ハゲヤマ荘の一夜

冷門 風之助 

序曲

 腕時計のボタンを押し、LEDライトで時刻を確認した。

 デジタルの数字がAM:01:00と表示している。

 俺はため息をつき、湿った畳の上で胡坐を組み変えた。


 窓からわずかな月明かりが、雲の間からようやく表れ、少しばかり室内に光を与えてくれる。


 畳の上のコートを探り、俺は銀のシガレットケースを出すと、蓋を開けて特別製のシナモンスティックを出し、口に咥えた。


 あのデブの不動産屋の言葉が正しければ、もうじき”やつ”、いや、正確には”やつら”が、俺の前に姿を現す筈だ。

 思った通りだ。

 どこかで何かが動くような音がする。



 依頼人が俺の事務所オフィスを訪れたのは、今から丁度一週間前のことだった。


『何分こんな世の中なもので』と、勿体ぶった口調でそう言った男は、マスクも外さずに、取り出した抗菌ウェットティッシュで神経質そうに手を拭ってから、肥った身体を窮屈そうにソファに埋めた。

 そのティッシュを捨てもせず、俺がれてやったカップの取っ手を包むようにして摘み、マスクの顎の部分を持ち上げて啜り込み、慌てて皿に戻し、また啜るという動作を何度も繰り返す。


 差し出された名刺によれば、彼の名前は『高木元』といい、渋谷で不動産業をやっているという。

 俺の事は新聞に出した広告で知ったという。


 彼が話始めようとする前、俺はいつも通りの口上を切り出した。


探偵料ギャラは一日六万円、他に必要経費。拳銃などの武器が必要な仕事であるなら、先に仰ってください。危険手当として一日四万円の割増し料金をつけます。後は契約書をお読みになって、納得が出来たらサインをお願いします』

 彼はウェットティッシュを取り換え、マスクを持ち上げると、またコーヒーを啜った。

 

 それから咳ばらいを一つして、渡された契約書を端から端まで読むと、俺が卓子テーブルに置いたボールペンに見向きもせずに、上着のポケットから自前の万年筆(かなり高級なものだろう)を出して、サインをし、印鑑を捺し、

『これでいいですか』と、テーブルに置き、俺の方に差し出した。


 俺はそれを受け取り、彼の顔を眺めながら、

『結構』とぶっきらぼうに返すと、腕を組んだ。


『依頼したいのは、実は・・・・』そこで再び彼は口ごもる。


『幽霊を追い出して貰いたいのです』


 余りにも唐突な言葉に、俺は、


『幽霊?』と、いつになく甲高い声で聞き返し、口の端のシナモンスティックを床の上に落としそうになった。

 

『”ほんとにあった何とか”なら、テレビ局にでも持っていくんですな。』


『私は真剣なんです』


 彼は卓子テーブルに両手を突き、身体を前に乗り出す。 横に広がった身体が、倍ぐらいに広がって見える。


『分かりました。もう一度座って、最初から落ち着いて詳しく話してください。』


 彼は再びソファに座りなおす。テーブルが揺れ、カップの中のコーヒーに波紋が浮かんだ。


『私の会社が管理している荒川区にある小さなアパートなんですが』高木氏は随分と勿体つけた口調で話し始めた。



 そのアパートは、JR三河島駅から南に30分ほど行ったところにある。


 築50年、鉄筋二階建て、1DK、トイレはあるが風呂は無し、とくれば、どんなに結構な代物か、まあ大体想像がつくだろう。


 彼は今から3年ほど前、このアパートを競売けいばいで手に入れ、内装にいささか手を入れて入居者を募ったのだが、どういう訳か住人が殆んど、いや全くと言ってよいほど居つかない。


 敷金、礼金、そして家賃とも、相場の半額にしたというのに、大抵の入居者が長くて半年。早いのになると、わずか一カ月で逃げるように引き払ってしまうという。


『それが幽霊のせいだと?』


 俺が聞くと、彼はまたウェットティッシュを取り出して顔を拭い、頷いた。



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