03


「で? ?」


「うん」




 もういいや。孤独な冒険は何も得ない。




「ねぇ、おにいさん。さわのこと一晩泊めてくれない?」




 何言っちゃってるんだろ。友人の兄とはいえ、あからさまにヤバい人。関わるな危険。信用に値しない。


「男の人にそんなこと言ったらダメだよ」


「一晩だけ。お願い、一晩だけでいいの。いい子にするから、ね?」


「さわちゃん、何言ってるか理解してる?」


 勿論わかってる。全てを捨てる覚悟なら今できた。


「おにいさんの言うこと聞く覚悟はあるよ」




 白い地面に新しい道を2本開拓して歩く。


 10分とかからずにアパートの一室に身を寄せた。



 シャワーを借りて水気を含んだ髪を丁寧に洗い流す。

 洗面器に長い髪が1本張り付いていたところを見ると、彼はきっと相当な女好きだ。

 顔はのどかに似て美形。背も高い。贔屓目なしにかっこいいと思う。大学は歩いて行けると言う。この傍は国立大学の医学部キャンパスだけ。悔しいが頭も良い。


 17歳で大人になる予定は無かったんだけど。


 何も失わずに家出なんてできるわけないか。

 またひとつ賢くなった。


 いつもと違うシャンプーで軋んだ髪を拭く。タオルはのどかと同じ懐かしい香りがした。


「おにいさん、ここの服借りてもいいの?」


 脱衣所の扉越しに生返事を聞く。

 大き過ぎるスウェットに手を通す。腰はずり落ちた。


 ……自分の部屋着より安そうな生地だけど、なんでこんなにもあたたかいと感じるのだろう?



 おにいさんがシャワーを浴びて、冷蔵庫からお酒の缶を持ってきた。私の前で飲み始めた。


「おにいさんも大人なんだね」


 そんなことねぇよ、口元の笑みから葡萄の吐息が漏れた。


「早く認めてもらいたくて大人のフリしてるだけ。子供の前でカッコつけたいだけだよ」


「私も大人になりたいから……一口ちょうだい?」


「さわちゃんまだ17じゃん」


「関係ない。早くない」


「未成年に酒はあげられない」


「家出少女を一人暮らしのアパートに連れ込んでるじゃん。これ以上何も失うことなくない?」


 紫色の缶を奪う。あーあ、ため息疲れた。

 喉を鳴らして一口飲んでみた。


「ジュース?」


 鼻に抜ける葡萄の香りと微かなアルコール臭さ。口の中の甘さをゆっくりと反芻。


「やっぱりぶどうジュースじゃない?」


「度数は高くないけど……さわちゃん大人だね」


 おにいさんは私から缶を取ってまた飲み始めた。

 一缶あけた後でもおにいさんの顔色は変わらなかった。



「さわちゃん、明日学校行くの?」


 心配しているようで、後ろから見え隠れするわかりやすい本意。自分よりも立場の弱い人間に建前を使う意味がわからない。


「おにいさん次第かな。行く予定ではあるけど」


 ほら。言ったそばからもう捕食者側の顔になる。




「そろそろ寝ない?」


「お嬢さん、どっちの意味で言ってる?」




 どちらでも、と答えた。

 人の体温を衣擦れとともに感じた。



 2人分の荒い息遣いが秒針の音を掻き消す。

 縋りながら一心に「今だけは愛されている」と信じていた。

 友人と同じ香り、でもちゃんと男の子の匂い。

 潤んだ瞳の私を欲望任せに愛撫する。


 可哀想に? 自分から望んだ結果だよ。

 しあわせ? まさか。まだ足りない。


 私を好きだと囁いて。

 愛しているよと強く抱き締めて。

 俺のモノだとキズを付けて。



「2番目でもいいから、私を隣において」



 記憶は途切れた。





 冷たい風が頬を刺した。


 雪の匂いがちょっとだけ煙たい。


 薄目を開けると隣にいたはずの人影がない。

 揺れるカーテンの隙間から外の白さが覗いた。


 ベランダ……?


 毛布を被ってアルミサッシを開ける。


「おにいさん?」


 白銀の世界に煙草の火の赤さだけが色を持つ。

 紙のやける匂いとはまた別の芳しい香り。

 おにいさんは振り向かず、灰を落としながら私の姿を確認したらしい。


「まだ6時前だよ」


「いつも通り、起きちゃった」


「そっか」


 紫炎を吐く。

 紫色はしていない。寒空の下で吐く息とおなじ白。


「中で吸ってもいい?」


「私に気を遣う必要はないよ」


 外気に触れて冷えた頬に手を伸ばす。思っていたよりずっと顔は高い位置にあった。


「さわちゃん?」


 深い意味は無い。そんな気分だった。


 背伸びをして口付ける。


「やっぱり、さわをにしてくれませんか?」


「ガキには早ぇよ」


 再び塞がれた唇に煙草の匂いが移った。





 初めて学校に遅刻した。


 担任に何となく行きたくなかったからだと言った。怪訝な顔でそうか、とだけ言われた。拍子抜けした。


 家出を止めて家に帰った。


 父さんは私をぶった。鼻からぽたぽたと赤い雫が落ちた。痛い、以外の感情は持ち得なかった。

 母さんは私を怒鳴り、詰め寄った。反省をする余地がないのだから何も言わずに黙っていた。




 それから時々私は家に帰らなくなった。


「夏木爽」を辞めたくなった日。単純におにいさんに会いたくなった日。無条件に愛されたくなった日。理由はあるようで無かった。



 ──おにいさんが好きだった。



 気持ちが無くても愛は愛。

 言葉だけ、仮初。身体だけ、欲望。


 空っぽであっても「愛されている」と感じられれば私は身を堕とせる。それでいいのだ。



「大丈夫。ちゃんと君のことも愛してる」


 嘘くさ。色欲魔。


「さわちゃん、君が一番好きだよ」


 貴方の一番は多すぎる。


「ごめん、首元は隠しておいて」


 誰でもいいくせに独占欲だけは強いのはどうして?



 なんてふしだらな人。自堕落な人。

 常識人とは程遠い、他人を救うだなんて烏滸がましい。


 離れられないのは私が阿婆擦れな女だからでしょうか。


 私が大人になれない子供だからでしょうか。


 彼以外異性を知らないからでしょうか。


 空っぽの愛でも、私を求めて欲しいと思う哀しい少女に育ったからでしょうか。


 彼のダメさを見る度にまだ私は大丈夫だと反面教師にしたいからでしょうか……


 何れにしても私は青かった。世界を無知だったのだ。



 恋人。歪な関係は私が制服を脱ぐまで続いた。

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