中 君だけに好かれたかった

 これで全てが終わってしまうんだ。

 喉元のナイフの温度が感じられない。

 正面から浴びる愛に似た狂気は、最早空気と変わりないと思える程に感覚が麻痺してしまっている。

 迫り来る恐怖も。

 昨日の後悔も。

 明日への希望も。

 何もかも遠く向こう側。

 空っぽの胸の内、たったひとつだけ残った感情。

 貴方の声をもう一度だけ……。



「夏芽ー、余弦定理が私を虐めるー、助けてー」

「……一ノ瀬に聞けばいいじゃん」

「だって まりあ、今日塾行くって言ってたし」

 それにあの子は私に恋愛感情に似た想いを抱いている。ふたりきりには出来ればなりたくない。私はあの子の事は大事な友達のひとりとしてしか見てあげられないから。

「だからって何で俺に毎回きくんだよ?」

 ……ばかだなぁ。

「幼馴染ってやつじゃん? 友達じゃん? しかも席はお隣じゃん? 断る理由は……」

「無いですね」

「やった!」

 こんな会話が、テスト前の日常だった。

 放課後の西日の差す教室でふたりで机を並べ、私は夏芽に数学を教わる。代わりに私は英語を教えてあげるのだ。

 部活の無い放課後の教室に残る物好きは高校生になった今でも私と彼以外はそう居ないようで、終礼が終わって30分もしない内に校舎は静まりかえっていた。

 私と、彼の声と、時計の秒針がリズムを刻む音だけがしていた。

 今日が初めてではないのに、ふたりきりの勉強会はこっそりと秘密を作っているようで、私の鼓動はひとり速くなっていた。隣の彼は気付いているだろうか? 勉強を理由に私が君を引き留める意図も。

 シャープペンシルが数式を歌い、黒い文字が羅列されたページがめくられた午後5時半。

「瑠奈ってさ、友達多いのに何で毎回俺に勉強聞くの?」

 君と一緒に居る口実を作る為だよ、なんて言えるはずもなく、

「いちばん夏芽が上手に教えてくれるからだよ」

 と、精一杯の返事をした。……嘘はいっていないから。

「俺より鈴谷の方が頭いいじゃん」

「……彼とは色々あって気不味いんで無理デス」

 眉根を寄せ、小首を傾げる。

「喧嘩でもした?」

 そんな可愛らしいものじゃない。言っても良いだろうかと少し躊躇ったが

「……この前振った」

「?????」

「全体的にタイプじゃなかった」

「?????」

「あと、好かれたいのは鈴谷君じゃない」

「????……え?」

 妙な詮索が始まってしまいそうなので笑って誤魔化してみた。

 好意を持って欲しいのは後ろの席の男の子でも、常に隣に居たがる女の子でも、用事を作って話したがる先輩でもないんだ。

 隣の席で、小学校からの幼馴染で、何でも話せるくらい私が気を許すトモダチの─────

 君だよ、夏芽。

 ……どうして体はこうも素直なんだろうね。

 熱を帯び、赤らんだ顔を見られないように下を向く。

 ……真っ直ぐに想いを伝えたい。

 ……正直に生きたいよ。

 黙り込んでいたら額に温かい物がコツンと当たった。

「慣れないクセに頭使ってるみたいだから、ん」

 ブラックの缶コーヒー。

 嫌になっちゃうなあ、本当に。

「夏芽のクセに……ありがと」

「妙に素直じゃん」

「普通、こういう時は甘いのを渡してくると思う」

 気まずそうに彼は後頭部をかいた。

「鈴谷に腹が立って」

「私関係ないじゃん」

「逆ギレされた……」

「もう夏芽とゲット アロングしない」

「古語的な意味でですね」

「普通に酷くない? 私は仲良くしないって言っただけなのに、可哀想な人って……。割とストレートなわるぐちじゃない!?」

 時計の針は45分をまわっていた。

「よし、もうひと頑張りしますか、瑠奈さん?」

「そうですね、夏芽さん」

 眠気覚ましに片手にコーヒーを握って英文を書き連ねる。

 再び訪れた静寂。

 紙をめくる音、シャープペンシルを走らせる音、時計の秒針の音……。教室にいるのが自分だけなのではないかという錯覚はいつの間にか消えてしまった。

 とうに沈んだ夕日の代わりに、白く月が輝き始めた。

「……な、……なさん、るなさん、瑠奈」

 呼ばれているのが自分だと気付くのに時間がかかった。

「ああ、夏芽か」

 呆れたように彼はあんぐりと口を開いた。

「夏芽か、じゃねぇよ」

 右手に持ったレモン色のシャープペンシルをひったくられる。

「ほら帰るぞ、片付けろ」

 そう言って彼はペンケースに消しゴムやマーカーを無造作に片付ける。


 窓の外はいつの間にか群青色から紺色に。空の上方から墨汁を垂らされる様に、だんだんとひとつの色に染まろうとしていた。

 電車の車窓から見える街は、チカチカと頼りなさげにネオンが同様に主張を始める。

 暗闇に飲まれないように細かな星屑は、私が参考書をはぐるのに呼応して光を放つ。


 最寄り駅に着く頃には、彼の頬を月が青白く照らしていた。

 時代錯誤な古い街灯の下、いつも通り彼と並んで歩く。

「……瑠奈、」

「どうした?」

「……月が綺麗ですね」

 急に柄にもなくどうした?

「そうだね?」

 隣を歩く彼は目を細め、歩調を速める。

「あーあ! これだから学のないヤツは!」

 だから、急にお前はどうした!?

「るなちゃん、いみわからない」

「本読め」

「うん? わかった」

 じゃあ、と手を振って暗闇に学ランの彼は消えていった。


 月が綺麗ですね、か……

 きっと何か意味があるんだろうな。


 ペンケースを開いて気付いた。

「夏芽のシャーペンじゃん…」

 いや、それだけじゃない。

 器用にも彼の空色のシャープペンシルに私レモン色の蓋が付いている。

「どんな悪戯小僧だよ……」


 悪戯の真意も彼の言葉の意味も明日聞こう。

 机の上に乗っている手付かずの参考書と共に微睡みに消えた。


 翌朝は雪がちらついていた。

 純白の花弁はコンクリを埋めるほどの脅威は無く、地面に触れた瞬間には静かに消えていた。

 冷たい風は冬の匂いがした。


 いつも通りのはずの日常。

 大好きな貴方に会えるはずの朝。


 そんなものは何処にも見あたらなかった。


 扉の向こうの教室は咽び上がるほどの血の匂いがした。

 目の前のかつては人だったもの。

 血の海を泳ぎ、事切れたもの。

 助けを求めて此方を見るもの。

 次は自分の番か……?

 クラスメイトを斬殺しているのが自分の友人だと誰が気付くだろうか?

「……まりあ?」

 返り血を浴びた彼女はいつも通り恥じらいをみせ、

「瑠奈ちゃん、会いたかったぁ」

 そう言って血に塗れた手で此方の手を握る。

「瑠奈ちゃんと一緒にいる時間、誰にも邪魔されたくないからみぃんなころしちゃうんだ」

 ナニヲイッテイルンダロウ

「私以外の子が瑠奈ちゃんのこと好きになっちゃうから」

 ダレカタスケテ

「瑠奈ちゃんが好きな人も殺せば、私の事好きになってくれるよねぇ!」

 シニタクナイ

 誰か助けて怖いどうして死にたくない殺さないで何で嫌だ恐い帰りたい逃げたい君は何処ヤメテ助けてまだ生きたいシニタクナイごめんなさい私が何をした殺さないで怖い嫌だ来ないでイヤダなきたい怖い助けてよ夏芽!

「瑠奈!」

 そんなに白い顔でこっち来られても安心できないよ。

「一ノ瀬お前、こいつの手離せよ!」

 語尾が震えてるよ。

「瑠奈ちゃんを愛していいのは私だけよ?」

「馬鹿言ってんじゃねえ!」

 振りかぶった拳がまりあの顔面に当たった。

 数歩よろけ、彼を睨みつける。

 ニタリと笑ってナイフを右手に持ち変える。

「そっか、瑠奈ちゃんが悲しむ顔は見たくなかったんだけど」

 血溜まりの上を小柄な体躯に見合わぬ速さで駆け、彼に馬乗りになる。

「後悔しても遅いよぉ」

 何でこんな時に!

 いちばん動かなきゃダメな時に!

 ここで動かなきゃ後悔するってわかってるでしょ!

 動きなさいよ……!

 へたり込んでる場合じゃないでしょ!

「まりあ、退いてよ、夏芽から離れてよ……」

 声は掠れるだけだった。

「いちの、せ…、るなに、指、一本、ふ、れ…るな」

 彼の目は憤怒の色をしていた。

 小柄な体躯に対抗する事が出来ず、一方的に唸りを上げている。

 大動脈に浅く刺した傷からは止む事なく血液が流れている。

「最後の言葉はなぁに?」

「逃げ…て…」

 ぐしゃり

 朒を断つ音がした。

 彼女の胸ぐらを掴んでいた手から力が抜ける。


 プツンと何かが切れた。

 何か大事なものをこの時無くしたんだと思う。

 血の匂いも

 死への恐怖も

 助けを縋る意味も

 何も感じられない

 目の前で起きている現実は何処か遠い世界の様だ。


 されるがままに喉元へナイフが当たる。

 耳元で囁く彼女の声を聞き取る事は不可能。


 貴方の声をもう一度だけ……


 自分の喉元に、柄まで刺さったナイフがあったことを彼女は知る由がないだろう。

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