希~ねがい~望(上)

想人~Thought~

希~ねがい~望(前編)

 空襲で焼き払われた、炎天下の街。襤褸襤褸に汚れた軍服と、疲弊しきった心身、激しい空腹感、そしてこの度の戦争で利き手である左手を失われた痛みを纏い携えながら、弥一(やいち)は一人歩いていた。燦然たる輝きを放ち乍ら、元気な姿を見せている太陽。その陽の光は、弥一の体と、辛苦・苦痛・悲痛・飢餓に打ちひしがれている人々と、無数の亡骸達に、無情にも降り注がれているのだった。その環境下を暫く歩いていると、彼はふらついた脚を徐に立ち止まらせたのであった。そして目の前にある瓦礫の山の手前にそっと腰を降ろし、一片の瓦礫を拾い上げて呟いた。

「…………ただいま」




 変わり果てた実家、変わり果てた故郷──何もかもが黒く染められ、瓦礫と化し、灰塵が舞う。弥一の目にはもう、絶望しか写っていなかった。そして、この二十代半ばの歳迄自分を育ててくれたこの家との思い出が、じわじわと込み上げられてきたのだった。自分が赤子の頃や幼少の時分に家族と写った写真が入れられている額、教科書や文房具等の学校で使っていた道具たち……家の中にある物、家族の物、全てが、何もかもが、丸焦げだ、粉々だ。

 …涙が、溢れてきた。そのまま静かに、慟哭し始めた。悲しみ、悔しさ、…孤独。肉体は、もう動きたがらない。でも、漸く、帰ってきたのである。生きて、帰ってきたのである。瓦礫(わがや)に埋もれるように、ゆっくりと横たわった。家の中にあった米も梅干しも干物も、塩らっきょうも朝鮮漬け(ちょうせんづけ)も沢庵の古漬け(ふるづけ)も、今は皆ただの灰塵。止む事の無い激しい空腹と、限界を迎えた体力……ふと、戦線に赴いていた時の事が頭を過った。




「いやぁ、良い夜だ。良い、気分だぁ……」

「こんな御時世だと言うのに呑気ですね、舟一(しゅういち)さん」

 夜空の下、弥一と舟一は駐屯地の広い芝生で日本酒の一升瓶一本を間に腰を降ろしながら、杯を酌み交わしていた。舟一は、弥一がこの戦争で知り合った、自分より二つ年上の青年である。

「呑気、か。……この酒さ、俺の故郷の地酒なんだ。大阪の穂谷(ほたに)っていう所なんだけど。少ない蓄えから奮発して、出征の祝いだって母が買ってくれたんだ」

 そう言って、舟一は湯飲み茶碗の酒を一口くいっと飲んだ。

「そう、なんですか……」

 弥一も、自分の湯飲み茶碗に入っている一杯目のその地酒を少しずつ口にしながら、「このお酒、本当に美味しいですね」と続けて返した。

「…なぁ、弥一は写真とか持ってきて無いの?」

「写真?」

「うん、家族との写真とか」

「写真ですか、いやぁ持ってきてないですね」

「へぇ、どうして?」

「だって僕、死ぬつもりとか全く無いんで」

「……ほう」

「家を出る時にね、玄関で、母が写真を差し出してきたんです。家の中庭で、父と母と妹のヱツ子と僕の家族四人皆が横一列に立って並んでいる。今から十年前の写真。だから僕、その時言ってあげたんですよ。『母さん、…行ってきます』って、笑顔でね。戦争が終わったらまたその写真は見れるのだし、何より、あなた達家族に会えるのですから、って、笑顔で。遺書も、書いていません。まぁ、決死の覚悟ならぬ、不死の覚悟ってやつですかね」

「家族を、安心させたって訳か」

「それも、ありますね。…でも、一方で、(弥一は自分の左隣に置いてあるライフルを手にして)このウィンチェスターの扱いが上手い訳でもない。だって、ある時令状を渡されて、それでこんな鉄砲渡されて戦地に行かされて、鬼畜共を排除せよ、などと言われてるんですよ。此方の意思とは裏腹に。運動神経もそこまで良いって訳じゃない。…僕は、実家の干物屋を継ぐんです。どんなに訓練を受けたってね、僕は元々軍人じゃなければ軍人になるつもりも無い、正真正銘の戦いの素人なんです。玄人にはなりたくないんです。僕は干物屋の息子……それが、紛れもない事実なんです。だから、死を覚悟するんじゃなくて、『死んでこい』っていってる上級国民に、『生きてやる!』って心の中で叫んでやってるんです。……こんな話、舟一さんにしか出来ないよ。相手国の人達も、今の僕らの様な会話を交わしてるんだろうか?愛する自国を守りたいって気持ちがあっても、わざわざ死にたいって思っている人は、本当は居ない筈ですからね。だから僕は、敵……いや、相手国の人達を殺しはしません。自分も勿論死なないように、何とか頑張ります。…こんな事を言ってるの、僕ぐらいのものかなぁ。舟一さん、他の人には内緒にしておいて下さいね、今の僕の台詞の数々」

「言わない言わない、絶対言わない。と言うより、口が裂けても言えないよ!悍ましい!…ああ、俺も、この酒と家族写真、持ってこない方が良かったかなぁ。せめて人生の最後に、と思ってたんだが、君のその強い気持ちを聞かされたら、何だか俺間違ってたみたいだな」

「いやいや、別に間違ってはいませんよ。お陰で美味しいお酒を僕は知る事が出来たんだし」

「ハハッ、そうだな。……親から授かったたった一つの命、粗末にしたら、バチが当たっちまうよな。死ぬ為に戦火に飛び込む……そんなのって、自殺と同じだもんな。自分という人間を殺す罪人になってはいけないもんな。自分自身も、相手国の人達も、殺してはいけない。…最後の夜に、こうして大好きな酒を呑めば、悔いなく安らかに死ねるだろうと思ってたんだけど、違ったな。結局俺は無理をして、それで辛い思いをしているだけだったんだ。やっぱり、君みたいに強い気持ちを持たなきゃいけないんだよ、…どうせなら。……あ、そうだ、折角だし俺の家族写真見せるよ」

 舟一は、着ている軍服の胸ポケットから写真を一枚取り出し、弥一に手渡した。舟一が中学三年生の時分に自宅の玄関前で撮影したもので、左から父親、母親、舟一、五つ下の弟の勝海(かつみ)が並んで立っている。木造の平屋で、写っている四名は皆浴衣を召している。

「父は、五年前に心臓の病で亡くなったんだ。弟は生まれつき視覚に障害を持っていてね、視界が大分ぼやけて見えるらしいんだ」

「そうなんですか…。僕の父は、十年前に脳梗塞を患いまして、左脚が麻痺しています。松葉杖が無いととても生活が出来ない状態なんですよ。いつも、凄く大変そうにしています。干物屋の仕事は母と協力しながら一生懸命頑張ってるんですけどね」

「そうか。お父さん、生きていらっしゃるのか。良いじゃないか」

「……あ、ご免なさい…」

「いや、良いんだ。……家族皆、今頃どうしているのかなぁ。無事を、祈るばかりなんだが……」

「こうして僕達みたいに、この夜空に美しく輝いている月と無数の星達を、眺めているんじゃないですか」

「…だと、良いな。……なぁ」

「はい」

「……必ず、生きて帰ろうな。……帰りを待ってくれている、人達の為にも」

「ええ。無事に帰って、そして僕の家族を舟一さんに紹介しますよ。僕家族写真持ってきてませんから」

「ハハッ、そうだな。宜しく、頼むよ。……さぁ弥一、どんどん呑もう。俺ばかりが呑んでたら申し訳無い、君も遠慮抜きで呑んでくれ!」

「はい、有り難う御座います。では、お言葉に甘えて……」

 二人で、一升瓶の酒を平らげた。酒と、肌を擽る涼風に、二人は酔いしれるのであった。




ドォォオガアアアァァァアアアアーーーンン!!!!!!




「!!!?な、何だ…ウァアアアッッ!!!」

 突然、駐屯地が大爆発を起こし、瞬く間に粉々に吹き飛ばされてしまったのだった。被爆の範囲外に居た弥一と舟一に、強烈な爆風が襲い掛かった。

 突然の出来事に、足が竦む二人。


 ……恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい、とても、とても、とても、…………恐ろしい………これが、……戦争────


 上空を、一機の戦闘機が飛行していた。

「…大丈夫ですか、舟一さん?」

「…ああ。そちらは?」

「ええ、何とか……」

「……どうした?」

「……すみません、足が、竦んじゃって…」

「仕方ないさ、こんな状況……俺も、竦んでる」

「……舟一さん、このままじゃ僕達、見付かってやられちゃいますよね」

「ああ。何処か安全な所に、一先ず避難しなければ……」

「舟一さん、あそこにある林まで走りましょう。あれだけ木が生い茂っていたら、簡単に気付かれはしないでしょう」

「そうだな。ここにいるよりかは多少はマシだ。……『死ぬつもりはない』と、さっき言った手前だしな、……行くぞ!!!」


「……しつこいな、あの戦闘機」

 戦闘機は、旋回を続けていた。林の茂みで、固唾を飲む二人。

「全くだ。あんなに飛び回ってたら、燃料切れちまうぞ。ってそんな事よりあの戦闘機、斥候機なんだろうか?ターゲットオブオポチュニティか?たった一機で攻めて来るなんてな。しかし何れにしても、こんな時間に不意撃ちだなんて、実に卑怯じゃないか」

「ええ、舟一さんの言う通りです。でも、人を殺した分だけ英雄になれるんですからね、戦争っていうのは。だから卑怯も糞も無いんじゃないですか。ただ僕等の方も、もっと警戒心を持つべきでしたね、今戦時中なんですから」

「ああ、そうだな。しかし相手さんも仕事熱心な事だ、せめてこんな気持ちの良い夜ぐらい、ゆっくりすりゃ良いのに。少なくとも俺は、ゆっくりさせて欲しかったんだが」

「同感。ただ不幸中の幸いと言って良いのかは分かりませんが、あの戦闘機のパイロット、僕等に気付いていないみたいですね」

「ああ、気付いてたらもう撃ってきてるからな。夜間の林さんに感謝しなきゃだ」

「……ん?あ、あれは……」

「どうした、弥一?」

「あそこ……」

「……あっ!」

 爆発で負傷した一人の兵士が、脚をふらつかせながら歩いているのだった。

「生き残りが居たのか…!」

「あの爆発で生きていたとは……ってそんな事より、彼危ないですよ!あんな所を歩いてたら、戦闘機に見付かってしまいます!」

「ああ、そうだよな……」

「……よし、……彼を、助けに行きます。かなりの傷を負っているみたいですし、あれでは走って逃げる事も、将又戦う事も無理でしょう。兎に角、手を貸してあげたい。何が何であっても、貸してあげなきゃ……」

「……」

「……舟一さん?」

「……俺も、同じ事を思った。……やるしか、ねぇよな……」

「ええ。……でも、…こ、…………怖い……」

「や、弥一………」

「……見付かったら、殺されますもんね」

「……」

「……」

「……」

「……おっと、何を言ってるんだ、何を弱気になってるんだ、僕は」

「……」

「……さぁ、行きますよ、舟一さん。早くしないと。……『有言実行』の、開始だ!!!」



 …………はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ────



「はぁ、はぁ、……だ、大丈夫ですか、し、しっかりしてくださ…」

「うぅぅっっ……………………」

 兵士は弥一の胸にしがみつく様にその場に倒れ込んだのだった。

「弥一、直ぐに運ぶぞ!」

「分かりました。舟一さんは両脚を持っ…」


 ドォガガガダァダガガダダガガガガガガ!!!!!!


「ウワァァァァアアアッッッ!!!!」

 突然、戦闘機の機銃が三人に襲い掛かったのだった。

「……う、ううう、っうぅぅぅぁぁぁぁ…………」

 機銃攻撃により、弥一は左手首を切断されてしまったのだった。兵士は、胴を撃たれ息を引き取っていた。

「ぐっ、うぐぐっ、…しゅ、舟一さ……!!!」

 舟一は、大量に出血し意識を失っていた。彼の両脚は、太ももから下がなくなっていた。

「舟一さん!舟一さん!!!しっかり!!しっかりして下さい!!!」

「…………う……ううぅ…………や、…………や、い、…ち、…………」

「今運びます!!」

「……に、…げ、ろ……」

「え……?」

「…見ての、通り、…お、俺は、もう、…駄、目、だ……。俺が、いたら、荷物に、なるだけだ。だから、…早く、俺を置いて、逃、げ……」

「何言ってるんですか!必ず生きて帰ろうなって、あんた言ったでしょうが!!」

「……」

「諦めちゃ駄目だ、舟一さん!!諦めたら、顔面殴りますよ!」

「……最、後、に、…大好きな、酒を、呑めて、良、かっ、た、…君、と…………」

「舟一さん!!」

「……弥一、…左、手、……」

「どうだって良い!今はそんな事は!!!」

「…………」

「…………舟一さん…………?」

「……………………あり、が、……」

「…………え?」

「……………ありが、………………と、…う………………」




 ………………………………舟、一、……さん……………………




 戦闘機が、接近していた。

「………………よくも、舟一さんを、殺したな……………………」

 ギロッ、と戦闘機を睨んだ。そして、立ち上がり銃を構えた。戦闘機は高度を落とし、弥一に機銃の照準を合わせていた。

「みんなの、仇…………舟一さんの、仇…………うぅぅぁあああああああああ!!!」

 二発、三発…と撃ち放った。片腕で射っている故、その激しい反動が弥一にのし掛かっている。しかしそれでも、弥一は機銃攻撃をかわしながら、体をよろめかせながら、ライフルを放ち続けたのだった。

「よくも、よくも、よくもぉぉぉおおおおお!!!!!!!!」

 弾が、戦闘機の動力部に命中した。機体は、煙と炎を立てながら、駐屯地のあった場所へと墜落し木端微塵に爆発したのだった。




 人ヲ 殺シテ シマッタ────────




 舟一の亡骸の傍に崩れ落ち、茫然自失とする弥一。

「…………舟一さん、……有言実行は、……不可能、だったね。……現実というものは、途轍もなく、厳しいものだ。そして、厳しくて、悲しくて、恐ろしくて、…残酷だ。……ねぇ、舟一さん、舟一さんは今、どんな気持ちでいるの?辛苦と苦痛を味わわされて殺された舟一さんは、今どんな気分でいるの?修羅の世界に理不尽に放り出されて、そして地獄の中で死んでいった舟一さん、みんな、…………どうか、安らかに……」

 人を殺してまで、友を失ってまで生きていく意味……そして、そうしていく事の先にあるもの──それって、一体、何なのですか……?




「……皮肉だな、沢山の星達が、こんなにも輝いているなんて…………」

 目を閉じた。久し振りの、実家での就寝。戦闘機を撃破した後直ぐに駆け付けて来てくれた部隊の衛生兵が左手首などを応急処置してくれたお陰で、感染症などを防ぐ事は出来た。……感謝、せねばな。この恩を一生忘れずに、親友と仲間達を失った悲しみと、沢山の人を殺してきた事実を背負いながら、これからの人生…………


 ごつごつした瓦礫に、温もりを感じようとしていた。此処は、自分の実家なのだから。

「綺麗な、タンポポですね」

「!?」

 突然、誰かの声が耳に入った。それは、どうやら弥一に話し掛けているようだった。声の主は、水色の浴衣を着た、黒髪が長くてさらっとしていて、肌が白い、とても可愛くて綺麗な二十歳ぐらいの女性だった。弥一はゆっくりと起き上がり、しゃがんでいる彼女の右隣に腰を降ろした。

「……このタンポポ、こんな過酷な環境の中で、たった一輪、堂々と胸を張って懸命に生きてるんですよ。なんて気高く、美しいお姿なのかしら」

「……おや、うちの店の玄関辺りにタンポポが咲いていたなんて、気付かなかったな。…確かに、凄く美しい。今のこの夜空に、ぴったりだ。それに、傷一つ、付いていない。不思議だ。地獄を見たから、この様に逞しい姿になったのかな?凄いな、よく生きてくれていたね、嬉しいよ」

「……これから、どんな時代が訪れるのかは分からないけれど、花や草木が溢れる世界に、また戻って欲しいな…」

「そうですね。……『人間』は、人や建物だけでなく、動物も、緑も、水も空も大地も、何もかもを汚染し、粉々に破壊してしまいました。罪滅ぼしなんて出来ない程の、甚大な罪を犯しました。犯してきました。…でも、祈ってもいいとは思いますよ。再た、美しい世界に戻りますように、ってね。街も、これからは再生されていくでしょう。いや、もしかしたら、新しく生まれ変わるかも知れません。…ただ、如何なる時代が訪れても、私達人間は、同じ過ちを繰り返してはいけない。欲に溺れたり、自己中心的になったりせずに、自然環境と人の心とが、お互いを綺麗にし合って生きていかなければならないのです。さもなければ、幸福というものは訪れて来ません。そもそも寧ろ、このタンポポのような美しいものを目にするだけで、人は心に潤いをもたらされると思うんですけどね。だから、『母なる大地』を汚すなんて自体、本当有り得ない事。僕はちっぽけな存在だし自然や社会の為に何を具体的にしていったら良いのかも分かってないんですけど、せめて自分の出来る範囲内で、何かしらやっていけたらいいかなと。それが如何にして貢献されていくのかは分かりませんが、何もしないでぼーっとしているよりかは、マシかな、と……」

 暫く、二人でタンポポを見詰めていた。そうしていると、何だか、絶望の中に希望を見ている様な気がしたのだった。タンポポが、絶望を希望に変えている様な気がしたのだった。

「…あ、あの、僕、弥一と申します」

「…弥一さん、素敵なお名前」

「ところで、こんなお時間に、こんな所で何をされてたんですか?」

「御覧の通り、タンポポを眺めていましたのよ」

「そうですか。…あの、お名前、お伺いしても宜しいですか?」

「……私、…………」



「…………夢、か…………」

 目が覚めた時は、巳の刻を回っている頃だった。弥一はゆっくりと起き上がり、タンポポを見た場所に足を運んだ。タンポポは、存在していなかった。


 この日の正午過ぎ、母の妹にあたる叔母のオトセが、弥一の家を訪れて来た。彼女は、静岡県にある塩塚(しおづか)という村で農業をしながら一人暮らしをしている。

「……あ、叔母さん!!」

 再び横になっていた弥一は、バッと立ち上がった。

「弥一!!!……よかったよ、生きていてくれて!お帰り!!はいこれ、弥一の好きな野菜の塩漬け、持ってきたよ!」

「あああ、有り難う!!叔母さん特製の塩漬けだ!頂きます!!……うっ、うううっ、おい、…美味しい……」

「弥一が生きてるって知らせの手紙が家に届いてね、もしかしたら此処に帰ってきてるんじゃないかって思って来たんだよ。…弥一、叔母ちゃんの家で一緒に暮らそう。叔母ちゃんには子供もいないし、私の夫、久太郎(きゅうたろう)叔父ちゃんも二年前に癌で亡くなったでしょう。だから弥一が来てくれたら、凄く嬉しいんだよ!」

「……分かった。有り難う。お言葉に、甘えさせて頂くよ。……父さんと母さん、ヱツ子は……?」

「……」

「……」

「……」

「……そうか。分かった。……ねぇ、叔母さん、静岡に行く前に、みんなの所に行ってもいいかな。……お別れ、言わなくちゃ。……………………」

 静かに慟哭する弥一をオトセが支えながら、二人は遺体の集積所へと向かったのだった。


 ──僕は、どうして戦っていたのだろう?いつの間にか勝手に、戦場に立たされていたんだ。理不尽に。僕の意思なんて、完全に無視。と言うよりそもそも、自分が思っている事を口にする事がまず出来ない。口に出してしまえば、非国民だのと言われ鬼畜の嗜虐家支配者達に処刑せられてしまう。連中は僕に、僕達に、見た事も会話した事もない相手国の人間を目にしたらその瞬間に殺せ!と仰言るのだ。無論、相手国の方々には恨みも殺意も一切抱いてなんかいない。しかし、此方から相手をやらなければ、此方がやられてしまう。やられてしまうと言うのは、相手国からだけでなく、祖国の上級国民連中からもと言う事。ある意味、相手国よりも恐ろしい存在だ。僕達は、皆、全員、操られていたのだ。無数の人達が、洗脳され、心を殺され、そして命を奪われたのである。

 決して修正する事が出来ない、「過去」という存在。戦争というものがなければ、こんな事になんて──これが、僕の運命?これから先、僕はどうなっていくの?

 ……思考し倦ねる。折角生きている僕のこの命を粗末にしたくないという気持ちと、絶望が、…混在している。

 誰か、教えてはくれないだろうか。これは、一体何の為の戦争だったのかを。そこに、義は存在していたのだろうか?争う事及び我々が敗北した事から得たもの、学んだ事とは?…敗戦への悔しさは、僕には御座いません。僕にあるのは、家族、家、故郷、親友、仲間……何もかもが壊滅せられた事への、強くて深い悲しみだけだ。

 ──歴史の変化に、戦は付き物だった。血を流し倒れていった英霊方にも、またその英霊方を殺した英霊方にも、共通している事がある。其れは、「国や平和の為に戦う」という信念だ。…しかし、今回の戦争は何だ?エゴイズムに駆られた欲界の愚衆生が起こした侵攻が、火種となったものじゃないか。先述の英霊方の「想い」と「死」を、蔑ろにしているのだ。同じ「地球人」として、国境を越え互いに文化を交え合ったり交流を深め合ったりしていこうという考えは持てないのか?

 ……僕の、僕達のこの「運命」は、エゴイズムが招いた結果は、これからの時代と人々に、どんな影響を与えていくのだろうか?

 ……ゾッとしてきた。これから、平和過ぎる時代が訪れそうな気がしてきたからだ。僕達の流した血で染められた歴史のページはその内色褪せ……いや忘却せられ、平和が当然過ぎるあまり平和呆けし過ぎて感覚が麻痺した人々によって、エゴイズムのサイクルが繰り返されていくんじゃないか、って、思ったからだ。自分さえ良ければ良い、他人や自然環境などがどうなろうと別に知った事じゃない、という思考が蔓延しそうな予感がする。自分が「悪」である事に気付いていない・気付こうとしない愚脳が跋扈しそうな予感がする。そうなっていくと、当然また苦しむ人達も出てくるよな。きっと、前述のヴァンダル共は、辛苦苦痛悲痛に苛まれている人達を見ると喜楽を感じてしまう、変態嗜虐家共なんだろうな。逆に、仮にもし僕がヴァンダルとして産まれていたら、若しくはヴァンダルになりうる環境で育っていたら、その際は僕もどうなっていたか分からない……。

 結局、つまり、人間という存在は、「人間」という名の妖怪なのである。他のどの妖怪よりも愚かで、短絡的で、脆弱で、残酷たらしい(むごたらしい)のである。

 ……ああ、それにしても、祖国の事を、本当はたくさん愛したかったんだよなぁ。……愛させて、くれよ。祖国の事も、人間の事もさ…。嗚呼、幸せに、なりたい…………


 ……ん?あれ?「幸せ」、って、何だっけ……?


 ……分からない。分からなく、なってしまった。大切なものを、沢山失ったのだから。一度きりのこの人生で、地獄を知ったのだから。でも、この世に産まれ落ちてしまった以上(産まれてしまった所為、と言った方が良いかしら?)、理屈なども分からずに、本能的?本質的?にその「幸せ」というものを今求めているのも、事実。幸せを求めているという事は、今の自分は幸せじゃないって事になるのかな?まぁともかく、幸せなるものの先に一体何が待っているのかなんて分かりはしないのだけれども、何だかこんな気がしてきた。…誰もが本当の幸せを手に入れれば、もしかしたらエゴイズムは、この世から消えてしまうんじゃないか?って。凄く漠然とはしているが、何だかそんな気がする。善悪の概念の均衡を崩さないように……いや、根源となる全ての悪意を根絶し尚且その概念を決して忘れずに、そうして皆誰もが幸せを手に入れられる方法があれば、良いのかも知れない。……そう、思えてきた。何かこんな事を言うと、「もう既にこの世に存在してしまっているエゴイズムという存在を今更全滅させる術なんて、ある訳無いでしょうが。そもそも、人間なんてのは面倒臭がりな生き物なんだから。どうしても全滅させたいって言うのなら、いっその事化学兵器やら生物兵器やらを使って悪人共を皆殺しにするしかないよ。言葉も通じぬ莫迦共につける薬といったら、もうそれぐらいしかないから」と、誰かに言われそうな気もしなくもない…。今僕は、戦争から生きて帰ってきて間もないので、人を殺すという考えは持ちたくないです。あと、化学兵器やら生物兵器やらを使ったら、悪人以外の人達、生物達、美しい自然も死んでしまいます。何もかもが、全て滅んでしまいます。なのでそれは絶対にやめましょう。……人生とは、実に苦労がつきものだ。

 本当の幸せ、か……。戦争がなければ、目の当たりにしなければ、戦争の悲惨さを知る事は無かったんだよな。絶望という囲いから完全に抜け出れた訳じゃない中で、幸せという、希望の光?をこの混沌とした世界で、求めている僕。その為に、一先ず、何かしら自分にでも出来る事をコツコツとやっていってみよう。例えそれが、どんなに小さな事でもね。あ、あと、生き残った他の仲間達と、そして相手国の人達に、心からエールを送ります。これからはお互いの、「幸ある未来」の為に…。……父さん、母さん、ヱツ子、舟一さん、…これで、良いんだよね……


 夜、弥一はオトセの家に居た。彼女の家は木造の平屋で、鳥渡した大家族が住める程の大きさである。多くの畑が広がっている中に建てられており、二、三百メートル距離を置いて民家や田んぼ、綺麗にせせらぐ小川も幾つか点在している。木々や草花で美しく彩られた、とてものどかで広々とした農村だ。

「弥一、お風呂沸いたから、お入り」

 中庭で涼んでいる弥一に、オトセがそう声を掛けた。

「あ、うん、有り難う」

 玄関を潜り、風呂場を目指して廊下を進んだ。そして脱衣室に入って、身に付けているものを一枚一枚脱ぎ、五右衛門風呂が設けられている浴室に足を踏み入れ徐に体を洗い始めたのだった。

「…………」

 思わず、溜め息が漏れた。

「………おや」

 ふと、「幸せ」という言葉が、頭を過ったのだった。全裸になり、桶で掬った湯を全身に掛けて垢を流すという行為から、まさかこれ程の安堵感を得られるとは、戦前考えてもみなかった。そうして石鹸や洗髪剤も使って全身を清めた後に浸かった湯舟は、もう、まさに極楽だった。…成る程、これを極楽というのか。今自分が居るこの世界(くうかん)に、痛みや苦しみ、緊張などという言葉は、存在していない。

 入浴を終え、オトセから入浴前に渡されていた、久太郎が愛用していたという紺色の浴衣を羽織り、居間へと向かった。すると、極楽を味わったばかりの弥一に、更なる至福が待ち受けていたのだった。

「…………」

 言葉が出なかった。円形の卓上に、色とりどりの料理達が敷き詰められていたのだった。

「さ、座って座って」

 台所と食卓を往来しながら笑顔で言うオトセ。おひたし、煮染め、焼き魚、塩漬け、サラダ、天ぷら、生の鶏卵、味噌汁、白米……嗚呼、みんな、とてもいい匂いだ。見ているだけでも、凄く保養になる。ぺこぺこのお腹を、どんどんどんどんと刺激してくれる。海産物と豆富と鶏卵は行商から購入しているとの事で、野菜は全てオトセが育て上げたものだ。どんどんどんどんと飽和状態に達していく、弥一の感情。

「さ、お待たせ。ご飯もいっぱい炊いてあるからね、遠慮しないで好きなだけ食べるんだよ、弥一」

 あぐらをかいて座っている弥一の左隣にオトセが腰を降ろし、二人は合掌し食事を始めた。利き手を失っている弥一に、オトセは箸ではなく匙を渡してくれたのだった。

 右手に意識を集束させ、先ず味噌汁を掬った。ゆっくりと、口に入れる。

「……お、……お、…………美味しい」

 感情が、飽和状態から限界を越えた。

「…………」

 涙が、次々と頬を滴り落ちたのだった。オトセと、目の前の全ての食材達(いのちたち)への感謝恩恵が、彼の心を動かしていたのだった。

「…………」

 無言のまま、無我夢中で食事を続けた。そんな弥一を、オトセは莞爾しながら、見詰めていた。


「……あああ、お腹いっぱいだ。叔母さん、御馳走様でした。有り難う!」

 料理はどれも量が多めに盛られていたのだが、弥一は一切残さず綺麗に平らげ、ご飯と味噌汁もそれぞれ五杯ずつおかわりしたのだった。

「あ、弥一は座ってて。片付けは私がするから、ゆっくりしてて」

「そうはいかないよ。洗い物ぐらいしないと、罰が当たってしまう。僕にも手伝わせてよ、叔母さん殆ど食べずに僕ばかりが御馳走を頂いたんだから。利き手はないけど、僕も手伝った方が、片付け早く済むでしょう?」

「……そうだね。有り難う、弥一」

 夜が、静かに更けてゆく。

 次の日から、弥一はオトセの農作業を手伝う事となった。朝食後、弥一が自らオトセに手伝わせて欲しいと申し出たのだった。初めは、

「まだゆっくりしてなきゃ駄目よ、弥一の体は癒えてないんだから」

 と断られたのだが、

「いや、もう癒えてるよ。…僕は、生きている事に、生きさせて頂いてる事に、感謝したいんだ。生きている喜び、有り難み、…幸せを、今のこの気持ちを、粗末にしたくない。じっとしてはいられないんだよ。だから、非力かも知れないけれども、せめて今自分が出来る事で、恩返しがしたいんだ」

 と強く押したので、

「……有り難うね。本当、嬉しいよ。そうしたら、弥一のお言葉に甘えさせて貰おうかね。でも、無理はしたら駄目だよ、少しでもしんどくなったら、直ぐに体を休めるんだよ」

 と返してくれたのだった。

「うん、分かった。……有り難う!」


 暫く経った、或る日の事である。いつものように、仕事を終え、入浴を済まし、居間で二人で夕食をとっている時だった。

「ねぇ、弥一」

 何故か嬉しそうな表情をしたオトセが、お吸い物を片手に言った。

「……ん?」

 野菜炒めを頬張りながら、返す弥一。

「……ウフフッ」

「……え、な、何?ど、どうしたの……??」

「……お見合い、しておくれよっ」

「ゴフォオッッ!!!……お、お見合い……?え、お、お見合い……ゲホッ」

「あー大丈夫かい、はいお水」

「ああ、有り難…ゲホッ」

「……弥一、もう、弥一もいいお歳だろう?紹介したい、娘さんが居るんだよ」

「へ、へぇ、そうなんだ……」

 結婚もお見合いも、したいと思った事がなかった。と言うより、結婚という言葉自体が頭に浮かんだ事がなかった。今がとても幸せだから、これ以上求める贅沢などない、と、自ずと感じていたのだった。…が、かと言って、お見合いを断る理由も、無い。寧ろ、折角のお誘いを断ってしまうと、それは大変失礼な話なのである。弥一は、お見合いをしてみようと思ったのだった。

「それで、そのお相手の方って、どんな女性なの?」

「サエちゃんていう十八歳の娘でね、隣町の百姓の娘さんよ。彼女の母親が、私の小学校の時からの同級生なのよ」

「へぇ、そうなんだ。サエさん、か。叔母さんのお友達の娘さんだったら、是非会ってみたいね。…何だか、お見合い、楽しみになってきたな……」


 数日後の正午、弥一とオトセは静岡市内のレストランに足を踏み入れていた。広々とした店内には客がぽつぽつと居り、大衆向けのレストランではあるのだが、洒落た洋風の内装が、高級感を漂わせていた。

「……なんか、凄く、緊張が、震えが、……」

 弥一はコップの水をガッと掻き込んでは女給を呼びおかわりを頼んでいた。六人掛けの長方形の木製のテーブル席で、和服姿のオトセを右隣に、スーツ姿の弥一はサエの訪れを待つのだった。水を掻き込みながら。

 五分後、朱色の着物を召したサエが、青い着物を召した母親及びスーツ姿の父親と共にやって来た。座っている弥一とオトセの背後から「こんにちは」とサエが声を掛けると、挨拶を返そうと二人は立ち上がった。

(き、き、……来た。嗚呼、凄い、緊張……よし、落ち着くんだ、僕。落ち着いて、よし、頑張って、あ、い、…よし、行くぞう……)

「あ、あの、初めまして、私、弥一と、申しま…………ああああっ!!!」

 バッと振り返り、バッと御辞儀をして、バッと頭を上げサエの顔を見た弥一は、大声を発したのだった。他の客と店員が視線を浴びせる。

「ちょ、ちょっと弥一、どうしたんだい大声なんか上げて!?」

「あ、あ、あ、……あ」

「???」

「ゆ、ゆ、ゆ、ゆめ……」

「ゆめ……?」

「ゆ、夢に、……あの時、僕の夢に、出てきた、あの、タンポポの女性だ!!!」

「…………はい???」

 店内にいる全ての人間が口を揃えた。

「…………」

「…………弥一、さん……??」

 恐る恐る弥一の顔を見詰めるサエ。

「…………結婚して下さい」

「…………え?えええっっ!!?いきなり!!!??」

 店内全員の弥一へのツッコミが見事にユニゾンした。

「や、弥一、あんた、熱でもあるのかい?具合、悪いのかい…?」

「い、いや、全然。ただ、僕が一番吃驚してるというか、いや、本当に夢に出てきたんだよ!」

「…わ、分かった分かった。そう言って、私達を笑わせようとしてるんだよね」

「いや、してないよ。……今初めて会った人が、夢に出てた訳ないか。夢に出てきた架空の人物が、現実世界にいる訳なんて、ないか……」

「急に冷静になったね」

「…あ、ご、ごめんなさい、サエさん。初対面なのに、会った瞬間、変な事口走りながらいきなりプロポーズだなんて、すみません。筋がおかしすぎですよね、気持ちが悪いですよね……」

「……」

「本当、ご迷惑をお掛けしました、すみません。今の発言、撤回させて頂きます。あ、いや、結婚の為のお見合いなんだから、えっと、撤回じゃなくて、その、えっと何て言うか、あの……」

「……クスッ。弥一さん、面白い方。でも、どうして謝るの?」

「……へ?」

「迷惑なんて、誰か掛けたかしら?」

「え、あ……」

「会ってまだほんの少ししか経っていませんけど、弥一さんって本当に心が綺麗で素敵な方なんだなって思いました」

「……」

「そして弥一さんのその純粋な目に、映っているのが私に見えているんです。私が、貴方と共に幸せな未来を過ごしているのが……」

「!!!」

「きっと、私達が今日こうしてお会いしたのも、『運命』だったんだと思います」

「運、命……」

「…弥一さん、今日はお会い出来て、本当に良かったです。有り難う御座います。……次は、現実世界でも一緒に、タンポポを見ましょうね。健気で強い、綺麗なタンポポを……!」

「!!!!!……さ、サエさん……」

 何だかよく分からない、いやさっぱり不可解な不可思議な現象が起きているのだけれども、何はともあれ、本当良かった。結婚おめでとう!弥一!!末永くお幸せに!!

「あ、ああ!有り難う!…ん、あれ?今誰か、知らない誰かが、僕におめでとうって、言ったような……」


 二週間後。弥一とサエは、オトセの家から520メートル離れた所にある小さな一軒家を借りて、そこに二人で暮らし始めていた。オトセと弥一と、サエの三人で農作業に打ち込む充実した日々を、送っていったのである。

 入籍してから、一年が経とうとしていたある日の夜。寝床で横になっている弥一が、隣の布団で横になろうとしているサエにごろんと体を向けて言った。

「……あのさ」

「ん?何?」

「…あの、実は、やりたい事があってね。畑を一つ、作りたいと思ってるんだ」

「あら、素敵。いいじゃないですか。何をお作りに?」

「……パセリを、育ててみようかと。戦争から生還した僕は、叔母さんのもとで世話になりながら美味しい御馳走を毎日頂いて、そして今こんなにも健やかな人間になれた。だから、僕自身の手で沢山の人を健やかにしたいと思うんだ。パセリは、栄養が豊富だからね。僕の力なんて微々たるものかも知れないけどさ、それでも人の役に立ちたいとは思んだよ」

「一生懸命に頑張ろうとする貴方のその姿、素敵よ」

「一生懸命、か…。一生懸命さが、戦争での罪滅ぼしになるのかは分からないし、亡くなった人達の分まで生きる事になるのかは分からないけれど、いやそもそも罪滅ぼし云々という言葉を口にする事自体が良いのかどうか…。…だけれども、兎に角今は、パセリ作りに力を注いでいきたい……」

「大変かも知れないけど、頑張っていきましょうね」

「ああ。協力してくれるのかい?」

「ええ、勿論。夫婦じゃないですか、私達」

「……そうだな。有り難う」

 莞爾しながら、目を閉じる二人であった。

(──きっと、僕の潜在意識は悟っていたに違いない。己の、未来の事を。あの時、夢に出てきた女性はやはりサエだった。夢の彼女は架空の人物ではなく実在している人物で、そしてその人と結婚するという、まるでグリム童話のような我が運命。…こんな不可思議な事があるなんて、実に嬉しい限りじゃないか。超常現象や心霊やらを批判している人達が可哀想だ。……現実世界では、故郷の実家にタンポポは咲いていなかった。でもそれは、僕の夢の中ではしっかりと実在していた。それを僕は、生涯の妻と共に眺めていた。いいじゃないか、素晴らしいじゃないか。これはきっと、『命の哲学』なんだ。間違いない。…素敵なヴァイタリティを、有り難う。兎にも角にも、僕は『幸せ』なのである。この感謝の気持ち、決して忘れてはならないな。そして、しっかりとこの胸に抱き続けなければな、この恩恵……)


 幸せな日々は続いた。充実した日々、有難い日々──そんな毎日が、十年、二十年……と、続いた。小さなパセリ畑には、鮮やかで美しい緑が溢れんばかりに滴り、豊かな土壌にパセリ一つ一つが力強く根付いている。それは、弥一とサエの往年の気持ちが具現化せられた姿でもあった。尚、「日本野菜ソムリエ協会」なるところが主催する「全国すこやかコンクールッ!」で、パセリは金賞を受賞している。

 パセリは、弥一とサエの子供だ。1986年にオトセが他界してから、二人はオトセの仕事を継ぎながらも、オトセの作物(こどもたち)と自分達二人の子供達に愛情を注ぎ続けていったのだった。




 ──2006年7月、サエが、肺炎により他界した。2005年の冬から体調を崩し始め、弥一は仕事の傍ら看病を続けていた。入院をした際、医者が弥一に「覚悟はなさっておいた方が良いでしょう」と告げていたのだが、それでも弥一は毎日サエの手を握り続けていたのだった。

 ──とても美しい、人でした。夢での出逢いから今迄、ずっと貴女は、輝き続けていましたね。病を患って、本当はとても苦しかったかも知れない。痛かったかも知れない。でも貴女の眠る顔は、まるで病を患っていたとは思えないくらい、清々しく爽やかでした。貴女の強さを、感じました。死に化粧が、勿体無いぐらいだったよ……


 "人は、死ぬ為に生きている"

 ある時、オトセが弥一にそう言った事がある。だとすると、サエは、その目的を果たした事になる。故郷で愛する人と共に生き、その母なる地に骨を埋める事が、彼女が懸命に生きてきた証、つまり、幸せな生涯であった事の証なのである。素敵な運命だったのではなかろうか。これが、人の生き方というものではなかろうか。

「素敵な君を、有り難う。心の底から、有り難う。……愛しているよ」

 弥一が流した涙は、サエを労う、清々しい涙だった。


 パセリを育て始めてから、弥一は毎日欠かさずやっている事がある。それは、子供達に話し掛けるという事だ。「おはよう」「気分はどうだい」「今日も良いお天気だね」……そんな素朴な言葉を、じっとものも言わぬ子供達に掛け続けている。そうしてこの日もまた、畑の前に腰を降ろして弥一は笑顔で優しく子供達に話し掛けるのであった。

「……みんな、おはよう。このところ、暫く雨の日が続いているね。きっと、恵みの雨なんだろうな。だって、皆生き生きと輝いているから。僕の心だって、じめじめしていなくて寧ろ清々しいしね。今日もまた、皆と一緒に頑張らなくちゃな。……本当に、皆美しい姿をしているよ。サエと僕のもとに生まれてきてくれて、本当に、有り難う。サエが亡くなってからもうすぐで一週間になるけど、……本当は、凄く不安なんだ。彼女の存在はとても大きかったから、僕の右手だけで、今迄のように皆をちゃんと育てていけるのか……」

 子供達の前で涙を流したのは初めてだった。いつも気丈にしているものの、愛する大切な人を失った深い悲しみは、やはり弥一の心に強く突き刺さっていたのだった。

 暫く、沈黙が続いた。さしている傘をうつ雨音が、虚しく聞こえている。

「……ねぇ、そろそろ顔を上げてよ、お爺さん。お爺さんのそんな顔、見たくないよ。いつものように、笑ってよ」

「……え、……あ、ああ。ごめん。そうだよね。いつまでも泣いてばかりいたら、いけないよな。よし、……って、え、あれ?だ、誰……??」

「僕だよ。ここだよ、弥一お爺さん!」

 足元にある、一房のパセリに目を遣った。

「……ぱ、パセリが、しゃ、喋…………???」

 持っている傘をボテッと落とした。

「お爺さん、今日も一日、頑張ろうね!雨、気持ち良いな♪」

 唖然とする弥一をよそに、パセリは言葉を重ねる。

「……ねぇ、お爺さん、僕達ね、とっても幸せなんだ」

「え……?」

「だってお爺さん達が毎日たくさんの愛情を注いでくれてたんだもの。ありがとう♪」

「……」

「サエお婆さんがいなくなって僕達も凄く寂しいよ。でもね、お爺さんの右手からは、サエお婆さんの愛情もいっぱい伝わってくるんだ。まるで、お婆さんがお爺さんの中で生きているかのようにね」

「……」

「毎日一生懸命、僕達の為に汗水流して働いてくれて、本当にありがとう。だから、これからも今まで通り、たっぷりの愛情を、お願いします♪」

「……あ、ああ。そうだね。分かった。僕は、…一人じゃないんだよな。……有り難う!」

 涙を拭った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

希~ねがい~望(上) 想人~Thought~ @horobinosadame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ