薔薇色ルージュにくちづけを

伽月るーこ

それは、ある日の出来事

 上条家の朝は、屋敷中に響く女中の大声からはじまる。


「おくさまぁあああああっ!」


 何度注意してもなおらない癖に、若き上条夫人・さちはため息をついた。

(……少し、甘やかしすぎたかしら)

 彼女がここへ来て、だいぶ経つ。

 元は農家の出だが、その血筋は遠い上条家の親戚に当たるらしい。さちが上条家へ嫁いだ翌日、彼女は畑仕事を終えた泥だらけの格好でこの家の門を叩いた。

『おっとうに言われて、来ました!!』

 持って生まれたものか、畑仕事の賜物たまものか。

 彼女の声は、とにかく大きかった。

 最初は面くらっていたさちだったが、今ではくったくなく笑う彼女に毒気を抜かれ、ついつい注意することを忘れてしまう。きっと、年齢が近いこともあるのだろう。

 だが、彼女はこの家へ奉公に来ているのだ。

 行儀見習いも、そのうちに入っている。彼女のためにも、ここはひとつ、上条夫人として注意をしなければいけなかった。

 彼女のためにもならないのだから、と気持ちを新たにしたさちは、どたどたと足音が近づいてくるドアを見つめた。

「奥さまっ!!」

 ばんっ。と、勢いよくドアを開けた件の女中・ミチは、廊下を走ってきたのだろう。おさげを左右に揺らし、肩で息をしている。鼻のあたりにあるそばかすを撫で、切りそろえられた前髪を揺らし、くりっとした目がさちに向けられた。

 だが、口を開こうとしたさちよりも早く――彼女は、後ろ手でドアを閉めた。

「奥さま」

 そして神妙な顔をしてから、顔を真っ赤にしてこう言い放った。

「旦那さま、やっぱり浮気してますっ!」

 鼻の穴を広げて得意げな表情をしたミチが、褒めてほしい犬のそれと重なる。

 思わず噴き出した。

「ちょっとさっちゃん。笑うことはないでしょ、笑うことは!」

「でも、今のみっちゃんの顔が、シロに似ていて……ッ」

「それ、隣の家で飼ってる犬じゃない!!」

 憤慨するミチに、さちは笑った。

 もうすっかり、注意をするどころではない。

 ミチに親しげに呼ばれてしまったら最後、さちはただのになってしまう。さちもそこまで身分が高いというわけではない。政略結婚で嫁いだ先が、世間における身分の高い家だっただけだ。だから、親しげに話しかけられても特別それを咎めはしない。人前でなければ、だが。

 そのため、ミチと過ごす時間は内緒に遊びにくる友人との語らいになる。

 ひとしきり笑ったさちは、まぁまぁと言って拗ねる友を前に話を元に戻した。――自分の夫・義巳よしみへの浮気疑惑へ。

「それで、今日は一体何が出たのかしら」

 さっきまで読んでいた本を上等なテーブルの上に載せ、さちはティーカップを手にする。すっかり冷めた紅茶を口にして、ミチの話を待った。

「この間と同じです。シャツに紅ですよ、くちべに! しかも、椿のように真っ赤な!」

 興奮するミチを横目に、さちはティーカップをソーサーに置いた。

「この間はおしろいの匂いが、ぷんぷんしていました! ……ああ、もう、さっちゃん、まだ若いのに!! それをあの、えと、あの、おじさんは……!」

 きっと、人を貶めるような言葉を知らないのだろう。悪態をつきたいが、言葉が見つからないのか、振り絞るようにしてミチは言った。

「まぁ見てくれは若いけど!」

 誰に言うわけでもなく続けたミチの言葉に、笑いが漏れる。

 確かに上条家当主・上条義巳は三十五という年齢のわりには若く見えた。そこに嫁いださちは、十九という若さ。それでも、嫁ぐには少し遅いぐらいだ。だが、政略結婚において、年の離れた結婚というのは、そう珍しくはない。

 よくある話、と言われる範囲内だ。

 両親の事業がうまくいかなくなり、両親の意向で彼との縁談が持ち上がった。年齢を考えても、最初は妹に嫁がせるつもりだったらしいが、妹には意中の相手がいた。内緒の恋を、姉であるさちにだけ、話してくれたのだ。

 それを知っているから、さちは自分の意志を両親に伝えた。

『私が嫁ぎます』

 と。

 別に、こうなる原因を作った実家の両親を恨んでいるわけではない。なるべくしてそうなった、そう現実を素直に受け止めていただけだった。

 それが、政略結婚だ。

 良いも、悪いも。

「英雄、色を好むとはまさにこのことですね!」

 目の前で怒りを露わにするミチに対し、さちは何も言わない。それを、ミチは不思議に思っていたのだろう。おさげを揺らして、覗き込むように顔を近づけてきた。

「……さっちゃん、悔しくないの?」

 ミチの問いに、さちは目を瞬かせる。

「悔しい?」

「そうよ! さっちゃんという若い奥さんがいるのよ!? それなのに、他所に女を囲うなんて信じられないわ」

「まぁまぁ、みっちゃん落ち着いて」

「だから、どうしてそう落ち着いていられるの、さっちゃんは!」

「どうしてって……」

 そうねぇ、と首をかしげたさちは、のんびり告げる。


「だって口紅それ、私がつけたんだもの」


 だから、あの人には内緒ね。

 そう続けたさちに、ミチはこれでもかってぐらい瞠目し、絶句した。


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 夜が更け、さちは寝静まった屋敷の中を一人ランプを片手に歩いていた。

 深夜も過ぎると使用人たちも就寝し、家中の電気も消える。そういうとき、さちはランプを使った。手軽にあかりが灯るのと、この石油くささが実家を思い出すのかもしれない。独特の、それでいて懐かしい匂いに包まれ、さちはドアの隙間から漏れ出る明かりの前まで、たどり着いた。

 慎重に、と心の中で唱え、そっとドアノブに手をかける。それをゆっくり下におろしていき、極力音を出さないよう気をつけてドアを開けた。きぃ。先代のころから使われているせいか、錆びた金具から音が鳴る。この瞬間がいつも心臓に悪かった。

「……」

 書斎の中では、案の定というべきか、夫の義巳が机に顔を伏せていた。

 こんな深夜に着替えもせず寝ていたら、風邪を引く。さちは足音を立てないよう、夫のそばまで歩き、手にしたどてらをかけてやった。

 洋装のまま、眠りこけている。

 きっと、まだ仕事が残っているのだろう。普段寝るときは、寝巻き用の浴衣に着替えるのを知っている。しかしそれでも、たまに浴衣姿で仕事を続けていることもあるので、寝間着に着替えたからといって安心はできなかった。

 だからいつも、さちは隣に夫がいないのを確認してから、書斎に足を運ぶ。

 いつまで経っても寝室に戻ってこない夫を心配して、こうした深夜に。

「……あまり、無理をしないでくださいね」

 さちは祈るように、眠る義巳のシャツの襟にそっとくちづけた。

 最近、ことのほか帰宅が遅い夫の体を心配して、さちは毎晩同じ時間に起きている。そうしなければ、夫の顔を見る機会がないぐらい、彼と布団を共にしていない日が続いていた。そして、とうとう朝食の席でも彼の姿を見かけなくなったことで――幼妻の悪戯が始まったのだ。

 押し当てた唇をシャツから離し、そこにしっかりと口紅が残っていることを確認した。思わず漏れた笑みはそのままに、さちは義巳に触れたい衝動をこらえて視線を逸らす。

 そして、さちがそっと義巳のそばを離れた、そのとき。


「待ちなさい」


 呼び止められた背中がひんやりした。

 自然と、寝室に戻ろうとしていた足が止まる。

「最近、使用人たちが僕に冷たいのは、あなたのせいだね?」

 狸の化かしあいなんてことはしたくなかったが、さちは夫の声に振り向きもせず平然と答えた。

「なんのことでしょう?」

「君が今つけた口紅のことだ。……僕が信頼する吉野にまで浮気を疑われたぞ。しかも、目で」

 吉野というのは、使用人頭で義巳の執事のことだ。その吉野にまで浮気を疑われるほど、さちの悪戯は屋敷中に広がっていたらしい。それでも、悪びれることをしないさちは、そうですか、と答える。

「……いつからだ?」

 ため息の次に発せられた、咎めるような夫の声に、背筋を伸ばした。

「あなたが、私の顔を見なくなったときからですよ」

「……それではまるで、僕のせいみたいな言い方だな」

 一転して、困ったような声を出す夫に、さちはきっぱりと言い放つ。

「あなたのせいです」

 これぐらいはっきり言わないと、夫はさちの気持ちに気づかない。それを、さちは知っている。進むことも、彼の顔を見ることもできず、動けないでいるさちの背後から、ため息が聞こえた。

「……だから、悪戯を?」

「はい。少しはうろたえて、私のところに駆け込んでくると思ってましたのに、あなたったら開き直るように釈明にもこないで」

「仕事が、立て込んでいたんだ」

「ええ、ええ。妻の顔を見る時間がないぐらい、お忙しいんですものね」

「……そんなに会いたかったのか?」

 思わず物言いが拗ねたさちに、呆れたようなため息が聞こえた。そんな言い方しなくたっていいじゃない。完全に拗ねたさちが思わず振り返ったが、義巳は変わらず机に顔を伏せたまま、さちのほうを見ようとしもしなかった。

 そんな夫に、腹が立った。

 さちは、義巳のそばまで歩き、彼を見下ろす。

「あなたは、……あなたはまるで、私に会いたくないようですね!」

 声を荒げ、まるで会いたいと癇癪をおこしている子どものようで恥ずかしかった。これでは、大きな声を出すミチと同じだ。

 いつだって冷静に対処できる淑女に、と両親は育ててくれたのに、こと夫に対しては感情が溢れる。溢れてしまう。

 いい子でなんか、いられなかった。いつだって。

 顔を見ないだけで心は寂しさでいっぱいになり、会えない日が続くだけで会いたくなった。

 だから、悪戯をしたら会いにきてくれるかもしれない。――と、思った。

 でも結局、彼は会いにきてくれなかった。

「そんなことは」

 うつ伏せで話す義巳に、さちは目の前がぼやけてくる。

「じゃあ……、じゃあどうして、私の顔を見てくださらないの!?」

 悔しい。何をしてもこっちを見ようとしない、会いにこない夫の行動がわからなかった。さちの気持ちが届いていないような気がして、こんなにもつらい。

 心が、締め付けられるようだ。

「……こんなに」


 ――こんなに、好きなのに。


 届かない想いと言葉は涙とともに床に落ち、絨毯に染みを作った。ぽろぽろと涙を零すさちに、義巳は頑として顔を上げない。書斎で顔を伏せる夫と、涙を流す妻。奇妙な空間に流れたのは静寂だった。

 やがて涙とともに腹立ちもおさまったさちは、反応もなく寝たかもしれない義巳を見下ろす。これで寝られたら途方に暮れていただろう。けれど、夫の様子を観察したさちは、あることに気がついた。

 あれ、なにかがおかしい、と。

 涙を拭って目元をすっきりさせたさちは、伏せる義巳に腰をかがめて顔を近づける。そして、目を瞬かせた。


(耳が、真っ赤?)


 先ほど悪戯でつけた真っ赤な口紅が白いシャツについている少し上、耳を凝視した。

 しらうおのような手を伸ばして、さちはそっと耳の輪郭を撫でて確かめる。びくり、と肩を揺らす夫のことなど無視し、指に伝わる熱に集中した。熱い。やはり耳が真っ赤に染まっている。顔を伏せているせいか、頬も赤くなっているように見えた。

「義巳、さん……?」

「………………なにかな」

「どうして、耳が真っ赤なのですか?」

 もしかして、コレが顔を上げられない理由なのだろうか?

 さちは、答えない義巳のそばにしゃがみこむ。きっと、下から覗き込んでも彼の表情は見えないだろう。それでも、さちは待った。彼が顔を見せてくれるのを。

「……それ、疲れないか?」

「いいえ」

「もう遅いし、寝室に戻ったらどうだ」

「いやです」

「……さち」

「私、あなたの顔を見るまでは戻りません」

「いい子だから」

「義巳さん。顔を見せてください」

 一度立ち上がったさちは、彼の肩にそっと手をのせ、耳に顔を近づける。

「よしみさん?」

 それは、甘く、心が震えるような響きになった。

 顔を上げて、と懇願するように夫の名を大事に囁いた直後、その手をぐっと掴まれる。ようやっと、夫が顔を上げてくれた。

「あまり、僕の名前を呼ばないでくれるか」

「え?」


「……愛おしくなって困るんだ」


 観念したのか、ため息をついた義巳が、ゆっくりとさちのほうへ顔を向ける。久しぶりに見た夫の顔に、さちの表情が綻んでいく。まるで花が咲いたように。

 すると、義巳は一瞬苦しげな表情を見せてから、掴んださちの手を力任せに引き寄せた。

「きゃっ」

 突然、夫の腕の中に閉じ込められ、さちは驚く。久々に、彼の大きな体に抱きしめられた。安堵感とともに、嬉しさが湧き上がるが、このままでは彼の顔が見られない。

「は、はなしてください!」

「だめだ」

「これでは、義巳さんの顔が見えません」

「見なくていい」

「いやです」

「それに、さっき見ただろう」

「ちょっとだけです! 全然足りません! もっと……、もっとさちに顔を見せてください」

 ねだるように囁けば、その耳はさらに赤くなった。

「僕が、……あなたの顔を見られない」

「どうしてですか? もう、さちのことはお嫌いに」

 否定するように抱きしめる腕に力がこめられたら、それ以上は言えない。

 何も答えてくれない沈黙の中、触れ合うところから、義巳の心臓の音が伝わる。とくんとくん。いつもより速い鼓動に、さちは不思議に思った。

 今さら、何を緊張することがあるのか、と。

 しかし、その疑問は彼の一言で解消された。


「……かわいいから」


 耳を、疑った。

 聞き返そうと口を開けたが、目の前に見える義巳の耳がさらに赤く染まっていく。

「あなたは最近、よりいっそうかわいく、……その、素敵な女性になるものだから……、顔を合わせるのが、その、恥ずかしい」

「……え?」

「あなたは僕のせいだと言ったけれど、それは僕の台詞なんだよ、本当は」

 抱きしめていたさちを、ゆっくり解放した義巳は、恥ずかしげに睫毛を伏せた。

「ああ、だから会いたくなかったんだ。こんな情けない顔をあなたに晒すぐらいなら、会わないほうがいいと……!」

 今すぐにでも頭を抱えだしそうなかわいい夫を前に、さちは口を開く。

「……よしみさん?」

 名前を呼んだ。

 これでもかってぐらい、優しい声で。

「なんだ」

「私の顔を見なくなった理由というのは、それだけですか?」

「……他に、何か理由があるとでも?」

 だいの男が恥ずかしげに頬を染めて拗ねるさまを初めて見たさちは、驚きに目を瞠った。

「頼むから、……こう、急にかわいくなったりしないでくれ。正直言って、戸惑う」

「義巳さん、それは無理な話です」

 くすくすと笑うさちに、義巳は怪訝な顔を向ける。

「だって、私あなたのことをもっと好きになったの。結婚してから、もっともっと、あなたを知って好きが重なって……、今では悪戯をしてしまうぐらい、義巳さんに会いたくなるの」

 幸せそうに微笑むさちに、義巳はまいったと言いたげに、がっくりうな垂れた。そんな義巳を前にして、さちは今まで言ったことのない本音を零す。

「……政略結婚も、悪くないって思いました。あなたに出会って」

 実は、政略結婚を気にしていたのは夫のほうだということも、さちと年齢の近いミチを上条家へ奉公に上がらせたのが夫だということも、さちはなんとなく知っていた。だから、自分の言葉で少しでも夫の心が軽くなるのなら、と微笑む。

 義巳はさちの思ったとおり、苦笑した。

「そうかい? 僕は、……僕と結婚したことを、後悔しているものだと思ったよ」

「後悔なんてそんな。あなたは、私を好きにさせてくれたじゃありませんか」

 何を言っても敵わない、そう判断したのか、義巳が微苦笑を浮かべてさちの顔を正面からしっかり見つめる。

「僕は、……君に出会って、愛おしいという気持ちを知った」

 さちの頬に手を這わせ、今度は困ったように笑う。その表情から葛藤が垣間見えたさちは、首をかしげた。

「どうか、しましたか?」

「……真っ赤な唇をした妻に、深夜襲われるというのは……なかなかだな」

「え?」

「いつもより艶やかなあなたに、誘われているようだ」

 そんなつもりがなかっただけに、さちは赤面する。

「困ったな。ますます、……その唇に触れたくなる」

 さっきまで顔を真っ赤にして恥ずかしがっていたのは義巳のほうなのに、その立場がいつの間にか逆転している。恥ずかしげもなくくちづけをねだってくる夫に対し、妻は赤く彩った唇を尖らせた。

「……許可を得なくてもいいのに」

「ん?」

「なんでもありません」

 くすくすと笑うさちを膝の上にのせた義巳は微笑み、「ずるいな」と呟く。吐息が触れたかと思うと、すぐにやわらかな感触が押し付けられた。

 待ちわびた、愛する夫からのくちづけに心が甘く震える。

 もうちょっと、もう少しだけ。

 しかし、ついばむように唇を食んだ義巳とのくちづけは終わってしまう。残念に思うさちに、彼は額をこつんと付け合わせてきた。

「……もっと?」

 さちと同じ薔薇色の唇をした夫が、甘い声で囁く。

 この誘惑に耐えるつもりもなければ、拒否するつもりもない。

 ずっと、待っていた。

 さちが返事をするよりも早く、義巳の唇が触れ――重なる。

 互いの唇が同じぬくもりになるころ、夫は妻を抱き上げ、寝室に向かった。

 くちづけは、そのままで。

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