259・逃走劇(イシェルタside)
エスリーア公爵領・イルディルドの町。夜も明るいこの町でも、深夜ともなると、その喧騒は幾分和らいでいた。そんな夜闇を走る鳥車が一つ。中に乗っていたのは、もうまもなく捕縛命令が出される予定であるイシェルタ・エスリーアだった。
「私が何故このような目に……!」
歯噛みしながら町を脱出したイシェルタは、今後の計画を立てていた。
……もっとも、そのどれもが甘い妄想。自分に都合の良い展開を思い描いただけにしか過ぎないのだが、それでも彼女にとっては希望の光だった。
全ては順調に進んでいた。公爵の地位にいたウィンギアの妻が死に、悲しみに暮れていた彼を慰め、逢瀬を重ねていくうちに結ばれた。その後、ウィンギアに【マインド・ポリューション】を掛け、解けそうになるたびに重ね掛けして、誰にも気付かれないように出張後に行方不明という形でイルディルドから離れたところにある町の館の地下に幽閉。
娘には彼女の為に、諸外国の貴族と交流を深めていると嘘までついていた。
本来、手に入る事なんてあり得ないほどの立場。公爵夫人としての地位。贅沢な暮らし。その全てを守るためだけに動いていたイシェルタは……今、それらを失おうとしていた。
(まだ。まだ挽回出来る手は残っているはず。私の魔導で精神を操っている貴族はまだいる。そう、焦る事なんてない)
いざとなった時の逃走経路。保護してくれる貴族の手配も、事前に終わらせていた。だからこそ、冷静さを保ちながら、こうして甘い妄想に浸る事が出来た。
もっとも――それももうすぐ幕を降ろす事になるのだが。
その始まりは、人目につかぬように夜の道を進んでいた時だった。ラントルオの足元で急に起こった派手な音だけで威力の小さい爆発だった。驚いたラントルオは、ペースとバランスを一気に崩し、焼き切れていた手綱がそのまま千切れ、鳥車を横転させながら逃げて行ってしまう。
「きゃああああああ!?!?」
唐突な出来事に、頭がついていけずに叫び声を上げたイシェルタは、
「な、何が……」
やがて収まった回転と揺れに、怪我をしていないか確認したイシェルタは、状況を把握する為に外に出る。
そこにはラントルオに見放され、無様に転がっている御者と護衛の兵士が二人、見下ろすように立っている黒いローブを着た二人の男だった。
「はぁー、ほんま、つっかえんおばはんやったなぁ。なんでぼくらが後始末せんといけへんの? なぁ、そう思わん? レアディはん」
「ふん、くだらねぇな。さっさとぶち殺して女抱き行くぞ。お前もくるだろ? アロズ」
「ご一緒させてもらいますわぁ。あんさんの目利きはたしかやからなぁ。今から楽しみですわ」
目の前で話している事が、イシェルタには理解できなかった。
狐人族の訛りが強い黒ローブの男が言っている事がわからない……とかではなく、自分を殺しにきた挙句、女の話をしている事が、彼女の理解の
「あ、貴方達は……」
驚き戸惑う声を上げたイシェルタに気づいた黒ローブの男達は、互いに顔を見合わせて笑う。
「おばはん、あんた、もう用済みやて。今まで稼がせてもろたし、ほんまごくろーやったな。せめてらく〜に死なせたるから、無駄に抵抗せんでんといてな?」
「ふ、ふざけた事を……! 死ぬのはお前達です! 【マインドポリューション】!」
イシェルタは得意な精神に干渉する魔導を発動させるが、黒ローブの男達にはまるで効いていなかった。忠誠を誓う姿を強くイメージしていたイシェルタにとって、
「おー、こっわ。やっぱ無駄に歳だけとったのはあかんな。状況が全く見えてへん。レアディはんもそう思わへん?」
人を小馬鹿にするようにケタケタと笑いながらおちょくる黒ローブの男に対して、もう一人の方は喚くイシェルタに対して
「ははっ、そうだな。この女の頭ん中は、さぞかし花畑なんだろうぜ。ま、何でも良いけどよ。とっとと終わらせるぞ」
「はいはーい。ほな、さよなら。【マグマピットフォール】」
別れを告げた男の魔導が発動して……イシェルタが脱出しようとしていた鳥車の下に大きな穴が開いて、一直線に落下してしまった。
「い、いやよっ……私は、私はぁぁぁぁぁっっっ!!」
(こんなところで……! こんなところで終わる訳ない!! 私は誰よりも裕福に! 煌びやかに! 誰より――)
脱出する事も出来ずにマグマの溜まる穴の奥底に落ちて行ったイシェルタが最期に思った事。それは成り上がって得た幸運を手放したくない。最も哀れな女の末路に相応しい下卑た願いであった。
「ふん、馬鹿が。公爵に見初められたところで満足しときゃ、今頃それなりに幸せだったろうによ」
レアディと呼ばれた黒ローブの男は、イシェルタが消えた場所を眺め、唾を吐き捨てた。
「レアディはん、後始末も終わったし、さっさと行こうや」
「おう、ご苦労さん。とびっきりの酒と女を奢ってやるよ」
「さっすが! 話わかるわぁ」
もう一人の黒ローブ――アロズは、嬉しそうな声を上げて、レアディの後ろを付いて行く。
後に残ったものは何一つない。鳥車どころか、人すら。残ったのはただ、暗闇のみだった。
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