第三章『うごめく人影たち』2

 五分ほど走っただろうか。

 楓は徐々に速度を緩めた。息切れはない。

 振り向いて確認しても誰の姿もない。

 靉靆あいたい と蒸気たな引く街路が続いているだけだ。

 相変わらず白昼夢の中にいるようだった。

 ひょっとすると気味の悪い仮面男たちも、蒸気が見せた幻影だったのではないかとさえ思えてしまう。

 や、と楓は強く否定する。

 つかみかかってきた手の感触も、詰襟の絹の手触りも、紛れもなく本物であった。

 であれば、投石で助けてくれた誰かも本物に相違あるまい。その善意も含めて。

 助けてくれた彼が無事であってくれればよいが。

 自分だけが逃げてしまったかのような罪悪感が少なからず湧き起こった。

 なんなら取って返してみるか。

 ついさっきの出来事を反芻はんすうしながら進む楓は、ふと感じた。


 眼前に何かが生じる気配を。


 感じ取るやいなや即座に横ざまに飛んで距離をとる。

 同時に今までいた位置を視認するのも忘れない。

 すると、そこに影のようなものがふっと現出していた。


 やはり彼らは後を追ってきていたのか。


 ――や、それにしては気配が違いすぎる


 仮面男がかもす気配は希薄で、どことなく人のようなそれが感じられなかった。

 しかし気配そのものはずっと発していた。

 一方、いま出てきたそれの気配は人並みに濃く、出現自体が急である。

 気配の匂わせ方が逆さまなのだ。

 と、楓が思案している間にも気配の発生源に蒸気がゆらゆらと凝集していく。


 やがて、それは人形ひとがたをなした。


 が、すぐに排煙の香りがする街の風に追い払われて消えていく。


 名残なごり惜しげに、寂しげに、哀しげに、訴えるように地面を指さしながら……。

 すぐに左見右見とみこうみする楓であったが、もはや姿はおろか、気配さえ消え失せてしまっていた。楓にはそれが不思議だった。

 姿ならばいざ知らず、気配はやすやす消せるものではない。

 なんとか探ろうと意識を集中させる。

 少し遠くで大勢の人の気配があるが、これは表通りのものだろう。

 張り詰めさせた楓の意識に触れるものはどこにもない。

 いまは本当になにもない狭い路地が続くばかりだ。


 気配が薄い仮面たち。

 気配を急に消す人形。

 彼らはいったい何者か。

 旅の疲れからでた見間違いだと、楓はそう結論づけたかったが、


 ――違う


 安易な判断を自ら峻拒する。

 少なくとも蒸気の人形ひとがたはなにかを哀訴していた。何を訴えていたのかまではわからないが、その訴えは彼女の感覚に確かに通じていた。それは対峙してなお感情を読み取れなかった仮面との明確な違いでもある。

 しかしそれらの違いが意味するところがわからない。

 平素の彼女ならば仮面の連中についてはともかく、蒸気の人形については、それが何かは思い当たるものがあっただろうし、自分が普段よりもそういった存在の敏感に気配を察知しているのにも気づいただろう。

 ただ、いまは連続して急な事態に遭遇したばかりで、そこまで気が回らない。

 そういう点では確かに旅による疲れが出ていた。


 楓は巾着きんちゃくから清涼剤を数粒取り出して、がりりと噛み砕く。口中から鼻にかけて苦味のある香りが駆け抜ける。少しでも自分を落ち着かせる儀式のようなものだ。

 ――そういえば道が……

 道案内をすっかりどこかに落としてしまっていた。おそらく仮面の連中ともみ合ったときだろう。時計を持たないのでいまの時間もわからない。それほど経ってはいないはずだが。

 いずれにせよ立ち止まっているわけにはいかない。

 戻るにしてもどこをどう走ったのかはわからない。

 ここまで来ればひたすら前へ進むしかなかった。


 決意して歩きだすと、眠りから急激に覚醒するかのようにすぐに他の通りとの交差点に出た。振り返ると薄暗い単調な路地が続いているだけで、蒸気はすっかり晴れていた。

 事態からふいに突き放されたかのようで、楓は狐にでもつままれた心地である。

 突き当たった通りはほどほどに人と車の往来があって、三階建ての雑居ビルヂングが建ち並んでいる。路地裏を抜けたようだ。

 楓はほっと一息ついて、通りかかる人に道を尋ねた。


 くだんのビルは排煙管がにょきりと一本だけ生えていた。

 入り口の曇り硝子には『御山みやまビルヂング』と記されている。

 扉にも楓の赴任先が墨書された木の板がかかっていた。

 間違いない。

 扉の向こう側はうかがえないが、確かに人の気配が感じられる。

 楓は深呼吸をして、扉に手をかけた。

「ごめんください」

 両開きの扉をくぐってすぐ右手に受付の机が設置されている。しかしそこに人はおらず、正面の奥から、「はーい、ただちに」と威勢のよい声が聞こえてきて、その大きさに負けず劣らずの活力を体いっぱいにみなぎらせた女性がどたどたと勢いよく出てきた。

「はい、はい! 待たせてませんよね? すぐ来たから大丈夫ですよね? 地鎮退散加持かじ祈祷、お守り販売その他あれこれ、本日はどういったご依頼でおとないでしょうか?」

 蒸気と煤煙にまみれる帝都だが、娘が着る上衣は上等な半紙のように白く、先ほどまで煤けた路地にいた楓の眼にまばゆい。

 しかしその着こなしといったら。

 楓は目を細めたまま彼女の胸を凝視してしまう。

 受付娘の快活さを受けて心行くまで育まれたかのようなものが、内から上衣を押し出していた。事務員は晒しなどを詰めて、張りを目立たなくしなければならないと規則で決まっている。にもかかわらず、この受付の娘はなにも矯正していないではないか。

 これは楓からすると驚きの一言で、呆気にとられて見つめてしまうのも無理はなかった。

 女の背丈は楓より五、六寸ばかり高い。肩に届くか届かないかの長さの髪が、出てきた時の勢いを受けて楓の目線の高さで元気よく揺れている。

「あ、れ……、あの? もしかして、もしかしなくても、うちに用じゃない、とか?」

 驚いて無言でいる楓を前に、受付の娘はすっかり表情を曇らせている。

葦原あしはら支部より遣わされた南海みなみです。支部長にお取り次ぎを願えますでしょうか」

 楓は慌てて頭を下げて来訪の意図を告げた。

 すると彼女の曇り顔はたちどころに晴天へと転じ、頬にさっと赤みが差す。かんばせにはまだあどけなさが残っていた。

「はい! 失礼しました! 辞令にありました南海さんですね。部長をすぐにお呼びします。部長! 部長! 南海さんがお越しになられましたよ!」

「ほいはい」

 いきなりその場で上司を呼びつけるのに仰天する楓をよそに、これまた軽快な返事で部長が出てくる。

 鼈甲べっこう縁の眼鏡をかけた細目の男だった。

 脂ののった色艶のよい桃色の頬も相まって、一見すると柔和な印象を受けるが、目つきの鋭さに敏腕な官吏然とした冷たさを感じさせる。口元の青々とした剃り跡が年齢をぼかす効果を果たしており、四十代か五十代か楓には見分けがつかなかった。

「このたびは極東より遠路はるばるお越し下さってありがとうございます。帝都支部長を務めております銀嶺ぎんれいです」

 銀嶺部長はにっこりとほほ笑んで、深々と頭を下げた。

「や、そんなにかしこまっていただかなくても」

「いいえ、僕みたいな事務畑の人間は実務員――巫女みこの皆さんにはまるで頭が上がらないんですから。本当に、……こちらの吹子ふきこさんに対しても同じでして」

「本当ですかぁ?」

 吹子と呼ばれた女は頬を膨らませてから、おずおずと手を差し出し、

「あの、コートをおあずかりします」

「お願いします」

 二重廻しを脱ぎ、平生より慣れ親しんでいる姿に戻れた楓はようやく調子を取り戻す。

 白衣びゃくえには煤がほとんどついていなかった。祖父の外套は彼女の衣服をみごとに煤煙から守り通したのだ。

「これは煤払い用のだから遠慮なく使ってください」

 吹子が小振りの刷毛はけを手渡す。煤払い用というのがいかにも帝都らしい。

 さっと身体を払った楓は改めて部長に向き直り、名乗りとあいさつをすべく静かに息を吐いて呼吸を整えた。幼いころから祖母にしつけられた挙措きょそは、いまや彼女自身のものと化している。どこであっても定められた動きは変わらない。


 意識を澄まし、心の内に清らな泉を思い浮かべる。

 その中を波ひとつ立てぬ心づもりで、穏やかに、粛々と一歩前へ。

「〈全弌ぜんいつかんなぎ機構きこう神祇じんぎ官より帝都支部への配属を賜りました――」


 静かに呼吸ひとつ、


「三等官が六位、南海楓です」

 折よく五時の鐘が鳴るが、楓の息吹は何ものとて乱せない。


   *


 逃げ去るぶかぶかの外套姿を見届けた直後、五時の鐘が鳴る前、少年は疾駆する。

 それを追う影が三つ。

 不気味な仮面をつけた一味だ。

 連中は帝都にうごめく犯罪組織の走狗である。悪事を行う犯罪者の手駒は投げ飛ばされても、石をぶつけられても平然としているような連中。

 逃げる格好の少年は駆けっこには自信がある。昔から人よりも早く駆けられた。

 いつも腹を空かせていた数年前までは、大人たちから逃げるために走っていたがいまは違う。

 探偵の助手として一人の女性を助け、胸を張って悪の手先から逃げていた。

 もっとも彼女の危機を招いた大本は少年の仲間にあるので、そこを突かれると痛い。

 別の路地裏で仮面の集団を捕捉、駆逐したのはよかったが、あわや三人に逃げられてしまい、そこから駆けっこがはじまった。この時は逆に少年が追う側がであった。

 ときに間近に迫り、ときに引き離されそうなぐらいに距離を開けて、連中の行く手を調整して人気のない路地へと追い込んだまではよかった。

 しかしまさかその先から若い女性が歩いてくるとは予想できなかった。

 彼女が襲われていた理由はしごく明白。

 逃げる先に歩いていたからという、襲われる側としては実に不条理なもの。

 そんな連中を人がいる路地へ追い込んだ少年にも責がある。

 いや、仮にそうした責がなくても、少年は女性を救わなければならない立場にあった。道義的には探偵の助手として、また個人的には彼が尊敬する兄貴分の正義に倣う行いとして。さらにはあがないとして、たまたま仮面の一味を見たからという理由だけで襲われ、命を奪われる犠牲者を増やさないためにも。

 女性は多少腕に覚えがあるらしかったが、それだけで彼らを退けるのは難しい。


 ――普通あいつらを倒すにゃこれがねぇと、な!


 一味から十分に距離をとった少年は、振り向いてすかさず拳銃を撃ちこむ。

 銃弾が仮面をかすめるが、相手はいっこうひるまず追ってくる。

 そうだ、それでいい、追って来いと少年はほくそ笑んで再び前を向く。襲われた女性のことや、弾が当たらなかったことを一時的に頭の外へ追い出して再び駆けだす。

 少年の仲間たちが待つ通りまでもう少し。

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