(5)

 ルピナスは冷蔵庫をのぞきこむと、あら、と声を上げた。

「卵が切れちゃったみたいなので、その辺に買いに行ってきますね。貸切にしてますけど、何かあったらフランツさんを呼んでください」

「ああ、悪かったな、メニューに無いもん作らせて。気をつけてくれ」

「ありがとう、美味しいわ」

「いえいえ」

 ルピナスはアストラに「宿題」と唇だけで伝えると、静かに表の扉に向かい、貸切の札を掛け、裏の部屋に入った。いつもどおり机の上で内職していたアーノルドは、フランツだけでなくルピナスまで現れたので一瞬不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。

 この時間に卵を買える店が開いているはずはない。そんなことくらい、あの二人なら分かるはずである。

「まったく、私がいなきゃ永遠にあのままかもしれませんねえ」

 小さなマスターは小声でそう呟くと、背伸びしつつロッカーから大学の課題を引っ張りだした。


 残された二人は、無言だった。ブレンは気まずさのあまり、のろのろとビールを飲んだ。アストラは顔も上げずに食事を終えると、カクテルを口に含み、少ししてから口を開いた。

「これ、ノンアルコール?」

 ブレンは、ほっとしつつジョッキをカウンターに置いた。

「らしいな、そんなワインもあるんだとさ」

「ふうん。けっこういける」

「……昨日、ヤケ酒してたんだろ? 愚痴なら聞くから言えよ」

 アストラはグラスを掴んだまま唇を震わせている。何かつらいことがあったのだろうかとブレンが心配していると、彼女は目を閉じて、観念したかのように小さな声で呟いた。

「ミルヒがいてくれたって、気がまぎれるか分からないわ」

 ブレンは首を傾けてアストラを見つめた。彼女は目線を落としたままで、表情はよく見えない。

「あの煙草は残り二本しかないから、一ヶ月もたないし」

 不思議そうに彼女を見つめていたブレンは、彼女が何を言わんとしているのか気付き、目をわずかに見開いた。

「ねえ、私をひとりにしないで」

 目線が合った。それから、互いに気まずくなってらす。ブレンは口を開きかけたが、結局その言葉を飲み込んだ。

「何? 言って」

 アストラは普段より、いくぶんか棘のない口調でとがめた。

「いや……」

 ブレンは深く息をつくと、彼女の瞳をもう一度見つめた。もし、このまま逸らさないでいてくれたら、続きを言おうと思った。

 アストラは黙ったまま視線を受け止め、続きをうながしている。

「お前の目って、綺麗な色してんのな」

 彼女は、ゆっくりと瞬きした。

「何、言ってるの」

 頰に手を伸ばす。それでも彼女は真っ直ぐにブレンの目を見つめていた。照明のせいで、薄いグリーンの瞳は青みがかって見える。

「知ってる? 本当か知らないけど、瞳孔が開くんですって」

「ん?」

「好きな人を見つめてる時よ」

 ブレンは目を細めて笑った。

「道理で、こんな暗いランプでも眩しいわけだ」

 視線が絡まる。どちらともなく、ぎこちなく唇を触れ合わせた。別にキスするのは、これが初めてというわけではない。さすがに年齢のぶんくらいには、恋も失恋も経験している。

 それでもブレンは内心、自分は下手くそだなと笑った。もしかするとアストラも、そうかもしれない。

 少しずつ歩調を合わせるように、答えを待っているかのように、もどかしいくらいに軽く触れ合わせるだけだった。それでも十分だった。

 本当は、彼女が先に言い出してくれるのではないかと、心のどこかでずっと期待していた。一歩踏み出してしまえば、自分のほうが彼女に依存してしまうことくらい、わかっていた。それに、以前と同じ形で――仕事のせいで置き去りにしたくなかったからだ。

 アストラは、そんなことは、どうでもいいと思っているのかもしれない。

「……お前はこっちに残らないと駄目だろ」

「そんなこと、わかってる」

 アストラは形のよい唇を歪めた。

「わかってるし、一ヶ月なんてすぐだけど……」

「分かった。できるだけ連絡するから」

 ブレンは彼女の耳元で囁くと、細い首筋にキスした。アストラは微かに身体を震わせた。こうして人の肌の温かさに触れるのは、いつぶりだろうか。酔いそうだと思った。

「あのカクテル、本当にノンアルコールだったか? フランツの奴、間違えたんじゃ」

「そんなこと……ないわよ」

 彼女の首筋の動脈をゆっくりと唇でなぞり、ブレンはかすかに息を吐いて笑った。

「俺より速いけど?」

「……っ、もう」

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