(2)
ティスは、先にリンゴを食べておくようにとフランツにアドバイスした。言われるがままにリンゴ片を齧る。それからカクテルを口に含むと、舌から喉、食道へと冷たい熱湯が落ちていくのが、はっきりと分かった。グラスを置いて、思わず「きっつ……」と呟いてしまったほどだ。ウオッカでも十分強かったが、これは人間が飲むものとは思えない。一体何を混ぜているのか。
「焼けるようでしょう。アルコールは毒ですから。飲み終える頃には地獄ですよ」
「ひどい師匠ね。話を聞くんじゃなくて地獄に突き落とそうとするんだから」
「あら、これは師匠の愛ですよ? 酒は、頭から離れないものを一時的に消し去る薬です」
ルピナスは無邪気かつ無慈悲に笑いかけてくる。フランツは、軽く睨み返して二口目を流し込んだ。ティスが心配そうに「こういうお酒は時間をかけて飲まなきゃダメよ」と忠告してくれる。
「これ、ほとんど消毒液みたいですね。でも、少しも気持ちよくなりません。酔うって、頭痛や眠気がするだけじゃないんでしょう? どう気持ちいいんですか?」
ティスは困った顔で考え込んだ。
「頭の芯がぼんやりして、無性に笑えてくるとか? 体がふわふわ軽くなったり」
「徹夜の後みたいにですか?」
「似てるといえば似てるかな。というか、お酒の良さが分からないのにカウンターに立ち続けてるのはどうして?」
なかなか痛い質問だ。特段、酒が好きというわけではない。そんなバーテンダーは、そうそういないかもしれない。
「酔って寝るためだけなら家で飲めばいいでしょう。だれかと時間を過ごすためにいらっしゃるお客様に、お酒を提供するのが好きなんです」
「ああ、そんなこと言ってたわね。ごめんなさい、すぐ忘れちゃうのよね」
「いえ」
ルピナスは髪を揺らしつつ満足そうに、うんうんと頷いた。
「素晴らしい。満点です。お酒が入ると舌が軽くなって話が弾みますからね。フランツさんは違うみたいですが……なくてもよく回りますから」
フランツは黙って三口目を飲んだ。
「意識があるうちに、昨日何があったのか聞かせてよ」
ティスは師匠のように好奇心をむき出しにはしてはいないものの、興味津々なのは丸わかりだ。女性二人に囲まれていては、話を逸らそうとしても無駄だろう。グラスに目線を落としつつ、フランツは表面についた水滴が垂れた跡を、なんとなくなぞる。
「デートって何をするものなんですかね……?」
二人は顔を見合わせ、首を傾げた。まあ、当然の反応だろう。
「終わってから聞くの?」
「初めてだったんですか? それならアドバイスしたのに。ただ話せばいいんですよ。ふとした瞬間に素顔が見られるのがいいんです。あなたがケチなのか、せっかちなのか短気なのかもバレちゃうわけですけど。何をしに行ったんですか?」
「平日の夜ですから、晩ごはんを食べに行っただけです。でも何を話せばいいんだか分からなくて。別に、喧嘩したとか気まずいまま終わったわけじゃないんですけど」
「けど?」
「結局、シャロンさんは艦長さんのことしか見えてないんですよ」
誘いに応じてくれたのは、友人としてなのか、叶わない恋を忘れたくてなのか、よくわからなかった。捉えどころのない人で、それが一番の魅力でもあるのだが。ルピナスはカウンターに両肘をついた。
「そう思った理由は何です?」
「そりゃ単純に、あの人の話になると顔色が変わるからですよ。……俺は、あの人と違って彼女に何も差し出せないんです。貰うばかりだ」
父親との確執に関して、彼女は的確なアドバイスをくれる。しかし自分は、失恋で傷付く彼女を言葉で慰めることしかできないうえに、大したことは言えていない。届かないのだ。フランツは長いため息をついた。
「だんだん、無能な自分に腹が立ってくるんですよ」
「ああ、それはダメなパターンよ。そんなふうに自己卑下しちゃダメ」
フランツは頭を抱えた。
「それでも、シャロンさんは自分を見ようとしてくれてるって思ったんです。だから余計なことなんて考えなきゃいいんですが、比較して嫉妬してしまって、そんな自分も嫌で」
「嫉妬って、実は本人が一番苦しいですよね」
「そうね。相手に当たっても解決しないどころか悪化するし」
「はあ……」
フランツは机に突っ伏した。
「どうすればいいんですか?」
溶けかかった氷が浮かぶカクテルを、ティスは遠い目をしつつ揺らした。
「心配しなくても、みんな同じような悩みを持ってるわよ。相手の心を変えるのは無理よね。自分の居場所を徐々に広げるしかないわ」
「時間以外に解決できるものはありませんから、耐えろとしか言えませんけど……あなたに第二の艦長さんになられても困りますからね」
ルピナスは、中身が半分以下になったフランツのグラスをちらりと見た。一応は、酔いすぎていないか心配しているらしい。
「両方の気持ちの強さが同じくらいになるのって、難しいことだと思います。どこかで差が開いて、それが原因で別れるというのが一番多いんじゃないですか。だから、相手を待つ間、別のことで気を紛らわせるしかないと思います。趣味でも、友人との付き合いでも、何でもいいですから」
「ああ……」
「あと、フランツさんだって実は、心の片隅にはまだアメリーさんが住んでいるはずです。あなたの心に占める割合が小さくなるまでにかかった時間のことを、思い出してください。一年や二年じゃなかったでしょう。そして、その影は一生消えることはないと思います。あなたもまた、気付かないうちにシャロンさんを傷付けているかもしれないと、心に留め置いてください」
フランツはルピナスの瞳をじっと見つめた。落ち着き払った、冷静な瞳だ。これから彼女が恋に落ちることはあるのだろうか。
「何ですか?」
「ほんと、十六歳が言うことじゃないですよね……」
「ほう? では何歳だと思っているのか、お聞かせいただきましょうか」
「少なくとも精神年齢は半世紀以上ですよね」
「ティス、この失礼な弟子に何とか言ってやってください」
「……まあ、失礼なことには変わりないわね」
「限界まで飲んで謝罪していただきましょう」
ルピナスは、ぷりぷりと怒りながら、中身が減ったフランツの杯にウオッカを注いだ。
「ちょっと! もう要りませんよ! 味が変わるでしょうが!」
「これだけ飲んでも悪口を言えるくらい頭がハッキリしてらっしゃるんですから、吐いて許しを乞うまで飲んでいただきます」
「……殺す気か……」
縁まで注がれた透明の液体を見て、フランツはげっそりした。ティスは笑いながら、その肩に手を掛けた。
「付き合うわよ、青年」
「うっ……もう既に頭が痛いんですけど」
「でも、澄ましたお顔ですね? ま、生命に関わるといけませんから、お水は許しますよ。さあ地獄に落ちな」
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