いて周囲の環境のひどさに納得がいった。
漏れている明かりは歩廊や駅舎内広場のものであった。漂う煤煙や悪臭は駅を発着する機関車や駅舎内の店舗に由来し、それを数十の換気扇で一斉にかき出すものだから、この北区画に濃い煤煙が流れ込んでいるのである。
周囲は開発の手が入らない貧民街特有の入り組んだ建物や路地で、掃除もされず不潔な環境だ。もともと有害な物が溜まりやすい。
そんな場所に換気扇から絶え間なく煤煙や汚染された空気が送りこまれ、一帯をゆっくりと侵食していく。
「ここだと、肺腑が」
「数年で駄目になるだろうね。でも、ここに住むしかない人たちもいる」
二人は広場を離れて狭い路地を進んでいた。
廃材をひねり合わせて押し付けた小屋のような住まいが、身を寄せ合うように建ち並んでいる。一斗缶やらドラム缶を叩いて伸ばしただけの粗末な薄板を幾枚もつなぎあわせた、北部市の犬小屋よりも狭いあばら屋だ。
「開発が、進むと、このあたりも、市谷さんが、言っていた、南部市の、ように、もともとの住んでいた人が追われる、のでしょうか」
「そればっかりはわからないよ。行政がなんらかの補償をする可能性もある」
南部市には再開発を経て立派に生まれ変わった区画がある。
かつてはここと同じような貧民街が広がっており、立ち退きを拒否する住民が大勢いた。
しかし貧民街からの失火により生じた大火災によって、結果的に立ち退きが進んでしまい、開発が前進したという経緯がある。
火事の例は極端であるが、開発による立ち退きを迫られるのは貧しい住人たちだ。
彼らは半ば放置されている区画に地権者の許可を得ず住んでいるので、法的には不法居住者といってよい。だがそうしないと生活もままならない者たちである。
一方の地権者たちは北部市や南部市に住居を構えており、駄々と土地をこねくり回してさらなる金を得ようと企んでいる。現地に住まう者など眼中にもない。
「可能性もない、かもしれない。お金持ちだけが、もっとお金持ちに、なる」
という小鳥遊の言葉は、彼女なりの経験や観察からもたらされた結果を口にしたものであるが、坂下は市谷が富裕層をやっかんでいたのを想起せざるをえなかった。
二人は知らないのだ。
雇主である坂上も世間的には十分にお金持ちの範囲であることを。
でなければ、〈軍団〉という多くの助手、協力者を抱え、市谷や小鳥遊の衣食住の金まで出せはしない。もっとも坂上本人が金を持っているのを鼻にかけないので、坂下もその事実をあえて二人に教えようとは考えていなかった。必要ならば当人が言うだろう、と。
――政府としては北区画を開発することで治安を向上させ、真っ当な住民や店舗を呼びこんでさらなる税収を得たいのだろう
坂下はこうした自分の見立てに感慨を持たない。
目の前で虐げられるものを救おうとする正義感こそ持っているものの、全面的に社会的弱者の味方というわけではなかった。
さりとて高額納税者の味方でもない。
探偵として、ことさらどちらかの肩を持つ気がないのである。
――僕は、どこにいても中立でいい
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