(2)

 フランツは口を開きかけたが、結局、思いとどまって言葉を飲み込んでしまった。あと一週間しかない。どこかへ一緒に行けるとしたら、もうチャンスがないかもしれないのに、いざ口にしようとすると、できないのだ。昔から少しも進歩していない自分が嫌になる。

「何?」

「いえ……何か他に飲まれますか?」

「うーん。オススメはある?」

「甘くて軽いのがお好きですよね」

「そうだね。でも、せっかくだからフランツが好きなやつにしてよ」

「かなり強いですよ?」

「一杯なら大丈夫」

 カクテルを作ることに集中すれば落ち着くかもしれないと思ったが、手元を見つめられているせいで、かえって緊張した。そういえばルピナスは、まだ話し込んでいるのだろうか。冷えてしまうのに。

「どうぞ。グレート・エクスペクテーションです」

 透明なアップルジュースを使った黄金色のカクテルだ。これなら、ふだん果実酒しか飲まない彼女でも飲みやすいだろうと思って選んだ。念のために氷を多めに入れてある。

「ありがと。うわ……キツそう」

 アルコールの香りを嗅ぐと、シャロンは身構えた。

「時間をかけて飲むほうがいいです」

「オッケー。そういえば、フランツはいくら飲んでも酔えないんだったっけ」

「まあ……あまり飲むと頭痛がしますが」

 先日の艦長との勝負のことは黙っておくことにした。思い出すと、また腹が立ってくる。同時に悔しい。彼にはあって、自分には無いものが多すぎる。

「残念だなあ。酔ったところ、一回見てみたかったのに。実は口が悪いって教官が言ってたけど、ほんと?」

 フランツは苦笑して誤魔化した。あの言葉遣いになってしまうのは、彼を前にした時だけだ。

「えー、じゃあ敬語やめてみよう? 私の方が歳下だし、もう仲良しじゃん。ね?」

「これが普通なんです」

「嘘。それともゲルマン語だと口が悪いの? 私、全然話せないから聞いてもわかんないや」

「そうですね」

 頰をほんのり赤く染めて無防備に笑っている彼女が、どうしようもなく可愛く見えてしまい、フランツは慌てて目を逸らした。

「こんな強いお酒、よく飲むね。なんかもう既にドキドキして頭がぼんやりするんだけど」

「それはまずい。お水、飲んでください」

 慌てて水を入れて手渡すと、シャロンに手ごと掴まれ、じっと見つめられ、フランツは狼狽した。

「シャロンさん? ほら、早く飲まないと」

「うん」

 そう言いつつ、彼女は手を離さない。澄んだ翠色の瞳が思ったより近くにあって、自分の目を覗き込んでいる。弱さも虚飾も見抜かれてしまいそうだった。嘘つきで意気地なしで言い訳ばかりする、欠点しかない自分を、全てひっくるめて抱きしめてくれる人がいたらいいのにと思っていた。彼女に、そんな幻想を抱いているのかもしれなかった。

「フランツさ、時々何か言いたそうな顔をしつつ目を逸らすよね? 何? もしかしたら、私がここに来られるの、今日が最後かもしれないよ」

「いや……飲みすぎないか心配してるだけです」

「お父さんに伝言? それとも、仕事のアドバイスでもくれるの?」

「いいから先に水を飲んで」

 シャロンは手を離し、大人しく水を飲むと、続きを促すように再び目をじっと見つめた。おかげでアルコールを摂っていないのに、心臓はバカみたいに血液を勢いよく押し出している。見つめていられなくなり、目を閉じた。それから軽く息を吸って吐いて、目を開いた。

「その……会えなくなる前に、もう少しだけ時間が取れないかって聞きたかったんです」

 シャロンは不思議そうに首を傾げた。艶のある亜麻色の髪が肩に掛かり、落ちる。

「何だ、そんなこと? じゃあ、また来られるように時間を作るから。ほら、もう一回、目を合わせて。敬語じゃなくて普通に言ってみようか。さん、はい!」

 完全に酔っ払いのテンションだ。何を言っても覚えていないかもしれない。そう思うと気が軽くなった。

「ええ……? 俺と……どこか飲みに行かない?」

 一応、真面目に言ったつもりだったのだが、シャロンは盛大に吹き出した。

「何それ……、なんか、ナンパしてるみたい!」

「うふふ、シャロンさんったら。フランツさんはデートに誘ってるんですよ?」

 絶妙すぎるタイミングでルピナスが戻ってきた。

「へ?」

「師匠!」

「全くもう、うちの弟子は、へなちょこなんですから」

 ルピナスは涼しい顔で二人の横を通り抜けると、「さんざん待たされて冷えたので、ヒーターに当たります」と言って裏に入ってしまった。残された二人の間には気まずい空気が漂う。

「えっ……そういうことじゃないよね?」

「いえ、まあ、えーと……そういうことですね」

 シャロンは口を開いたり閉じたりしながら、同じくらい真っ赤になっているフランツを見上げた。

「そこ、認めるの?」

「いや、嘘をついてもバレるんですよね?」

「そ、そうだけど、そうなんだけどさ、そういうことなの? 待って、ごめん、ちょっと頭がぐらぐらするし、今日のところは保留にさせてもらおっかなぁ!」

 シャロンは目線を合わせないようにしながら席を立った。

「明日電話するから! おやすみ」

 シャロンは代金を払うことすら忘れて身を翻した。扉が閉まると同時に、フランツの背後で裏の扉が薄く開く気配がした。振り返ると、師匠の片目だけが見える。軽くホラーだ。

「フランツさん。シャロンさんのお代は給料から天引きです」

「え? ああ、どうぞ……」

「全く、十代じゃあるまいし、もうちょっとこう、うまく駆け引きできないものですかねえ」

 魂が抜けかけているフランツは、ええ、とか、はあ、とか間の抜けた返事しかできなかった。

「まあ、泣き寝入りにならなかっただけマシですね。返事が気になって気になって眠れない夜、もとい朝になりそうですけど? 明日もちゃんと働いてくださいね?」

 また彼女を喜ばせるネタを作ってしまった。フランツがため息をつくと、ルピナスは片目だけ覗かせたまま、低い声で「なんだか腹が立ちますね」と呟いた。

「どこに腹を立てる要素があるんですか」

「あなたの顔です」

「はあ? アメリーみたいなこと言わないでください。好きでこんな顔に生まれたわけじゃありません。どうしろと」

「デートの約束ができたら、今風のポップな元気女子に仕上げて差し上げますね」

「結構です!」

 全力で叫んだが、ルピナスは扉を閉めてしまった。フランツはカウンターに突伏しつつ、呻いた。

「あー、なんで俺はいつもこうなんだ。断られたらどうしよう……」

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