(2)
開店後三十分ほどすると、ブレンが珍しく一人でふらりと現れた。彼は週に一度は来店するのだが、フランツは、彼が一人で来るのを見るのは初めてだった。
相変わらず硝煙の香りを漂わせつつ、いつも通りクラリッサを注文すると、彼は飼い猫の話を始めた。どうやら職場に現れた野良猫を引き取って飼っているらしい。見た目に似合わず、その猫にぞっこんのようだ。
彼が明後日から一ヶ月ほど出張に出る間、飼い猫を預かってくれる人を探していると聞き、ルピナスは目を輝かせた。
「ぜひ! ……と言いたいところなんですが、私のアパートはペット禁止なんですよね。お店にいてもらうのは、さすがにダメでしょうか」
「どうだろうな? アレルギーがある客には嫌がられるだろうし、衛生上、気を遣わないといけないだろ」
「裏の部屋ならアーノルドが相手してくれるかもしれませんよ」
フランツの案に、ルピナスは手を合わせて名案だと言った。
「猫とじゃれるアーノルドも見てみたいですね! ああ~私も猫ちゃんがいる間は全部フランツさんに任せて遊んじゃおうかなあ」
「いいんですか? 俺みたいなレペ・アルダンに任せてしまって」
「なんだそりゃ?」
ルピナスはニヤリと笑った。
「ティタン語でヒヨッコちゃんという意味です。一人で頑張れば、聞き上手になるための、いい練習になるかもしれませんね。ところで、ブレンさん。今日は、どうしてお一人なんですか?」
彼は口元に運びかけていたグラスを宙で止めた。
「なんだ? 割と一人でも来てるだろ」
「最近は誰かと一緒でしたよね。アストラさんは残業ですか?」
「いや、知らねえ」
ルピナスとフランツは顔を見合わせた。
「喧嘩でもしました?」
「何でそうなる。あー、でも最近あいつ、機嫌悪いな。艦長の尻拭いでカリカリしてるんだろうが」
「そういう時こそ、飲みに誘って差し上げるべきなのでは?」
フランツがそう言うと、ブレンは肩をすくめた。
「俺とは口もきこうとしねえんだから、ほっとくべきだろ」
二人は、また顔を見合わせた。
「ブレンさん、それって本当に艦長さんが原因なんですか? 今までにそんなことがありました?」
ルピナスはカウンターから身を乗り出して問いただす。
「なんだよ……あいつから何か聞いたのか?」
面食らいつつ、全く心当たりがなさそうな顔でブレンが言うので、ルピナスは腰に手を当て、「もう、
「実は昨日、アストラさんが一人で来店されまして。珍しく酔いつぶれてらっしゃいました」
アストラはカウンターに叩きつけるようにしてジョッキを置いた。
「なんで、あいつはあんなに
「落ち着いてください、アストラさん」
ルピナスが
「落ち着いてなんかいられないし、
彼女は机に突っ伏した。
「私、そんなに女として駄目? ねえ……」
「いえ。アストラさんは、私がこれまでに出会った女性の中で一、二を争ういい女です。ただ、もうちょっとだけ素直だったらいいかなって思わなくもないですけど」
「それよ。それなの……」
フランツは黙って水の入ったグラスを差し出した。こういう問題は師匠に任せるに限る。
「一ヶ月も会えないなんて嫌……」
「彼、出張ですか?」
「そうよ。そんなに長くないでしょ。私が耐えられないだけ。馬鹿みたい」
「ふむ……では、素直になれる魔法を教えて差し上げましょうか」
ルピナスは手際よくノンアルコールカクテルを作ってアストラに差し出した。
「どうぞ、ゴーン・ウィズ・ザ・ウインドです。いいですか、何も言わずに、五秒間彼を見つめてください。絶対に目を逸らしちゃ駄目。それが出来たら、ひとりにしないでって言うんです。次までの宿題ですよ」
アストラはアルコールのせいか、やや焦点が定まらない薄いグリーンの瞳を赤いカクテルに向けた。
「そんなの……言える気がしない……」
「言わなきゃ永遠に、このままですよ。私が思うにブレンさんは、そこまで鈍いわけではありません。まあ鋭いほうでもないですが」
「どういうことよ?」
「ああいう職業の方は、色々と思うことがあるんでしょう」
フランツは銀食器を磨く手を一瞬止めた。なんとなく分かった気がする。いつ死ぬか分からない人間は、守リ続ける保証ができない相手を遠ざける。近付きすぎると
「それは言い訳になるの?」
「そう言って差し上げてみては?」
「はあ……」
アストラは再びカウンターに突っ伏した。
「どうせまた言い合いになるだけよ」
「宿題、ちゃんとしてくださいね」
ルピナスが詰め寄ると、アストラは、うーんと
「美味しい」
「それはサービスです。宿題をやってもらうための」
「もう、わかったわよ」
***
今夜のBGMはVa-11 HALL-Aボーナストラック・コレクションよりGaroad/Snowfall (SenzaFine Remix)です。
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